goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

母島 Ⅱ

2021年04月17日 | 東京都

(乳房山)

 竹芝桟橋などで無料で配られている「母島ガイドマップ」によれば、乳房山には遊歩道が整備されているが、「所要時間4~6時間(健脚向き)」と記載されている。登山口にたどりついたときには既に十時二十分。四時間もかかったら、十四時出航の母島丸に乗れないことになる。母島に宿もとっていないし、途中で引き返してでも母島丸に乗らなければならない。

 

乳房山登山口

 

 登山口から山頂まで二・三キロメートル。平地であれば、三十~四十分というところだが、場所によっては急勾配もある。私はもともと健脚でもないし、登山が不得意な方である。どれくらいで山頂に到達できるのか全く読めない。

 

 この日は、雨こそ降らなかったが、母島上空には厚い雲が漂い、母島最高峰(標高463メートル)の乳房山山頂は下から見ても雲で覆われていた。前夜の雨で遊歩道はぬかるみ、油断すると足を滑らせてしまう。特にロース石製の階段は滑るので要注意である。

 幕府が派遣した水野忠徳ら巡検隊一行は、文久二年(1862)二月十日、咸臨丸で母島に到着した。ただし、咸臨丸が着けられる入江がないため、上陸した一行はかがり火を焚いて野宿した。夜になって咸臨丸艦長小野友五郎が上陸して、十五日後に迎えにくることを約束して帰船した。

 作次郎の日記によると、この当時の母島には外国人ばかりで十七人が居住していた。男より女の方が多くて、彼らはアメリカ人で、六年前からここで生活しているという。

 二月十一日から、一行は異人を案内にたてて、「母島で一番高い山」に登った。すなわち乳房山である。

 

剣先山

 

 作次郎の日記によると、「水の涸れた滝にかかったところで、小花作之助様が一丈四~五尺(約四~四・五メートル)も落下した。」作次郎は即死だと思ったらしいが、諸薬を用いて介抱した結果、半時(一時間)ほどで息を吹き返したという。巡検隊はこの場所を「小花ころび」と名付けたというが、今となってはどの辺りなのか分からないのはちょっと残念である。

 遊歩道の両側はずっと密林である。ちょうど中間点辺りにガジュマルのトンネルがある。ガジュマルはもともと母島にはなく、移植したものが野生化したらしい。

 

ガジュマル

 

乳房山山頂

 

 登山開始から一時間十分で山頂に到着した。山頂付近の道は狭くなり、倒木で頭を打つ場面もあった。汗でティーシャツはびっしょりとなった。天気が良ければ、山頂から母島列島(妹島、鰹鳥島、丸島、二子島、姉島、平島、向島)を見渡すことができるというが、さっぱり何も見えない。

 山頂で持参したアンパンを食べていると、男女老人八人のグループが上がってきて、狭い空間は人でいっぱいになった。押し出されるように下山を開始した。帰りは一時間ほどで登山口にたどりついた。まだ出航の時間まで一時間もあった。

 

(母島小中学校)

 

御臨幸紀念

 

 剣先山へ登る遊歩道などもあったが、もはや私にはこれ以上山道を歩く体力も気力も残っていなかった。

 母島小中学校と村役場の前に行幸紀念碑が建てられている(小笠原村母島元地)。昭和二年(1927)、即位間もない昭和天皇が小笠原諸島を視察したときのものである。母島には、同年七月三十一日の昼前に上陸し、沖村を視察、午後には南京浜にて海の生物を採取された。南京浜の一部を御幸浜と呼び、そこにも行幸記念碑が建てられているが、やはりそこまで歩く気力がわかなかった。

 

行幸紀念

 

(母島のカタツムリ)

 

 

 

外来種アフリカマイマイ

 

 

 

 清見寺の墓地や乳房山遊歩道で見かけたカタツムリである。母島には母島固有種のカタツムリが棲息しているらしいが、どれが何だか分からない。一見して分かるのはアフリカマイマイだけである。

