史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 会津若松駅周辺

2009年09月06日 | 福島県
(会津若松駅)
三日間をかけて会津若松から猪苗代、本宮、二本松、いわき周辺の史跡を回ってきた。早朝から日暮れまで、灼熱の墓地を歩き、寺を探し、山を登り、街を歩いた。この三日で体重は急減して、どういうわけだかからだ中が傷だらけで、脚はマラソンを走ったように激しい筋肉痛になった。今は疲労感とともに人知れぬ充実感に浸っている。三日間で撮影した写真は、六百二十五枚にのぼった(因みにモーツァルトの作品数は六百二十六)。取材から三週間以上が経過してしまったが、その間さぼっていたわけではないし、遠くに出張に行っていたわけでもない。あまりに膨大な量の画像の整理に時間がかかってしまっただけである。これからブログに掲載していきたい。

仕事を終えると、この日はさっさと帰宅した。私は何時でも出発できる状態であったが、同行する息子が卓球部の先輩の試合の応援に行ったまま帰ってこない。息子が帰宅して八王子の自宅を出発できたのは、予定より一時間遅れの午後十時であった。
この日は、ETC利用者の割引が適用となり「どこまで行っても千円」の日だったので、高速道路の渋滞が予想された。現に昼間は各地で渋滞が発生していると報道されていた。覚悟を決めてハンドルを握ったが、予想に反して会津に至るまで一度も渋滞には出会わなかった。家を出てからちょうど三時間半で、会津若松ICに一番近いサービスエリアである磐梯SAに到着した。時刻は深夜の一時半を回っており、さすがにこの時刻高速道路を走っている車は少ないが、サービスエリアは休憩を取る自動車で満杯であった。深夜というのに、係りの人が出動して空いている駐車場に誘導してくれた。
ここで夜明けまで車内で睡眠を取ることになる。息子はすやすやと寝息を立てているが、大人には狭い車内は耐え難い。どういう体勢を取っても無理がある。ほとんど一睡もできないまま夜明けを迎えた。


会津若松駅 白虎隊士像

午前五時。エンジンを始動して、会津若松の市内へ車を走らせる。電車マニアの息子は磐越西線の始発に乗るというので六時前に会津若松駅に送って、そこで分かれた。
会津若松駅前には、会津戦争の悲劇の象徴である白虎隊士像が置かれている。いまや、白虎隊は会津若松の貴重な観光資源である。お盆の時期だからといって会津若松市内で特に目立った渋滞に会うことはない。駐車場が満杯で順番待ちをすることもない。ただし、白虎隊士の墓のある飯盛山だけは異常な混雑であった。歴史上のヒーローがもてはやされるのは何も白虎隊に限った話ではないが、これがエスカレートすると、対象が美化され史実が歪められる。ヒーローの美談には気を付けた方が良い。

(弥勒寺)


弥勒寺

 弥勒寺には広沢安任の先祖の墓がある。広沢安任自身の墓は、斗南(現・青森県三沢市)にある。実は一昨年三沢を訪ねた際に広沢の墓を探したが、行き着くことができなかった。
 弥勒寺の墓地はかなり広大で、この中から広沢家の墓を探し出すのは大変である。と、思った次の瞬間、意外なほどあっさりと広沢家の墓が目の前に現れた。


廣澤家祖先之墳墓

(西軍墓地)
 西軍(薩摩、長州、土佐、肥前、大垣)の墓地である。敷地はもともと隣接する融通寺の墓地の一角であった。融通寺には戊辰戦争当時、西軍の本陣が置かれたため、西軍墓地が設けられたのも、その関係と思われる。ほかの街であれば、「官修墓地」であろうが、会津では飽くまで「西軍」である。口が裂けても「官軍」とは呼ばない。会津藩の正史である「会津戊辰戦史」では「東軍」「西軍」という表現を取っているので、ここではできるだけこれに倣うこととしたい。

 会津戦争では、西軍側にも多くの血が流れた。ここには百七十四柱の戦死者が眠る。戦後、百年近くが経ち墓地の荒廃が進んでいたが、昭和三十二年(1957)に改修工事が施された。


