(院内銀山跡)
院内銀山 異人館跡
前回(六年前)訪問時は残雪のため通行止めとなっていて断念した院内銀山跡を訪ねた。
院内銀山は慶長十一年(1606)に発見され、以来江戸期を通じて我が国最大の銀山であった。維新後は工部省に移管され、近代化が推し進められた。明治十二年(1879)、ドイツ人技師ハンザ―、ロージングの両名を招き、その指導のもと、最新式諸機械を移入設置した。入口付近の異人館跡は外人技術者の居宅として洋式住宅が建築されていた場所である。
異人館はのちに古河組に移管され、代々の鉱山所長宅となった。鉱山の衰微にともない大正末期に払い下げられ、当時の十文字の植田銀行の建物として使用された。
院内銀山は大正年間に規模を大幅に縮小した。その後も細々と操業を続けていたものの、昭和二十九年(1954)、閉山となった。
三番共葬墓地
院内銀山は開山以来賑わいを極め、諸国から入山した有縁無縁の人々がこの地で生涯を終え、数知れない人たちが数カ所の寺に葬られた。その多くは共葬墓地に葬られ、その数三千余柱と推定されている。墓石に刻まれている最も古い年号は延享五年(1748)である。地元の老人クラブの手により定期的に清掃されているそうだが、墓石はいずれも厚く苔むしている。
三番共葬墓地の道路に面した場所に小倉藩小山勇の墓がある。
小山勇は小倉藩戦士。慶応四年(1868)七月十四日、羽後銀山にて戦死。二十七歳(二十一歳とも)。
官軍 小山勇墓
院内銀山 異人館跡
前回(六年前)訪問時は残雪のため通行止めとなっていて断念した院内銀山跡を訪ねた。
院内銀山は慶長十一年(1606)に発見され、以来江戸期を通じて我が国最大の銀山であった。維新後は工部省に移管され、近代化が推し進められた。明治十二年(1879)、ドイツ人技師ハンザ―、ロージングの両名を招き、その指導のもと、最新式諸機械を移入設置した。入口付近の異人館跡は外人技術者の居宅として洋式住宅が建築されていた場所である。
異人館はのちに古河組に移管され、代々の鉱山所長宅となった。鉱山の衰微にともない大正末期に払い下げられ、当時の十文字の植田銀行の建物として使用された。
院内銀山は大正年間に規模を大幅に縮小した。その後も細々と操業を続けていたものの、昭和二十九年(1954)、閉山となった。
三番共葬墓地
院内銀山は開山以来賑わいを極め、諸国から入山した有縁無縁の人々がこの地で生涯を終え、数知れない人たちが数カ所の寺に葬られた。その多くは共葬墓地に葬られ、その数三千余柱と推定されている。墓石に刻まれている最も古い年号は延享五年(1748)である。地元の老人クラブの手により定期的に清掃されているそうだが、墓石はいずれも厚く苔むしている。
三番共葬墓地の道路に面した場所に小倉藩小山勇の墓がある。
小山勇は小倉藩戦士。慶応四年(1868)七月十四日、羽後銀山にて戦死。二十七歳(二十一歳とも)。
官軍 小山勇墓
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