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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「日本の戦死塚」 室井康成著 角川ソフィア文庫

2022年04月30日 | 書評

本書は平成二十七年(2015)に刊行された「首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか」に加筆・修正し、増補し、改題の上、文庫化したものである。もっとも大きな改訂は、巻末の「戦死塚一覧」である。原版では六六〇の類例が掲載されていたが、読者からの「ここが漏れている」という指摘を受け、一六八六例にバージョンアップしている。

本書は文庫としてはかなり分厚い五百ページを超えるものであるが、333ページ以降はひたすら全国の戦死塚のリストが続いている。幕末維新期に限定ではあるが、全国の戦死者の跡を見てきたと自負がある私としては、何といってもこのリストに釘付けになった。

幕末維新期に限って言えば、天狗党の乱と禁門の変、幕長戦争、戊辰戦争、そして西南戦争の戦死者の墓と塚に限られているので、たとえば天誅組の変や生野の変関係はごっそり抜けている。桜田門外の変で犠牲となった井伊大老、彦根藩士らの墓はリストに掲載されているが、幕末に暗殺された人物は井伊直弼だけではない。さらにいえば、戊辰戦争や西南戦争関係でも、私が訪問済みのものであって、本書のリストに掲載されていないものも多数あるので、このリストが完璧なものとは言えないだろう。それにしても、これだけの類例を全国から集めた筆者の熱意には頭が下がる。

全国を歩いていると、平将門や楠正成の首塚と称するものに出会う。本来、首は一つしかないものであるから、仮にそのうちの一つに将門や正成の首が埋葬されていたとしても、それ以外はニセモノということになる。それでも一つひとつの首塚にそれらしい伝承がある。その背景には、被葬者に対する民衆の畏れとか、同情とか、願望などがある。

将門の首塚・胴塚は、京都から東、北関東に至る太平洋側に偏在している。将門は下総国猿島郡(現・茨城県坂東市)で戦死したが、将門の首級は京でさらされ、その後切り離された胴を求めて飛び立ち、途中で落下したという、あり得ない話をもとに、各地に首塚ができたのである。

将門が戦死した天慶三年(940)から九百年余り後の幕末、近藤勇もまたその首を三条河原にさらされた。

近藤の首は、京都東山に埋葬されたという説のほか、岡崎法蔵寺、会津天寧寺、米沢高国寺に首塚と伝わるものが存在している。将門の時代と比べれば、伝承が生まれにくい時代のはずだが、それだけ近藤勇に対する庶民の畏敬や同情があったという証かもしれない。

巻末のリストでは西南戦争の戦死塚も数多く紹介されている。このGWの連休は大分県、宮崎県で西南戦争の戦跡を訪ねる予定である。本書で初めて知った戦死者の墓もあった。この時期にこの本に出会うことができて良かった。

 

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「百姓たちの幕末維新」 渡辺尚志著 草思社文庫

2022年04月30日 | 書評

先日読んだ須田努著「幕末社会」(岩波新書)で「力作」と紹介されていたので、興味をもった。早速、近所の書店で手に入れた。

幕末というと、「鎖国か開港か」「尊王か佐幕か」という主義主張で国論が割れ、日本中が沸き立つように議論が交わされていた印象が強いが、当時日本の人口の八割以上を占めていたという百姓たちは、そのような議論とは無縁の生活を送っていた。彼らは、そのような概念的な論争より、日々どうやって食っていくのか、どうやって年貢を納めるのか、どうやって先祖伝来の土地を守っていくのか、といったより現実的な課題に向き合い、必死に生きていたのである。そんな彼らにとって、尊王攘夷も開国佐幕も、言ってみればどうでも良い問題だったのであろう。

本書では山口村(現・山形県天童市)を例に取り上げ、江戸時代の村の変遷を考察している。山口村では、寛政五年(1793)時点では、全戸数が172、このうち持高0の家が82軒であった。それが幕末の慶應二年(1866)には全戸数が235に増え、持高0の家は136軒と顕著に増加している。幕末期の村は、かなりの「格差社会」であった。

