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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

箱根 環翠楼

2022年06月11日 | 神奈川県

(塔ノ沢温泉 環翠楼)

 環翠楼は、慶長十九年(1614)に湯治場として開業したという長い歴史を持つ旅館である。当時は「元湯」という名称であった。

 

環翠楼(伊藤博文書)

 

 この旅館が「環翠楼」と名付けられたのは、明治二十三年(1890)、伊藤博文が登楼した際のことである。玄関左手に伊藤博文の手による「環翠楼」の書が掲げられている。

 

不憂不惑不懼(犬養毅書)

 

環翠楼(長三洲書)

 

勝驪山

 

 環翠楼の由来となったのは、伊藤博文が当時の楼主に与えた漢詩が出典となっている。

 

 勝驪山下翠雲隅 環翠楼頭翠色開

 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯

 

 明治二十四年(1891)には、ロシア皇太子ニコライが斬り付けられる大津事件が発生したが、その一報を伊藤博文は環翠楼での宴の最中に受け取ったという。

 

凾山才一楼(渡辺千秋書)

 

皇女和宮様(静寛院宮様)遺品

 

静寛院宮五十年忌辰記念碑

 

静寛院宮に奉る歌の碑

 

 中庭には静寛院宮五十年忌辰記念碑と静寛院宮に奉る歌の碑がある。五十年忌辰記念碑は、大正十五年(1926)の建碑。阪谷芳郎の撰文、増上寺大僧正道重信教の篆額。

 歌碑には、勝海舟の歌が刻まれている。

 

 月影のかゝるはしとも 

 しらすしてよをいとやすく

 ゆく人やたれ

明治丁丑のとし晩秋応乞 勝安芳書

 

早川

 

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箱根 Ⅵ

2022年06月11日 | 神奈川県

(エクシブ箱根離宮)

 

明治天皇駐蹕記念之碑

 

 宮ノ下地区のエクシブ箱根離宮の前に明治天皇駐蹕記念之碑がある。この場所は、明治六年(1873)、行幸の際行在所となった奈良屋旅館の跡地である。

 

(芦ノ湯)

 芦ノ湯温泉の「きのくにや旅館」の向かい側に明治大帝御駐輦之所碑がある。明治天皇が当地に滞在したのは、明治六年(1873)のことである。

 

明治大帝御駐輦之所

 

(大涌谷)

 

大涌谷

 

 かつて「地獄谷」「大地獄」と呼ばれていたが、明治六年(1873)八月五日の明治天皇、昭憲皇太后の訪問を前に、「陛下を地獄にお連れするわけにいかない」という理由から「大涌谷」と改称された。

 大涌谷といえば、黒たまごが有名。五個で五百円。

 

(松坂屋旅館)

 元箱根の松坂屋旅館の前の駐車場に明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾碑がある。滞在したのは明治六年(1873)八月二十日のことである。

 

明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾

 

(箱根神社つづき)

 

箱根神社 平和の鳥居

 

明治天皇御製

 

 わが国は神のすゑなり神祭る

 昔の手ぶり忘るなよゆめ

 

明治天皇 昭憲皇太后御野立跡

 

 芦ノ湖を臨む神社通り沿いに大鳥居付近に明治天皇 昭憲皇太后御野立跡碑がある。やはり明治六年(1873)八月二十日の行幸を記念したもので、明治天皇は当地にて漁業を高覧したという。

 

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鴨宮 Ⅱ

2022年06月11日 | 神奈川県

(上輩寺)

 

上輩寺

 

 小田原駅東口駐輪場でレンタサイクルを調達し、東へ二十分以上走って、酒匂川を越えて三つ目の信号手前に上輩寺がある。寺族の墓地に戯作者柳水亭種清の墓がある。

 

當山三十四世 桂光院箕阿上人堂山和尚

(柳水亭種清の墓)

 

