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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浜松町 Ⅲ

2022年05月14日 | 東京都

(港区立いきいきプラザ)

 

赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

 

 プラザ神明のあるこの地には、江戸時代、播磨赤穂藩森家の上屋敷があった(港区浜松町1‐6‐7)。北隣には旗本屋敷があり、赤穂藩はその隣地との境に構築した境堀の護岸として石垣を設けた。江戸湾側にも石垣を組んで護岸としていた。石垣に用いられた石材の大半は、安山岩で、積み直しが確認された箇所もあったが、江戸時代前期の構築当時の姿をよくとどめている。

 

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南麻布 Ⅲ

2022年05月14日 | 東京都

(光林寺つづき)

 

辯理公使正四位勲三等平井君墓

(平井希昌の墓)

 

平井君墓誌銘

 

 平井希昌(きしょう)は、天保十年(1839)、長崎の生まれ。嘉永五年(1852)八月、唐稽古通事見習となり、文久元年(1861)、小通事助に昇進。何礼之らとともに英国船乗組の唐人に英語を学び、長崎奉行支配定役格、慶応三年(1867)、奉行支配調役並格、通弁御用頭取として翻訳通弁に当たった。維新後、長崎裁判所通弁役頭取となり、民部省、工部省に出仕し、明治六年(1873)、二等書記官として副島種臣に従い渡清。明治十三年(1880)、太政官権大書記、賞典局主事となり、ついで太政官大書記官に進んだ。明治二十六年(1893)、弁理公使として米国に勤務した。この間内政外交および外交文書の翻訳に従い、ことに賞勲制度の整備に寄与した。明治二十九年(1896)、年五十八にて没。

 墓誌銘は副島種臣の篆額、何礼之の撰文および書。

 

(天真寺つづき)

 

箐庵先生之墓(曲直瀬箐庵の墓)

 

 天真寺墓地で曲直瀬篁庵の墓を探したが、父箐庵(正隆)の墓を発見したのが精一杯であった。

 曲直瀬篁庵(こうあん)は、文化六年(1809)の生まれ。句読を安積昆斎に受け、文政六年(1823)、初めて将軍家斉に拝謁した。天保六年(1835)、製薬所見習となり、天保九年(1838)、奥詰医給事に進み、製薬所のことを掌った。弘化三年(1846)、特命により「本草経」を躊寿館に講じ、これより毎年銀十枚の賜与を受けた。嘉永三年(1850)十二月、法眼に叙され、安政四年(1857)、擢んでられて医学教督となったが、翌五年(1858)、病没した。

 

(曹渓寺つづき)

 

有馬氏累代之諸霊(有馬則篤の墓)

 

 有馬則篤は幕臣。嘉永六年(1853)正月、寄合から使番となり、安政三年(1856)、寄合火事場見廻を兼務し、安政五年(1858)、目付に進んだ。文久二年(1862)、作事奉行となり、同年十二月、小姓組番頭に進んだ。文久三年(1863)正月、書院番頭に転じ、同年五月、大阪町奉行に任じられた。元治元年(1864)、勘定奉行に転じ、道中奉行を兼務。同年十一月、江戸町奉行に進み、十二月大目付に転じ、慶応元年(1865)二月、書院番頭に再任され、同年六月、大目付、慶応二年(1866)八月、江戸町奉行を再度歴任し、同年十月、役を免じられて寄合となった。明治三十年(1897)、没。

 

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赤坂 Ⅳ

2022年05月14日 | 東京都

(澄泉寺)

 

澄泉寺

 

鶴梁林先生之墓

 

 林鶴梁(かくりょう)は、文化三年(1806)の生まれ。もとは幕府の小吏(御箪笥同心)であったが、文章を長野豊山に、経義を松崎慊堂に受け、文名大いにあがり、藤田東湖の推挽を得て、天保六年(1835)、奥火之番に抜擢され、ついで勘定留守役となった。弘化二年(1845)、甲府徽典館学頭に黜(しりぞけ)けられたが、かえって文名吏才を認められ、嘉永六年(1853)、遠江中泉代官に擢んでられた。たまたま凶歳に遭い、家財を売却して窮民救済の資に充て、備荒貯蔵の法を設け、恵済倉の制を布いた。在任六年ののち、出羽幸生の代官に転じ、文久二年(1862)、和宮付となり、ついで納戸頭に進み、布衣を許され、文久三年(1863)、新徴組支配頭となった。晩年、任を辞し、門を閉じて子弟を教え、謝して新政府に仕えず、明治十一年(1878)、その没する前日、門弟を枕辺に招いて「日本外史」楠公訣別の一章を講演し、翌日端坐握刀して瞑目した。年七十三。

 

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根津 Ⅳ

2022年05月14日 | 東京都

(玉林寺つづき)

 井上文雄と間宮永好という二人の歌人の墓を訪ねて、玉林寺を再訪した。墓地に入る所で寺の方と出会い、目的を告げると井上と間宮の墓を案内していただいた。

 

井上文雄塚

 

井上家之墓(井上文雄の墓)

 

 井上文雄は寛政十二年(1800)の生まれ。医家として田安家に仕えた。官を離れて日本橋茅場町に住した。岸本由豆流、一柳千古を歌文の師とした。新宮藩の水野忠央にも出入りして「丹鶴叢書」の編集にもあたった。歌は歌集を好んで読んだ。性質任侠の風があり、困窮の文人たちの世話もした。晩年「諷歌新聞」の歌が政府の忌諱に触れ。入獄の憂目にあった、江戸明治初期歌壇の殿将といわれる。明治四年(1871)、年七十二で没。墓石の先頭に「文雄院歌先明道居士」という法名が文雄のものである。

 

源朝臣永好墓(間宮永好の墓)

 

 間宮永好(ながよし)は、文化二年(1805)、江戸に生まれ、水戸と東京に住して、国学を小山田与清に師事して、松屋と号した。水戸藩の倭書局に入り、編輯に任じられた。維新後は朝廷に仕えて神祇権大史になった。和歌をよくし、筆礼も巧みであった。著書「国学者伝記集成」は慶長以来諸家著述目録を引いて掲げている。その他、静嘉堂文庫には妻と共著の詠草(自筆)があり、その手校本に「倭名類聚鈔」「散木弃歌集」「職原抄」などがある。明治五年(1872)、年六十二歳で没。

 ご案内していただいたお寺の方によれば、最近末裔の方も足が途絶えており、住職さんもこの墓石の撤去を考えているとのことである。

 

(天眼寺)

 天眼寺には江戸中期の儒者太宰春台の墓がある。また忍藩主松平家の菩提寺でもあり、忍藩士の墓も散見される。東条琴台(下田歌子の父)の墓も天眼寺にあるというので、墓地を歩いてみたが、どうやら琴台の墓は改葬されたようである(谷中1‐2‐14)。

 

天眼寺

 

春臺太宰先生之墓

 

松平家之墓(忍藩松平家の墓)

 

 幕末の忍藩主松平忠誠(ただ実)の墓は行田市の天祥寺にあるが、忠誠の養子で忍藩知藩事を務めた松平忠敬は天眼寺に眠っている。

 

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