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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「世界を見た幕臣たち」 榎本秋著 洋泉社歴史新書

2020年08月29日 | 書評

幕末、徳川幕府は七回にわたって遣外使節団を送っている。本書はこのうち五つの遣米遣欧使節団を概観しようというものである。本書で紹介されているのは、万延元年の遣米使節団(正使・新見正興)、文久二年の遣欧使節団(正使・竹内保徳)、文久三年の遣仏使節団(正使・池田長発)、慶応二年の遣露使節団(正使・小出秀実)、そして慶應三年の遣仏使節団(正使・徳川昭武)である。

そして最終章に明治四年(1871)の岩倉使節団を紹介している。無論、岩倉使節団は徳川幕府が派遣したものではないが、随員四十六人中十三人が旧幕臣であった。現実問題として「薩長土肥出身者だけで国家の運営」はできなかった。治世のノウハウをもった旧幕臣は明治新政府において中級官僚として実務を統括し、明治維新の展開と日本の発展に大きな役割を果たしたということが、筆者が本書で訴えたかった主題である。

本書の特徴は、個々の使節団の「その後」を紹介していること、巻末に使節団のメンバー・リストを掲載していることにある。

リストを見ると、帰国後、様々な分野で活躍した著名人がいる一方で、生没年不明、帰国後の動向は空欄という人物の多いことが目に付く。この時代、海外を見てきた人たちの知見は非常に貴重で重要であった。その知見を活かして、たとえば福沢諭吉や福地源一郎らのように何らかの貢献をした人はほんの一握りであり、せっかくの経験を生かせず、そのまま生涯を終えてしまった人も多いのである。それは、いってみれば、良い大学を出れば必ず出世できるとは限らないということと同じことかもしれない。人生は簡単ではない。

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「勝海舟の嫁 クララの明治日記 (上)」 C・ホイットニー著 一又民子他訳 中公文庫

2020年08月29日 | 書評

アメリカ人ウィリアム・ホイットニーは明治八年(1875)、商法講習所(のちに一橋大学に発展)の教師として招かれた。父に従って来日した娘クララ・ホイットニーは当時十四歳。のちに勝海舟の三男梅太郎と結婚し、一男五女をもうけた。明治三十三年(1900)に離婚して、子供たちを連れてアメリカに帰国した。その間、十七冊にも及ぶノートに日記を残した。

上巻は来日時より明治十一年七月までの日記と収録したものである(平成八年(1996)発刊)。今となっては書店で本書を購入することはできない。本書もネットで古本を取り寄せたものである。

今や日本中の至るところで西洋人の姿を見かけるようになった。街で外国人とすれ違っても何の感慨もないが、明治初年といえば西洋人が珍しかった時代である。買い物や観光に出かけると、クララのあとには無遠慮な日本人の子供たちが行列を成してついてきたという。さぞかし不便で腹立たしかったことだろう。

日記の大半は、何気ない日常である。毎日のように訪れる客人との会話や、料理やケーキを作ったり、日光や江の島に観光に出かけたり、といった日常が描かれる。中学生か高校生程度の年齢で、未開の国日本に移住することに不安はなかったのだろうか。現代であれば、アメリカン・スクールやインターナショナル・スクールがあるが、そのような教育機関がない時代である。母親が教師代わりだったようであるが、異国における教育に不安はなかったのだろうか。日記を読む限り、ついに正統な教育は受けていないようだが、それでもクララは大人に成長していく。

クララは、この時代の西欧人に共通するような日本人に対する偏見や先入観はほとんど持っていなかったようである。日本人は礼儀正しい、優雅さを持っていると手放しで称賛している。一方で肉屋のジョン・ホールなる人物が日本の骨董屋から花瓶を入手しておきながら代金を払わなかったということを聞きつけ、同じ西洋人として恥ずべきふるまいだと非難している。この時代に日本を訪れた外国人には、日本の発展のために献身的に尽くしてくれた聖人君子もいれば、犯罪者すれすれのゴロツキも少なからずいたようなので、これくらいの悪徳商人がいても不思議はない。

明治十年(1877)といえば、西南戦争という国家を揺るがす大事件が二月から九月まで進行していたが、クララの日記にはほとんど触れられていない。唯一、六月二十三日の項で使用人のテイが兵隊として熊本へ行くという記述がある程度である。テイは腰が悪くて兵隊に向かないと診断され、一か月も経たないうちにホイットニー家に戻っている。