 

(母島丸)

 

母島丸

 

 帰りの母島丸に乗って三十分くらいしたところで「右手前方にクジラが見えます」と船内放送があった。母島はクジラが有名で、ホエール・ウォッチングのツアーも人気が高い。急いで甲板に上がって写真を撮ったが、うまくいかなかった。

 その後もずっと海を眺めていたら、遠くでクジラ(おそらくザトウクジラであろう)が泳いでいるのを発見した。小さいながら写真に収めることができた。

 

クジラ

 捕鯨が組織的に行われるようになったのは約一千年前といわれている。当時は沿岸まで接近したクジラに小舟で近づき、手投げ銛で仕留めて海岸に引き揚げていた。その後、沖合まで出て、数隻の船でクジラを沿岸に追い込み、網をかけて手投げ銛で仕留めるという方法に変化した。我が国でもこうした古式捕鯨が明治中頃まで行われていた。

 近代的捕鯨の最初の黄金期は十七~十八世紀、北極海でホッキョククジラの捕獲が中心であった。しかし、英・独・蘭の捕鯨競争による乱獲によりほどなく衰微した。

 第二の黄金期がアメリカ式捕鯨の時代で、マッコウクジラとセミクジラをターゲットとして、十九世紀の中期を中心に最盛期を迎えた。この頃のアメリカ式捕鯨は、三百~五百トンの大型三檣式帆船に五~六雙のボートを積み、クジラの群れを発見すると、ボートで接近して大型の銛を何本も打ち込んだ。仕留めたクジラは船上で解体し、鯨油だけを樽に詰め込んで持ち帰った。鯨油は主に灯火用に使用された。安政六年(1859)にアメリカが石油の採掘に成功して、石油が灯火用として普及するまで、アメリカ式捕鯨は続いた。昨今、欧米人はフカヒレ漁を「残酷」だと批判するが、今から百五十年前彼らは同じようなことをしていたのである。

 大西洋のクジラを取り尽くした後、十九世紀には太平洋が捕鯨の舞台となり、文政三年(1820)以降、日本近海に向かった。文政七年(1824)にアメリカ人コフィンが小笠原諸島を発見したのはある程度の必然性があったのである。コフィンの小笠原来航以来、各国の捕鯨船や軍艦が次々に父島・母島に来航するようになった。文政十年(1827)に来航したイギリス人ビーチーは父島をピール島、兄島をバックランド、弟島をステープルトン、母島諸島をベイリー諸島と命名している。文政十三年(1830)に父島に移住したセボレーらは寄港した捕鯨船に飲料水や野菜、果実、海亀等を供給して生計を立てていた。

 我が国で捕鯨砲を備えた近代的捕鯨が始まったのは、明治三十二年(1899)のことで、欧米と比べれば周回遅れといっても良い。現在、クジラが絶滅の危機に瀕しているとすれば、その責の大半は十九世紀に乱獲した欧米に帰するのは間違いないだろう。

 

クジラ

おがさわら丸船上より

 

弟島

(ステープルトン)

 

 母島丸船上からクジラを見ることができたのは幸運だったと思うが、翌日おがさわら丸で東京に戻る際にも、クジラがおがさわら丸と並走してくれた。この海域でクジラを発見するのはさほど難しいことではないのかもしれない。

 

二見港に入港する母島丸

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母島 Ⅰ

2021年04月17日 | 東京都

 小笠原滞在三日目は、母島まで往復することにした。当初は最終日、すなわちおがさわら丸で帰京する日の午前中に母島に渡り、午後父島に戻ってその一時間後に出航するおがさわら丸に乗る計画を立てていた。ところが旅行会社の方から「それじゃ母島に一時間半しか滞在できませんよ」と諭され、日程を変更することにした。母島では月ヶ岡神社とモットレー夫妻とロースの墓、ロース記念館を回るだけだったので、一時間半もあれば十分だったのだが…