西軍墓地

 この戦闘における西軍側の最大の損失は、土佐藩小笠原唯八の戦死であろう。小笠原唯八は、通称を牧野群馬といい、西軍墓地の墓碑には「官軍諸道軍監牧野茂敬墓」と刻まれている(茂敬は諱)。
 小笠原唯八は、土佐藩士小笠原弥八郎の長男に生まれ、文久元年(1861)前藩主山内容堂の扈従となり、以降、抜擢を受けて藩の側物頭加役さらに大監察兼軍備御用役に進んだ。元治元年(1864)には間崎哲馬の断罪、野根山屯集事件の斬刑を執行した。のち大阪陣屋詰めとなって上阪して薩摩藩と交わるに伴い、熱心な尊攘家に転じた。慶応三年(1867)には乾退助、中岡慎太郎らと討幕の密約を結んだが、過激な言動を容堂に疎まれ、帰国、解職を命じられた。しかし、鳥羽伏見の戦争が勃発するや、大監察・仕置役として藩兵を率いて松山藩征討に赴いた。東征に際して、抜擢を受けて大総督御用掛となり(このころ牧野群馬を名乗る)、継いで諸道軍監として彰義隊戦争、東北戦争に功をたてたが、会津城攻撃戦で戦死。四十歳。


官軍諸道軍監牧野茂敬墓
(小笠原唯八の墓)

 長州藩主力の干城隊と奇兵隊は、長岡攻略に手間取り、さらに会津への途中、至るところで会津兵の抵抗に遭い、会津攻城への参戦は大きく遅れた。その結果、長州藩軍の損傷は比較的軽微であった。


長藩戦死十三人墓


戊辰 薩藩戦死者墓
松方正義の書である


官軍 備洲藩


土佐藩戦死者の墓


大垣 戦死二十人墓

(融通寺)
 会津戦争のとき、融通寺には西軍の本営が置かれていたため、戦火を免れた。墓地に町野家の墓がある。


融通寺

 町野主水は、越後魚沼郡軍事奉行に任命され、佐川官兵衛、長岡の河井継之助と連携して各地を転戦した。三国峠の戦いでは、薩摩、長州、尾張、松代、松本、飯山、前橋、高崎などの連合軍に包囲され、撤退を余儀なくされたが、当時一七歳で白虎隊士であった弟町野久吉は、長槍を手に敵中に突進した。銃撃を受けて壮絶な戦死を遂げた久吉の首塚が町野家の墓域にある。


町野久吉首塚


町野源之助重安主水の墓

 戦後、町野主水は若松にとどまり、戦死した藩士の遺骸の処理に尽力した。町野は陳情を繰り返し、ようやく戦争終結後の翌二月、遺体埋葬の許可を得た。城の内外から集められた遺体は、阿弥陀寺に巨大な穴を掘って何段にも積み重ねられたが収まりきれず、最後は土を盛った。それでも足りず、長命寺にも墓を掘って埋めた。阿弥陀寺には千二百八十一体、長命寺には百四十五体が葬られている。
 町野主水は、会津弔霊義会を設立しその初代会長に就任して、戦死者の霊を弔った。
 町野主水は、大正十二年(1923)六月永眠したが、自ら遺言して他の戦死者と同様に自分の遺体を菰で包み、縄で縛り馬で曳かせて融通寺に埋葬させたという。


町野源之助妻女家内墓

 町野主水の母、姉、妻、長女、長男と南摩三右衛門の母、息子二人は、戦火を避けて移動中鶴ヶ城落城の報に接し、坂下町勝方寺の裏山で全員が自刃している。

(実成寺)


実成寺


智現院殿良雄仁達日誠居士
(蜷川友次郎の墓)

 鳥羽伏見の戦争の敗戦が伝わると、会津藩では軍備の増強とともに兵制の改革が断行された。兵は年齢別に、朱雀隊(十八歳から三十五歳の最強部隊)、青龍隊(三十六歳から四十九歳)、玄武隊(五十歳以上)、白虎隊(十六~十七歳)の四つに分けられた。
 思えば西南戦争のときの薩摩軍も、戦争初期は一番大隊から七番大隊まで単純に数字で呼んでいたが、戦況が悪化すると編成し直して振武隊、雷撃隊などと勇ましい名前に変えている。
 このような隊名を付けた時点で、会津藩は自ら不利を宣言したようなものであった。まして本来戦闘要員に組み入れるべきではない、五十歳以上の老人や十七歳以下の少年まで戦闘に駆り出さなくてはいけなかった。既に悲劇は始まっていた。
 蜷川友次郎は、青龍隊足軽隊中隊長として白河まで出征し、会津城下の攻防でも甲賀町口で奮戦したが八月二十三日の戦闘で戦死した。