歴史的事件といえば、明治十年(1877)九月十一日には静寛宮(和宮)の葬列に遭遇している。同年に上野で開催された博覧会にも出かけて、そこで明治天皇の挨拶を聞き、大久保利通や伊藤博文の姿も目撃している。明治十一年(1878)には、事件の二日後に大久保利通の暗殺事件の報に接し、「西南の役の原因は、西郷隆盛と大久保利通との間の個人的ないさかいだった」と解析している。

しかし、本書で歴史的事件の裏面を見ることを期待すると失望してしまうかもしれない。本書の魅力は歴史的人物の日常を見ることにある。

この日記の登場人物は多彩である。徳川宗家当主徳川家達や松平定敬、定教父子、松平康倫(津山藩主家 確堂の子)といった世が世ならば直接話をすることもできないような大名がホイットニー家を訪ねてくる。彼らは食事を楽しみ、歌をうたい、ゲームに興じ、時におどけた表情を見せる。決して史料では伺い知れない元大名たちの人間臭い姿を見ることができるのである。

ホイットニー一家を経済的に支援した勝海舟とその家族は頻繁に登場する。とりわけ三女逸子(のちに目賀田種太郎と結婚)とクララは同い年ということもあって仲が良かったようである。ほかにも福沢諭吉、森有礼、箕作秋坪、大鳥圭介、大山巌、楠本正隆、富田鉄之助(旧仙台藩士・日本銀行第二代総裁)、杉田玄端、大久保三郎(一翁の息)、津田仙、新島襄、小崎弘道(同志社第二代社長)、高木貞作(元桑名藩士)、村田一郎(富士製紙二代社長)、滝村小太郎(海舟の伝記を著わした)など多士済々。外国人ではアメリカ公使ビンガム、イギリス公使パークス、ヘボンといったビッグネームが続々登場する。

そういった錚々たる名士の中にあって矢田部良吉という名前は、知名度ではかなり劣る。矢田部良吉は、米国留学経験をもつ植物学者で、東京大学の初代植物学教授にもなった人である。宗教心の篤いクララやその母の前で自分は無神論者であるといって憚らない。その時点でクララの印象はかなり悪いが、どうやら彼はクララに懸想していたようで、ホイットニー家を頻繁に訪れるようになる。今ならストーカー行為とされても仕方ない。そんな事実が、当人も亡くなって百年以上も経過してから、少女の日記から明かされるとは、とんだ意趣返しである。

 

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「横浜もののはじめ物語」 斎藤多喜夫著 有隣新書

2020年08月29日 | 書評

当時開港された場所は、長崎、函館、下田、いずれも開港前からそれなりに整備された港町だったが、横浜村は「半農半漁の小さな村」に過ぎなかった。本書によれば「陸の孤島」だったという。現在の大都会横浜からは想像もつかないくらいの寒村だったのである。

開港が決まると、わずか一年の間に波止場が建設され、東海道へ通じる新道が開かれた。貿易事務に必要な運上所や外国人居住地の整備が急ピッチで進められた。

開港場には領事館が置かれることになる。外国奉行は横浜に建物を用意していたが、着任した各国領事は、条約に「神奈川と明記されている」ことを根拠にそろって神奈川に固執した。結局、英米仏蘭の領事は全て神奈川宿の寺院を領事館の地と定めた。

しかし、外国商人たちの反応は違った。波止場や運上所が用意され、既に日本人商人が店を構えていた横浜に進出することに躊躇はなかった。

当初、居留地の住民は五十人程度だったといわれているが、明治末には五~六千人まで膨れ上がっていた。西欧人が増えるにしたがって、横浜には西欧の文化・文物が流入することになり、その結果、横浜には「〇〇発祥の地」と称する記念碑が数多く建てられることになった。

人が集まれば、生活に必要なホテル、洋菓子、喫茶、洋裁、製靴、理容などの西欧文化も相次いで輸入された。食文化も重要である。西欧人は食肉用の牛・豚を必要とし、その需要に応えるために横浜近隣にも牧場が作られた。キャベツやトマト、セロリといった西洋野菜もこの時期に我が国に入ってきた。新子安には「トマトケチャップ発祥の地」と刻まれた石碑がある。トマトケチャップ発祥の地があれば、マヨネーズやウスターソース発祥の地があっても不思議ではないが、私は今のところ遭遇していない。