村山地方は、紅花の産地であった。紅花などの商品作物の発展により、規模の小さな農家、あるいは所有地ゼロの家であっても、商品作物の生産に関わることで生計を成り立たせていたのである。商品経済や工業生産の発展にともなって、個々の百姓世帯の経済的自立度は高まり、村人同志の結びつきは次第に緩やかになっていくと考えられる。ところが、村を守るために、彼らは時として結束して問題に当たるのである。

村人の多くが困窮して年貢を納められないような場合、村役人の所有地を担保として村が主体となって借金をして、それを村人に分配して年貢を納めさせた。

実は借金を返済できずに担保に入れた土地を失っても、小作料を支払わないという、言わば不法行為に訴えて土地の奪回に努めた。百姓というのはなかなか強かな人たちだったのである。

天保四年(1833)は、全国的な大飢饉となった(天保の大飢饉)。困窮した百姓たちは、所有地を質入れして借金し、その金で食糧を購入して何とか飢えを凌ごうとした。しかし、大凶作のもとで金融事情も悪化し、なかなか金を貸してくれる人がいない。窮余の一策として、百姓たちは借金証文に記載された質入れ地に加えて、契約には現れない土地も貸し手に渡すことで、どうにか金を借りることができた。この「おまけ」の土地を「抜地(ぬけち)」と呼んだ。抜地の名目上の所有者は借り手のままであるが、実際にはその土地は貸し手に渡っている。抜地からの収益は貸し手に入るにもかかわらず、年貢は借り手が納めなくてはいけない。つまり、当座の金を手に入れる代わりに、後々ツケが回ってくるという性格のものであった。

結果、抜地が多くなるにつれ、年貢徴収が滞ることになった。天童に隣接する観音寺村(現・山形県東根市)では名主から代官に対し、質流れとなった土地を返還するよう要求を突き付けた。現代的感覚からすれば、請け戻ししたいのであれば、元金に上乗せした金額を払うのが通常であるが、江戸時代「無年季的質地請け戻し」という慣行があったので、必ずしも無茶な要求というわけでもなかった。領主にしてみれば、年貢を払えない百姓が増えることは、年貢の減収につながる忌々しき事態であった。その結果、質流れ地は、すべて元金で請け戻されることになったのである。百姓たちの全面勝利であった。

ここに登場する人物は、名主の久右衛門や貸し手の専之助といった無名の村人だけである。ここには坂本龍馬も西郷隆盛も高杉晋作も登場しない。ここで取り上げられた抜地問題は、ほんの一例であるが、おそくら日本全国でこのようないさかいが発生していたであろう。この時代の日本人の多くは、尊王佐幕の議論ではなく、このような土地問題に頭を悩ませていたのである。

百姓たちが、否応なく幕末の争乱と関わらざるを得なくなったのが、戊辰戦争であった。百姓は武器弾薬や食糧などの物資を戦場まで運搬させられ、行軍路の整備や陣地の構築などを行う軍夫として借り出された。筆者によれば、「こうした後方要員がいなければ、戦争の遂行は不可能」であり、後方任務を担ったのが百姓たちであった。

本書では、食糧を提供する代わりに村が放火されるのを逃れようとしたり、家財をかかえて山野に逃げる百姓の姿が紹介されている。多くの百姓は被害者であったが、中には積極的に戦闘に参加する者もいた。恩賞として武士身分への取り立てられることもあった。百姓が農兵となって、同じ百姓身分の者の家に放火する例もみられる。筆者によれば、「百姓は単なる無力な被害者・犠牲者」ではなく、農兵として戦闘に参加し、軍夫として軍隊を支えた。そのことは百姓が加害者にもなったことを意味している。

明治新政府による地租改正(明治六年(1873))では、全国一律の土地制度と税制が展開された。これ以降、名目上の土地所有者と実際の所有者が異なる「抜地」は解消された。一方で、無年季的質地請戻し慣行も否定された。小前百姓には光と影の部分があったが、江戸時代から続く問題は一気に解決に向かったのである。

本書は英雄の登場しない「百姓目線」の幕末維新史である。個人的にはこれまでほとんど触れることがなかった百姓の歴史を知ることができ、大変面白かった。様々なテーマがかなり深く掘られており読み応え十分。間違いなく力作である。

 

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