 母島は父島の南約五十キロメートル(東京‐青梅間くらいの距離感である)に浮かぶ島である。母島列島というときは向島、平島、二子島、姉島、姪島、妹島などから構成される群島を呼ぶ。母島丸で片道二時間(料金は片道四三一〇円 季節によって変動する)。

 滞在時間が四時間半になったので、乳房山登頂にも挑戦することにした。結果的に体力を激しく消耗することになった。

 

(月ヶ岡神社)

 月ヶ岡神社は、母島丸が接岸する沖港のすぐ近くにある。境内には菊池虎太郎の顕彰碑が建てられている(小笠原村母島元地)。

 

月ヶ岡神社

 

菊池翁功徳碑

 

 菊池虎太郎は旧仙台藩士で、天保七年(1836)に生まれ、元治元年(1864)に蝦夷地を経て樺太に渡っている。明治二十年(1887)、母島の西浦に居住し、甘藷の栽培と砂糖の生産を行った。明治三十三年(1900)二月に六十四歳で死去した。

 母島の功徳碑は、菊池が亡くなった年の十一月に建立された。篆額は当時の東京府知事千家尊福、碑文は友人の富田鉄之助(仙台藩士、第二代日銀総裁)が撰文、樋田魯一の書。

 

沖港

母島丸が停泊している

 

 現在母島の人口は約五百。そのほとんどが沖港を囲む元村や静沢集落に集中している。戦前は北港や東港にも住民がいたが、戦時中の強制疎開以降、住民が戻ることはなかった。

 

(清見寺)

 港から徒歩五分足らずのところに清見寺がある。おそらく母島唯一の寺院であろう(小笠原村母島静沢)。そういえば父島には教会はあったが、寺院は見なかった。お寺がなくても困らないのだろうか。心配になって翌日観光案内所の方に質問したところ、父島にも扇浦に行行寺という寺が一つだけ存在しているそうである。観光案内所の方は「特に由緒がある寺ではありません」と何度も念押しされた。

 

清見寺

 

蟲塚(むしづか)

 

 清見寺墓地にある蟲塚である。母島では明治十年代からサトウキビ栽培、昭和以降は冬季野菜栽培が盛んに行われたが、バッタ(イナゴ)の大発生によってサトウキビが被害を受け、その駆除に苦慮した。農家にとって害虫の駆除は必要な作業であったが、殺生した虫の供養のためにこの蟲塚が建てられたと言われている。この蟲塚は母島における農業が戦前最も盛んだった昭和十年(1935)八月に建てられたもので、ロース石でできている。

 蟲塚のところで右折してさらに墓地を上がっていくとその突き当りにロースとモットレー夫妻の墓がある。

 

ゼイムス・モットレイ

ケテー・モットレイ 墓

 

 文久二年(1862)二月、幕府の外国奉行水野忠徳が母島に至り、住民代表ジェームス・モットレーと会見。日本領土であることを通告し協力することに同意を得た。ジェームスはイギリス人で、妻ケテーはカナダ人であった。

 菊池作次郎の日記には「母島の首長チーモウレン」として登場する。作次郎によれば「外国の男伊達風の者」という。モットレーは一族を引き連れてあちらに三年、こちらに五年と移住し、母島に来てから約六年になっていた。いずれ他に移ると語っていたようだが、結局母島に骨を埋めることになった。

 

良志羅留普墓(ロルフス・ラルフの墓)

 

 ロルフスはドイツ人で、モットレーの遺産相続人になっている。ロース石を発見したことでも知られる。

 

(ロース記念館)

 小笠原村郷土資料館は通称をロース記念館といい、ロース石製品などを展示している(小笠原村母島元地)。

 建物は、大正二年(1913)に砂糖倉庫として沖港突堤前に建てられたロース石製のもので、小笠原諸島返還後は農業組合と簡易郵便局として使用された。昭和五十七年(1982)、解体保存され、昭和六十年(1985)に現在地に移築復元された。屋根はオガサワラビロウを用いたシュロッ葉葺きとなっている。