 柳水亭種清は、文政四年(1821)の生まれ。本名は桜沢堂山。六、七歳のとき越後に行き、その地で両親を失った。近所の寺に救われ、のち遊行上人に伴われて江戸浅草日輪寺の小僧となった。役僧時代、常盤津の女師匠が原因で寺を追われたという。黙阿弥の門に入り、総晋輔という名で狂言の作をしていたが、のち柳下亭種員の門下となり、柳水亭種清と名乗って合巻の著作に励んだ。安政末には日輪寺に赦され、明治二十年(1887)頃から相模国酒匂上輩寺の住職として晩年を過ごした。「児雷也豪傑譚」「白縫譚」など、幕末長編合巻のひきつぎ仕事をしたほか、芝居脚本を合巻化した作品が多数。非常な健筆家で、東京を去ってのちも長編史談数編、明治合巻数編、詩集などの著述がある。明治四十年(1907)、年八十七で没。

 

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小田原 Ⅷ

2022年06月11日 | 神奈川県

(小田原城つづき)

 

明治天皇行幸所

 

明治天皇駐輦趾

 

 学橋西詰に明治天皇駐輦碑と行在所碑がある。当地は足柄県庁跡で、明治六年(1873)、明治天皇が滞在した。

 

(明治天皇行幸行在所)

 小田原市内国道1号線沿いに明治天皇ゆかりの石碑が二つある。一つは「明治天皇本町行在所跡」と刻まれた石碑で、明治十一年(1878)東海北陸両道巡幸の際、明治天皇が当地に宿泊したことを記念したものである。

 

明治天皇聖蹟

 

 本町行在所跡から少し東に行くと、「明治天皇宮ノ前行在所跡」の石碑がある。明治天皇は、それまで御所の奥深くに鎮座していた江戸期の天皇とは違って、各所に行幸する天皇であった。小田原の旧本陣清水金左衛門邸には明治元年(1868)以降、五回も宿泊したという記録が残っている。

 

明治天皇小田原行在所址

 

(御幸の浜)

 御幸の浜は、明治六年(1873)、明治天皇と昭憲皇太后が滞在した場所である。

 

御幸の浜

 

台場跡

 

明治天皇臨幸記念碑

 江戸時代の台場跡に石碑が横たわっている。陸軍大将荒木貞夫の筆により「明治天皇臨幸記念碑」という文字が刻まれているはずだが、文字面が下向きになっている。

 

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秦野

2022年06月11日 | 神奈川県

(本町小学校)

 

贈従五位安居院庄七翁碑

 

 本町小学校の正門西側に安居院庄七の顕彰碑が建てられている。安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村(現・秦野市)に生まれ、長じて安居院家の養子となり、のちに報徳社を設立して二宮尊徳の教えを広め実践した人物。この石碑の書は、遠州七人衆と称された岡田佐平治の孫にあたる岡田良平(貴族院議員、枢密院顧問、大日本報徳社社長)による。

 

(出雲大社相模分祠)

 

出雲大社相模分祠

 

 出雲大社相模分祠は、明治二十一年(1888)に、島根県御鎮座の出雲大社第八十代国造千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、「秦野煙草の祖」と仰がれる草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとする。

 

分院創立者 初代分院長

草山貞胤先生

 

草山貞胤翁顕彰碑

 

 草山貞胤は、文政六年(1823)、当所氏神の社家草山和泉の世継ぎに生まれた。安政五年(1858)、十九社の神社を兼務した。嘉永五年(1852)より煙草栽培を研究し、温床の開発、育苗、早期収穫、密植多収、木枯等各種乾燥法、水車機械刻等技術革新を進め、全国より耕作指導を依頼された。貞胤は耕作指導員を多數養成して全国に派遣。我が国の煙草栽培技術革新に大きく貢献した。明治二十一年(1888)、出雲相模分院を創立し、のちに報徳二宮神社創立発起人として努力し、その初代神職となった。

 

御嶽神社

 

草山先生彰徳碑

 

 御嶽神社に隣接して草山家があるが、その庭先に草山貞胤の彰徳碑が建てられている。大正九年(1920)十月の建碑。

 

(浄圓寺)

 浄圓寺の墓地入口付近に草山家の墓域があって、その中に草山貞胤の墓がある。

 

浄圓寺

 

報徳二宮神社祠官兼少教正

草山貞胤千規矩八量大人之墓

 

 草山貞胤は、明治三十八年(1905)、八十三歳で帰幽。

 

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