野球やラグビー、ボーリング、サッカー、テニスといった今でも人気のあるスポーツが我が国に入ってきたのもこの時期である。

居留民と日本の大学チームとの交流戦なども開かれたようだが、いずれも居留民チームが圧勝している。日本側が勝利するまでラグビーでは七年、サッカーでは四年を要している。

では、最初から我が国のスポーツで居留民に通用したものは何だろうか。意外?なことに水泳なのである。明治三十一年(1898)、水府流太田派が居留地の水泳チームに対抗戦を申し入れ、勝利を収めている。翌年のリターンマッチでも水府流太田派は返り討ちにしている。居留民は海水パンツ、水府流太田派はふんどしといったいで立ちであった。水府流太田派というのは、水戸藩に伝わる古式泳法に太田捨蔵が改良を加えたもので、当時かなり広く普及していたという。

本書を読んで、横浜を発祥とする文化が多く、横浜が我が国の文化発展に重要な役割を果たしたことを改めて認識した。「発祥の地」を巡って横浜を歩くのも楽しいだろう。

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「桂太郎」 倉山満著 祥伝社新書

2020年08月29日 | 書評

桂太郎という名前が俄かにクローズアップされたのは、令和元年(2019)十一月二十日、安倍晋三が首相在職日数第一位を記録したことによってであった。桂太郎の首相在職日数は通算二千八百八十六日。安倍首相は現在三千日を越えている。

桂太郎が首相をつとめたのは、第一次が明治三十四年(1901)六月~明治三十九年(1906)一月であり、日数にして千六百八十一日。これは内閣として歴代最長記録である。第二次は明治四十一年(1908)七月~明治四十四年(1911)八月。第三次は大正元年(1912)十二月~翌大正二年(1913)二月。第三次桂内閣はわずか六十二日で総辞職をし、六十二日という短命であった。これは歴代二番目の短命内閣である。

桂太郎がもっとも華々しい成果を残したのは、第一次内閣でのことである。日英同盟を締結し、「未曽有の国難」といわれた日露戦争に勝利し、高平・ルート協定を結んで日米関係を安定化させた。筆者によれば、これにより日本はどの国にも滅ぼせない盤石の国になったという。

もちろん、日英同盟にしても日露戦争の勝利にしても、高平・ルート協定にしても桂個人の功績と呼べるものではないが、それでもその時我が国のリーダーの立場に桂太郎が座っていたことは間違いのない事実である。

申し訳ないが、私も桂太郎というと、「ニコポン首相」というイメージしか持っていなかった。「ニコポン」というのは「ニコっと笑ってポンと肩をたたいて人を籠絡する」八方美人的な桂太郎のことを揶揄して詠んだものである。桂には、よく言えば愛想の良い、悪く言えば八方美人的な側面もあったのであろう。

首相在職日数を抜かれた際に、「我が国には百年以上前、二大政党時代があった」という論調もあった(ように記憶している)。確かに桂太郎が首相を務めた時期を、後世「桂園時代」と呼び、桂太郎と政友会の西園寺公望とが交代して首相の座を務めることになった。

ただし、この時桂太郎は政党を率いていたわけではなく、山県有朋らの流れを汲む藩閥勢力を代表する存在であった。明治十八年(1885)に内閣制度が発足して以来、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義といった薩長閥出身者に首相は持ち回りされていた。桂太郎はその最後に連なる存在であった。

恐らく桂自身もそのことを自覚していたのであろう。死の間際まで政友会に対抗できる政党「立憲同志会」を創立することを画策していた。桂は西欧にならって政権交代可能な二大政党制を目指していた。立憲同志会は、加藤高明の憲政会に引き継がれ、立憲民主党、日本民主党へと発展する。本格的に二大政党時代が到来したのは、憲政党が立憲民政党と合同した昭和二年(1927)のことである。ようやく我が国に保守二大政党が根付いたにもかかわらず、戦後日本社会党が勢力を伸ばし、これに対抗するために昭和三十年(1955)、自由党と日本民主党が合併し自由民主党が生まれ、以来長らく「五五体制」が続くことになる。そして周知のとおり、令和に入った今も保守二大政党は実現していない。安倍内閣がさまざまな綻びを顕在化させながらも生き永らえ、在職日数記録を更新し続けているのも(と言っていると、昨日辞任を表明したが)、自民党に代わる政権政党が存在しないという理由も大きいであろう。これを泉下の桂太郎はどう見ているだろうか。

 

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