 

ロース記念館

 

ロース石製品の展示

 

ロース石

 

ロースから小花作助に差し出した書簡

 

 明治二十九年(1896)、ロルフスが上京し、小花作助に面会した際に写真を撮った。その御礼を伝えるために代筆して出したものである。

 ロース記念館の前にロルフスの胸像があるが、この時撮影した肖像写真をもとに作製されたものである。

 

ロルフスラルフ 良志羅留普之像

 

 フレデリック・ロルフス(1823~1898)通称ロースは、ドイツのブレーメン生まれで、捕鯨船の船員であった。明治二年(1869)、母島に来島し、先に住んでいたジェームス・モットレー夫妻とともに沖村に居住した。明治十一年(1878)、日本に帰化し、良志羅留普と改名した。ロースは、モットレー等と母島の開拓に力を尽くし、石材を発見し、その利用法を島民に伝えたことから、その石は「ロース石」と呼ばれることになった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島 Ⅴ

2021年04月17日 | 東京都

(南島)

 延宝三年(1675)の嶋谷市左衛門の巡検の際に南島と名付けられ、幕末の巡検隊もその名前を踏襲している。文字とおり、父島の南西にある。

 南島にはガイド付きのツアーに申し込まないと渡ることができない。一説には「小笠原で最も美しい」とも言われ、それを想うと非常に心が動いたが、ツアーだと行動が制約されるし、興味のないところで長々と解説を聞かされるのも苦痛である。今回の小笠原滞在中、私は自転車か徒歩で動いたが、そういう人間は希であろう。何等かのツアーを申し込むのが一般的と思われる。

 

南島

 

 コペペ海岸まで自転車で往復したというと、地元の人は「よく頑張りましたね」と誉めてくれたが、かなり坂もきついし(電動自転車であっても上れないほど)、時間もかかるので、余程体力に自信のある方でなければ、あまりお勧めはしない。

 

(釣浜海岸)

 

釣浜海岸

 

 釣浜海岸も幕府巡検隊による命名。小笠原高校の前の坂を上ると入口がある(小笠原村父島釣浜)。

 

(宮の浜海岸)

 宮の浜という地名は、延宝三年(1675)の嶋谷市左衛門による命名という。近辺に神社があったからというが、誰が建てた神社だろうか。湾を出ると兄島との間を兄島の瀬戸と呼ばれる速い海流が流れているので、湾の外に出るのは大変危険である(小笠原村父島宮之浜)。

 

宮の浜海岸

 

ヤマブキベラ

 

咸臨丸で来島した幕末巡検隊で絵図を担当した宮本元道(大垣藩医)は「小笠原魚鱗介図」や父島、母島の「真景図」を残した。ヤマブキベラは熱帯から亜熱帯の海では普通に見られる魚であるが、宮本元道の絵図では「ゑいぞう」という名称で紹介されている。ゑいぞうという名前の人物がいつも釣っていたことからこのように名付けられたという。

 

ヤリカタギ

 

フエヤガラ

 

スジクロハギ

 

ロクセンスズメダイ

 

 最終日は特にすることがなかったので、宮の浜でシュノーケリングをすることにした。自転車も貸し出している小笠原観光でシュノーケリング道具も貸してくれる。

 コペペ海岸よりも魚は多かったが、特に珍しい魚や大物がいるわけではない。十五分も泳いでいると体が冷えてきて一旦休憩。しかし、この時期、ティーシャツと海水パンツだけではやはり寒い。結局、続けて海に入る気にならないまま撤収することになった。

 

 宮の浜近くで北米原産のグリーンアノールトカゲを発見した。どうやら島中のあちこちに生息しているらしい。グリーンアノールは強靭な生命力を持つ外来種で、ここで繁殖したのである。これを駆逐するのは簡単なことではないだろう。

