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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 小田山周辺

2009年09月06日 | 福島県
(小田山)


小田山
鶴ヶ城三の丸付近より

柴家の墓まで到達すれば、小田山頂上まではあと一息である。喘ぎながら頂上を目指した。
途中で視界が開け、会津市内を一望に見下ろせる場所がある。戊辰戦争時、薩摩藩がここに大砲を据えて、鶴ヶ城を砲撃したという地点である。ここから城までの直線距離は約1.5km。小田山を西軍に奪われたのは、籠城軍にとっては致命傷となった。当初、砲弾は天守閣まで届かなかったが、薩軍の大山弥助が砲射角を調整して命中するようになったという。このときのちに大山夫人となる幼い山川捨松は、城中にあって西軍の砲撃に怯えていた。


小田山西軍砲陣跡から鶴ヶ城を見下ろす


西軍砲陣跡

更に歩を進めると、小田山城冠木門に行き着く。小田山城は鎌倉時代から室町中期に存在していた山城であるが、城というより砦といった風情である。一説にこの城は、黒川城(のちの鶴ヶ城)の詰め城として構築されたともいい、だとすればその昔から鶴ヶ城にとって小田山は生命線と認識されていたのかもしれない。


小田山城冠木門

小田山頂上には、名宰相とうたわれた田中玄宰(はるなか)と丹羽能教(よしのり)の墓がある。


丹羽能教墓

 丹羽能教は、会津藩士で軍事奉行、若年寄を経て家老に進み、五代藩主容頌(かたのぶ)以降四代の藩主に仕えた。文化五年(1808)会津藩が北方警備を命じられると、能教は軍事奉行として樺太へ赴いた。文化七年(1810)には江戸湾警備を命じられて三浦半島に砲台を築くなど、海防に努めた。また領内の開墾に力を注ぎ、兵法、経済に通じた家老として領民から慕われたという。


田中玄宰墓

 田中玄宰(はるなか)は、若くして田中家を継ぎ、三十四歳で家老に就いた。以後、五代藩主容頌(かたのぶ)以降三代の藩主に仕え、藩政の大改革を断行した(会津藩の「寛政の改革」と呼ばれる)。養蚕、漆木、薬用人参、紅花の栽培、漆器、酒蔵、蝋燭、陶磁器などの殖産興業に勧めるとともに、藩校日新館を創立して人材の育成に力を注いだ。文化五年(1808)六十一歳で病没したが、遺言によって鶴ヶ城と藩校日新館を望見できる小田山頂に葬られることになった。

ここにきて「熊に注意!」という張り紙に遭遇したが、ここで熊が出たら一歩も逃げられないほど、著しく体力を損耗していた。

(恵倫寺)


恵倫寺

柴四朗、柴五郎兄弟ほか、柴一族の墓がある。「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に感銘を受けた私にとって、今回の会津訪問でここだけは外せないスポットのひとつであった。本堂の裏手の山の斜面にへばりつくように墓地が広がっている。柴家の墓域を探して歩き回ったが、容易に見つからない。一旦山を降りて門前にある説明を確認すると、「裏山後方」と書いてあるので、もう一度登山である。ここまで史跡探索はほぼ予定とおり進捗したが、ここで予定外に時間を食った。否、時間以上に著しく体力を消費した。両脚は感覚が失せるほど筋肉痛になり、その後何度も攣った。ついでにいうと、この夜、寝ているときも脚が攣って、激痛に目が覚めた。
柴家の墓は、標高三百七十二mの小田山をかなり登ったところにある。その辺りまで来てようやく「柴四朗・柴五郎の墓」の所在を示す表示に出会う。


柴家の墓


柴四朗墓

 柴四朗は、藩校日新館在学中に戊辰戦争が勃発し、父佐多蔵(由道)に従って鳥羽伏見に参戦した。明治十年(1877)の西南戦争には政府軍に従って出征した。その後、アメリカのハーバード大学、ペンシルバニア大学に留学し、その間「東海散士」のペンネームで小説を執筆するなどして注目を集めた。帰国後は政治家に転じ、大隈重信、板垣退助の連立内閣では商務次官を務めた。


柴五郎墓

 柴五郎は、鶴ヶ城落城のとき未だ八歳であった。戦後、不毛の地斗南に移住して、悲惨極まる生活を送った。これについては「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に詳しい。「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」という柴五郎の叫びは胸を打つ。
 廃藩置県後、上京して陸軍幼年学校、さらに士官学校に進み、会津人として初の陸軍大将となった。日清・日露両戦役にも参加している。
 昭和二十年(1945)敗戦の報に接すると、同年十二月十三日、戦争責任を感じて自刃した。最期まで会津武士らしさを貫いた生涯であった。