義専院勇猛日現居士
(蜷川文次郎の墓)

 友次郎弟の文次郎は、朱雀士中四番隊に属し、町野源之進主水の指揮下、越後に転戦したが、八月十一日、小松関門における戦闘にて戦死した。

(妙法寺)
 馬場新町の妙法寺には、中野竹子・優子姉妹の父、中野平内の墓である。中野平内は江戸常詰の勘定役であった。


妙法寺


中野平内翁之墓

 中野平内の墓の横には、半ば朽ちかけた、妻中野コウの墓がある。


中野コウの墓

 長女竹子は涙橋付近で銃弾に斃れたが、その後しばらくして城内と連絡が取れ、娘子隊も鶴ヶ城に入城することができた。中野コウらは、傷病兵の看護や兵糧弾薬の運搬にあたった。


日新館遺構

 妙法寺門前の欄干は、藩校日新館にあった石橋を移築したものという。

(久福寺)


久福寺

 八月二十六日に戦死した吉川寅松の墓である。墓には「義達 身居士」という戒名が刻まれている。


吉川寅松の墓(中)

(自在院)


自在院


西軍 戦死者墓

 自在院には、西軍の戦死者六人を葬った墓碑がある。

(専福寺)


専福寺

 ここにも西軍の戦死者二人が葬られている。従軍していた高田藩の人夫のものらしい。


官軍兵士二人之墓


野出家之墓

 日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
 野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。


下坂家先祖代々之墓

 砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。

(真龍寺)

 墓が広く、目的の墓に行き着くのは、かなり困難である。辛うじて柿沢勇記と宇南山壮平の墓を発見できた。


柿沢勇記の墓

 柿沢勇記は、会津藩士柿沢勇八の子で、藩校日新館に学び頭角を現した。のち藩命を受けて江戸に遊学したが、藩主松平容保が京都守護職に任じられると、公用方に抜擢された。戊辰戦争が始まると、大鳥圭介の伝習隊に投じ各地を転戦したが、四月二十三日の宇都宮城攻防戦にて両脚に被弾。その二日後に日光で死去した。享年三十六。日光観音寺にも墓がある。


宇南山家之墓

 宇南山壮平の墓である。

(本覚寺)


本覚寺


佐治次助墓

 墓碑によると、明治元年(1868)九月四日戦死。


佐治為秀墓

 明治二十年(1888)八月八日没。

(法華寺)


法華寺


三善家(長道)之墓

 三善長道は会津藩の刀鍛冶の家である。作刀は「会津虎徹」と称される。八代長道は、戊辰戦争にも参加したという。


戊辰殉難 木村一族之墓

 八月二十三日、会津若松城下の自宅で自決した木村一族の墓である。

木村兵庫 五百石。青龍寄合一番隊中隊頭。 三十九歳
木村カヨ・・・兵庫の妻。三十二歳
木村スカ・・・兵庫の娘。八歳
木村エン・・・兵庫の娘。六歳
木村幸蔵・・・兵庫の実父。六十八歳
木村ナミ・・・兵庫の実母。五十九歳
木村忠右衛門・・・兵庫の養父。六十歳
木村ナヲ・・・兵庫の養母。五十歳
木村コト・・・兵庫の義妹。二十五歳


鈴木家之墓

鈴木為輔は、会津藩青龍寄合一番隊隊士。九月二十二日朝、城頭に白旗三本を掲げ、同僚の川村三介とともに、降伏の使者として土佐藩の陣営に赴いた。白旗は城内の女性たちが、泣きながら白い布を縫い合わせたものという。
 中村彰彦は鈴木為輔を短編小説の主人公として描いた。為輔は、死んでも惜しくない者だった故に降伏の使者に選ばれたという、ちょっと滑稽な設定となっているが、戦闘中に敵の陣中に飛び込んでいくのは、相当勇気のいることだったと想像する(「開城の使者」中公文庫「修理さま 雪は」所収)。


復属之碑

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