 人はグリーンアノールやアフリカマイマイを外来種として敵視するが、無人島であった小笠原諸島においては人間こそが外来種であることを忘れてはならない。

 

 父島はおがさわら丸が停泊している四日間は一時的に人口が増え、街が活気づく。その間、観光客目当てのお土産屋さんや飲食店は営業時間を延長している。夏場の観光シーズンになると、海水浴場などは人であふれかえるだろうが、その時期地元の人は息をひそめるようにして生活しているのだろう。人口二千人強という父島において、定員約九百人というおがさわら丸が運んでくる観光客のインパクトは大きい。一定の周期で陰と陽が訪れるという奇妙な土地なのである。

 

アノールトカゲ

 

小笠原諸島は、太平洋戦争後、米軍の軍政下に置かれ、内地に疎開していた島民は長らく帰島が許されなかった。小笠原島の日本復帰が実現したのは、昭和四十三年(1968)六月二十六日のことである。

NHKの天気予報を注意深く見ていると、毎度小笠原島の天気を報じている。あまり内地に住んでいる者からすれば、小笠原の存在を意識する場面は少ないが、小笠原諸島が我が国の領土でなければ、今日我が国の領海(排他的経済水域)と称しているエリアはざっと三割も縮小することになる。実は小笠原諸島の存在は非常に重い意味を持っているのである。水野忠徳や小花作助といった先人たちの努力が、今こうした形で私たちの生活と結び付いているのである。日本人として忘れてはならない史実であろう。

 

 私がシュノーケリングを試したのは、コペペ海岸と宮の浜の二か所だけであったが、その他のシュノーケリング・スポットも紹介しておこう。

 製氷海岸は、その名のとおりかつてここにあった製氷工場の目の前のビーチである。枝サンゴが群生しているそうである。二見港から徒歩で三十分足らず。私は最終日、出航までの時間をここで海を眺めてぼんやりと過ごした(小笠原村父島奥村)。

 

製氷海岸

 

 大村海岸は、宿の目の前の海岸で、サンゴダストで埋められている(小笠原村父島西町)。

 

大村海岸

 

境浦海岸

 

 境浦には濱江丸という沈船がある。沈船が漁礁となり、そこに小さな魚が集まっているという(小笠原村父島境浦)。

 

見送りの人々

 

 おがさわら丸が出港する日には、大勢の見送りの人が港に集まる。ちょうど人事異動や進学の時期でもあり、別れを惜しむ人たちが出発まで挨拶や抱擁を交わしていた。出港直前には太鼓が演奏され、大勢の島民が「また、来てね~」「頑張ってね~」と声を張り上げているのを聞くと、自分に向けられたものではないのは承知だが、胸が熱くなる。

 見送りの儀式はこれだけではない。海岸に集まった子供たちが次から次への海へ飛び込むのである。さらにおがさわら丸を追うように、ダイビング船や漁船が並走し、船の上から人々がいつまでも手を振ってくれる。このような儀式が毎回繰り返されているのだろうか。

 

見送りの船

 

 旅程は五泊六日であるが、島での宿泊は三泊。振り返れば短い滞在であったが、私の大好きな歴史と海とあたたかい人のあふれる魅力ある島であった。気が付いたら人前に出るのが恥ずかしいほど顔面が日焼けしていた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父島 Ⅳ

2021年04月17日 | 東京都

(旭山)

 

旭山

 

 旭山は標高二百六十七メートル。二見港から見ると屏風のように聳え立っている。父島二日目の最初の目的地は旭山山頂である。電動自転車を借りて一路旭山を目指した。

 奥村から夜明道路に入る。ほどなく自転車で旭山を目指したことを後悔した。急な坂の連続で電動自転車がほとんど役に立たなかった。

 途中長崎展望台で休憩。兄島を一望することができる。文政十年(1827)に小笠原諸島に至ったイギリス人ビーチーは、兄島をバックランドと名付けている。

 

