本書の原本は、山岡鉄舟のもとに内弟子として近侍した小倉鉄樹が語った話を、その弟子である石津寛が清書して出版を企画していた「おれの師匠」である。石津が急逝し、出版が危ぶまれているところを、遺族から遺稿を託された大学教授牛山栄治が、一部補筆して出版に漕ぎ着けたのが本書というわけである。そういった経緯があるため、三人の名前が著書として並ぶことになった。
石津寛の遺した原稿は完全なものではなかったので、牛山の調査研究や見解も反映されている。牛山はほかに「山岡鉄舟の一生」「春風館道場の人々」「定本 山岡鉄舟」などの著書もある鉄舟研究家である。
結果、どこからどこまでが鉄樹の話で、石津が補筆した部分がどこで、牛山が何を書き加えたのか、必ずしも明確ではない。
鉄樹によれば、世に鉄舟伝を称する書籍が数多あるが、いずれも正確ではない。信用できない。言外に本書こそが真に鉄舟の姿を伝える決定版だと胸を張る。
歴史学上の史料としては使えないのだろうが、鉄舟の近くで見ていた人ならではの貴重な証言が散りばめられているのが本書の魅力である。
西郷隆盛の「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ」という名言は、山岡鉄舟を念頭にしたものといわれる。確かに鉄舟は、名声や地位、金銭にまったく頓着しない人であった。鉄舟の人柄は本書の節々から伝わってくる。
鉄舟が宮内省を辞めた頃、井上馨が勅使として山岡家に下向し勲三等を下されたことを伝えた。鉄舟は堅く辞退し、井上と激論となった。鉄舟がいうには井上が勲一等で自分が勲三等とは間違っている。井上などは「ふんどしかつぎ」に過ぎない。「維新の大業は、おれと西郷と二人でやったのだ。おまえさんなんか、その下っ葉に過ぎないじゃねえか。」と強烈な言葉を浴びせた。当然ながら、井上と鉄舟は激論となった。鉄樹老人はその部屋の押し入れに潜んでこのやりとりを聞いた「実話」だという。
本当にこのようなことを鉄舟が言い放ったかどうかは不明であるが、真実とすれば鉄舟の自負が伝わるエピソードである。確かに鉄舟は名声や地位に執着はなかったし、江戸無血開城の功を勝海舟に横取りされても平然としていた。しかし、自分が命をかけて実行してきたことには強烈な自負を持っていたことが伺われる。
鉄舟は「剣と禅」を窮めた。私は剣道も座禅もやったことがないので、これを窮めたら鉄舟のような「仕末の困る人」ができあがるのかさっぱり理解できていないが、鉄舟が相当「剣と禅」に打ち込んだのは間違いなさそうである。自分でいうのも何だが、私は比較的物欲も名声や地位に対する欲も少ない方だと思うが、「人間の品」という目でみれば、全然鉄舟の足もとにも及ばない。それは「道を窮めた」という実績がないからなのかもしれない。
本書のもう一つの読みところは鉄舟の大往生のシーンである。良く知られているように鉄舟は結跏趺坐して臨終を迎えた。気息奄々として、厠にたつにも介添えが必要な状態の人間が、結跏趺坐のまま臨終を迎え、しかも絶命後もその姿勢を保ち続けるなんてことが現実に可能なのだろうか。しかし、門人中田誠実なる人がその姿を写した「鉄舟先生坐脱の図」なるものが残っていて、鉄樹老人は「よくできている」と評している。その一事をもってしても、この人は超人だったのであろう。