柴太一郎盛道墓

 柴太一郎は、天保十年(1839)、会津城下に生まれた。父は会津藩馬術役、砲術師範柴由道。柴四朗、五郎兄弟の兄である。藩主容保が文久二年(1862)京都守護職に任じられると、先発隊として家老田中土佐(玄清)、公用人野村直臣に従って上京した。伊勢松坂の富豪世古格太郎の紹介で三条実美に謁し、以来容保と三条実美の間を周旋した。鳥羽伏見の戦争では軍事奉行添役、会津戦争では越後方面総督一瀬要人の軍事奉行添役として出陣した。越後より会津に転戦して、会津城外の激戦にて負傷した。戦後、斗南に移住して斗南藩の存立に尽くすが、糧米の代金事件に連座して投獄された。のちに会津に戻って大沼、南会津郡長を務めた。大正十二年(1923)八十五歳で没。


柴家属之墓

 柴家に残った祖母、母、太一郎の妻、妹らは、四男四朗(当時十六歳)を城に送りだしたあと、一同白衣を身につけ仏前に集まり、先祖の霊を拝したのち、母ふじ子(五十歳)が祖母つね子(八十一歳)、嫁(=太一郎妻)とく子(二十歳)、娘すゑ子(十一歳)、さつ子(七歳)の喉を突き、家に火を放って全員が自害して果てた。
 これを知った柴五郎は
―――茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ち伏したり
と書き残した(「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」石光真人編中公新書)。

(建福寺)


建福寺

今回の史跡探訪の中でもっとも困難を極めたのが、小田山山麓にある寺(建福寺、恵倫寺、善龍寺)と大窪山墓地における掃苔であった。今回、HP「戊辰掃苔録」(http://boshinsoutairoku.client.jp/)を大いに参考にさせていただいたが、古い墓石の文字はほとんど読み取れないものも多く、目的とした墓に行き着かないこともたびたびであった。現地をたずねてみて、改めてHP主催者「竹さん」の取材力に感服した。墓石の文字をひとつひとつ指でなぞったのではないかというくらいの執念を感じる。
建福寺は、只見町塩沢に戦死した長岡藩家老河井継之助の遺骨が最初に埋葬された寺である。遺骨が運ばれたのは、長岡城落城の後、長岡藩主牧野忠訓がこの寺に滞在していた関係という。のちに継之助の墓は長岡の医王寺に建てられたが、建福寺には「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」と記された墓型をした碑が建てられている。


故長岡藩総督 河井継之助君埋骨遺跡

(善龍寺)


善龍寺

苔むした古い墓石が並ぶ古刹である。同寺はもと総州(千葉県)にあったが、保科正之の会津移封とともに会津に建立された。同寺は保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展した。やはり戊辰戦争の戦火で伽藍を焼失したが、西郷家の菩提寺であったことから「奈与竹の碑」や西郷頼母一族の墓などが置かれることになった。


奈與竹之碑

 この碑は、戊辰戦争に殉じた、名前の判明している二百三十三名の会津藩婦女子の慰霊碑である。


西郷千恵子辞世碑

 この辞世は、会津婦女子の心をたまわぬ竹の節になぞらえながら、精神の強さを謳い上げたものである。

なよ竹の風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け


二十一人之墓


高木家累代之墓
(検事従四位勲四等高木盛之輔所有墓所)

高木盛之輔は十五歳のとき戊辰戦争に遭い、護衛隊として藩主の側近を勤め、滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令として活躍した。戦後、猪苗代から東京に転送幽居された。
明治十年(1877)の西南戦争には、征討軍の一員として従軍した。のち司法官となり、根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任している。大正八年(1919)死去。六十六歳。


生駒真道墓


神保内蔵助源利孝之墓


神保巌之助之墓

 神保内蔵助は、会津藩家老職で千八百石の身で、西郷頼母とともに非戦論を唱えた一人であった。文久二年(1862)藩主容保が京都守護職に任じられ上京すると、その供として一隊を率いて上洛した。元治元年(1864)の禁門の変では伏見方面に出陣し、真木和泉らを天王山に追い詰めた。
 会津戦争では六日町口で防戦につとめたが、衆寡敵せず同じ家老職の田中土佐とともに自刃して果てた。内蔵助の長男、神保修理は鳥羽伏見の戦争の直後、大阪城中の徳川慶喜に対して非戦論を説いたため、藩命により三田下屋敷にて切腹を命じられている。三十歳であった。
 神保巌之助は、神保修理、北原雅長らの弟に当たる。郡長正とともに小笠原藩に留学し、長正の介錯をしたことで知られる。


元典獄 正五位勲四等藤澤正啓墓

 藤沢正啓は林権助の率いる大砲隊に属した。のちに「会津藩大砲隊戊辰戦記」を著わした。


誠忠院義白虎勇居士
(藤澤啓治の墓)


会津藩士 伴百悦墓

 伴百悦は、代々禄五百石を食む家柄で、戊辰戦争では萱野隊の副将として越後に出陣して奮戦したが、長岡城が落ちるに及んで会津に戻って鶴ヶ城の防戦に務めた。開城後、会津藩士の屍は埋葬することが許されなかったが、度重なる嘆願の末、ようやく許可を得て阿弥陀寺、長命寺ほか各所へ礼を尽くして埋葬した。