長崎展望台より兄島を一望する

 

 さらに坂道を進むと、右手に旭山山頂に通じる遊歩道の入り口がある。ここから山頂まで八百メートル余り。遊歩道の両側は密林となっており、亜熱帯の植物が群生している。中には小笠原の固有種もあって、植物に興味のある人にとってはとても面白い場所かもしれない。

 山頂から眺望はとにかく素晴らしい。まさに絶景である。文久二年(1862)、幕府の巡検使は旭山山頂に日章旗を建てたといわれる。八丈島の地役人菊池作次郎の日記には「ふらふ山」と記載されている。「ふらふ」とはオランダ語で「旗」を意味している(小笠原村父島旭山16)。

 

旭山山頂

 

大村の先の大根崎と烏帽子岩

 

旭山山頂より二見方面を見下ろす

 

旭平展望台

 

旭平展望台より 兄島

 

(初寝浦)

 

初寝浦展望台のモニュメント

 

 菊池作次郎の日記では「初音浦」と表記されている。この地名も幕府巡検隊が名付けたものの一つである。どうして初寝浦と命名したのかは不明である。

 夜明道路を南下していると左手にモニュメントが現れる。これが展望台への目印である。ここから五分くらい海岸に向けて進むと、初寝浦を見下ろす展望台に至る。

 

初寝浦

 

 この日は東からの強烈な風が吹き付け、初寝浦に押し寄せる波は高かった。東風は、水蒸気を含んだ空気を運んできて、見通しも悪かった。初寝浦へは遊歩道が通じていて、海岸まで下りることは可能であるが、天気を考えて諦めた。

 

首のない二宮金次郎像

 

 先ほどのモニュメントのある場所から道を挟んだ向い側に首のない二宮金次郎像がある。

 太平洋戦争中、夜明山一帯に旧日本海軍の通信施設が建設された。昭和十九年(1944)、戦争の激化により島民の本土への強制送還が行われ、小学校も閉鎖された。その際、旧軍により大村尋常高等小学校にあった二宮尊徳像が通信施設に移設された。戦後、米軍兵士が頭部を切り取って持ち帰ったとされている。平成九年(1997)、台風6号により頭部のない尊徳像は台座から転落、翌年、道路向い側から門柱とともに現在地に移設され、補修を受けた。

 父島や硫黄島を始めとする小笠原諸島は、太平洋戦争で激戦地となり、日本軍の前線基地にもなった。今も島のあちこちに戦跡が残されている。初寝浦展望台でも通信施設の不気味な廃墟を見ることができる。

 

(小港海岸)

 

小港海岸

 

 小港という地名も幕府巡検隊が付けたものである。ここからコペペ海岸まで遊歩道が通じている。九百メートルというから、歩いても知れているだろう思って遊歩道を進んだところ、急な坂を二つほど乗り越えねばならなかった。コペペ海岸に行き着いたときには息も絶え絶えであった(小笠原村父島北袋澤)。

 

コペペ海岸

 

 コペペ海岸は先住民のコペペという人に因んでそのように呼ばれていて、シュノーケリング・スポットとして知られている。実は自宅からシュノーケリング・セットを運んできたので、ここでシュノーケリングにトライすることにした。子供ができて以来、すっかりご無沙汰なので、ざっと四半世紀ぶりである。

 ところがフィンを取り出して唖然とすることになった。足を留めるストラップが切れていたのである。仕方なくフィン無しで海に入った。

 残念ながら魚影は薄く、期待したほどではなかった。

 

コペペ海岸にて

スジクロハギ

 

シマハギ

 

シャコガイ

 

オオヤドカリ

 

 コペペ海岸付近には、オオヤドカリがたくさん生息している。注意していないと踏んでしまいそうなくらいである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする