(日本原)
安達清風の屋敷跡
安達清風の屋敷跡の案内板は、国道53号の南側に立っている。安達清風は明治十一年(1878)、初代勝北郡長に就任して日本原の開拓を志し、鳥取藩士など五十四名がこの地に入植した。洋式の農具を使い、桑・茶・楮・ニセアカシアなどの栽培を試み、また有功学舎を創設して教育にも力を尽くした。
実際の屋敷跡はこの北側となる。北側は自衛隊日本原駐屯地の敷地であるが、屋敷跡だけは立ち入りが可能となっている。しかしながら、手入れがされているとは言い難い状態で、膝丈ほども伸びた雑草を踏みながらようやくのことで安達清風と森英太郎の顕彰碑に近づくことができた。
安達清風先生頌徳碑
畊隠森先生碑(森英太郎頌徳碑)
森英太郎は第二代の勝北郡長。旧岡山藩士。通称を新谷(しんがい)英太郎といった。号は畊隠。明治初年、初代郡長安達清風を援け、日本原の開墾、養蚕、牧畜の振興等に成果を挙げた。安達郡長の死後、郡長として清風の遺業を継ぎ、特に因幡道(現・国道53号)の幅員拡張屈曲の改修を行い、県道編入に努力した。また、日本原の地に漢文、数学、英語を教える林園書院を開設し、美作各地から二百有余の若者が学んだ。
安達清風の屋敷跡
安達清風の屋敷跡の案内板は、国道53号の南側に立っている。安達清風は明治十一年(1878)、初代勝北郡長に就任して日本原の開拓を志し、鳥取藩士など五十四名がこの地に入植した。洋式の農具を使い、桑・茶・楮・ニセアカシアなどの栽培を試み、また有功学舎を創設して教育にも力を尽くした。
実際の屋敷跡はこの北側となる。北側は自衛隊日本原駐屯地の敷地であるが、屋敷跡だけは立ち入りが可能となっている。しかしながら、手入れがされているとは言い難い状態で、膝丈ほども伸びた雑草を踏みながらようやくのことで安達清風と森英太郎の顕彰碑に近づくことができた。
安達清風先生頌徳碑
畊隠森先生碑(森英太郎頌徳碑)
森英太郎は第二代の勝北郡長。旧岡山藩士。通称を新谷(しんがい)英太郎といった。号は畊隠。明治初年、初代郡長安達清風を援け、日本原の開墾、養蚕、牧畜の振興等に成果を挙げた。安達郡長の死後、郡長として清風の遺業を継ぎ、特に因幡道(現・国道53号)の幅員拡張屈曲の改修を行い、県道編入に努力した。また、日本原の地に漢文、数学、英語を教える林園書院を開設し、美作各地から二百有余の若者が学んだ。