両角大三相知之墓


中邨重成 重一 墓


加賀山翼先生墓

加賀山翼は医師。会津藩医児島雲淋の次男として生まれた。通称潜竜、仁仙と号す。加賀山太沖の養子となり、江戸で医学を修行し、御側医となり百石を賜る。安政四年(1857)、再び江戸に出て伊東玄朴、織田研斎に蘭法を学ぶ。安政六年(1959)江戸藩邸内に医学寮蘭学科を創設し、初の洋学師範を命じられた。





 墓石に彫られた文字を追うと、やはり戊辰戦役の犠牲者らしいが、墓の主は誰だか分からない。

(宝積寺)
 宝積寺口では、小田山争奪の死闘が展開された。会津藩にとって、小田山は生命線であった。小田山山頂を西軍に制圧されたとの報を受けた会津藩では、精鋭の青竜一番足軽中隊、二番新隊、草風隊を投入して奪還を図った。三隊は奮戦したが、多数の死傷者を出して撤退を余儀なくされた。


宝積寺

(大窪山墓地)
大窪山墓地は会津藩の共同墓地として初代藩主保科正之の時代に創設された、中・下級藩士用の墓地である。ほかに設置された郷之原坊主山、小山の両墓地は、商人、職人向けの墓地とされた。戊辰戦争後、会津藩士は斗南、江戸、北海道など全国に四散したため、墓碑は倒壊、埋没が目立つ。まるで「墓石の墓場」といった印象である。基数四千というとてつもない規模で、小田山を登って体力を消耗した私には、もはや大窪山墓地を漏れなく探策するだけの体力と気力がなかった。


史跡 会津藩大窪山墓地


西郷常次郎
西郷常四郎
西郷武八郎
西郷與宇

 西郷常次郎、常四郎とも鳥羽伏見の戦争もしくは戊辰戦争にて戦死。


橋爪幸茂墓


橋爪幸久墓

 いずれも八月二十三日、鶴ヶ城下にて戦死。


横山主税常忠霊神

 横山主税は、会津藩の家老。藩校日新館をトップの成績で及第した秀才で、将軍名代徳川昭武のパリ万博派遣に随行して渡仏した。この間、主税は同藩の海老名李昌とともにロシア滞在中の山川大蔵(浩)を訪問し、ドイツ、スイス、オランダ、イギリスを歴訪し見聞を広めた。一年後の慶応三年(1867)十二月帰国。戊辰戦争では白河口副総督に任命され、五月一日の白河城攻防戦稲荷山にて戦死。前途を嘱望されながら、才能と見聞を開花させる機会もなく世を去った。二十二歳であった。


横山常尹墓

 やはり八月二十三日の城下の戦闘にて戦死。


中野半三郎 同 五郎 遥拜碑

 中野半三郎は、四月二十五日の白河の緒戦で戦死。


野矢常方先生墓地

 野矢常方は、享和二年(1802)若松城下に生まれる。叔父の志賀重方に宝蔵院流高田派の槍、澤田名垂に和歌を学んで文武に秀でた。二十代で叔父の志賀重方について、黒河内伝五郎や町田伝蔵らとともに山陽・山陰・九州方面へ武者修行に出向いた。一方、和歌にも通じており、日新館の槍術師範とともに学所の師範となり、藩主・松平容敬・容保に侍詠している。八月二十三日、桂林寺町口にて戦死。六十七歳。

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4 コメント

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Unknown ()
2009-09-08 22:26:42
取材力はあまりないんです^^;
隣県ということをいいことに何度も通いつめて経験則でなんとなくわかるようになりました。
しかも私は街中の墓地よりも山間の墓地のほうが精神的には楽なんです。

大窪山は会津若松市の教育委員会が出した大雑把な墓地の地図がありますが、これがなかなか大変でして、○○家の墓地は大体はあってますが、倒壊してたり苔むしてたり、道なき道だったり、崖だったりで、恐らく10回近くは通ったと思います(汗)
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Unknown (植村)
2009-09-10 00:26:17
竹 さま

大窪山墓地に10回ですか!驚きました。
1回立ち寄ったくらいでは、膝元にも及びません。
また、会津には挑戦したいと考えていますので、今後ともご教示よろしくお願いします。
返信する
Unknown (Ik)
2018-05-24 16:46:49
植村 さま

会津藩医:児島宗説(善龍寺に埋葬)→児島雲琳(善龍寺に埋葬)→加賀山翼(児島雲琳の第二子)について調べています。
墓碑調査が未調査という情けない状態です。
児島宗説、小島雲琳の墓所について善龍寺さまに電話で伺ったところ、場所は判らないと言うことでした。
加賀山翼については、こちらのサイトで 写真を掲示されているのを拝見いたしました。

宜しければ、ご教示お願いしたいと存じます。



返信する
加賀山翼の墓について (植村)
2018-05-28 22:34:11
Ik様

問い合わせ有り難うございます。
ご質問は、加賀山翼の墓のことでしょうか。申し訳ありませんが、加賀山翼の父という児島某の墓についてはさっぱりわかりません。
会津若松を探索したのは、九年も前のことですので、正確な場所は覚えておりませんが、加賀山翼の墓はさほど奥まった場所ではなかったと記憶しています。とにかく善龍寺の墓地を歩いてみられることをお勧めします。
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