アメリカ人ウィリアム・ホイットニーは明治八年(1875)、商法講習所(のちに一橋大学に発展)の教師として招かれた。父に従って来日した娘クララ・ホイットニーは当時十四歳。のちに勝海舟の三男梅太郎と結婚し、一男五女をもうけた。明治三十三年(1900)に離婚して、子供たちを連れてアメリカに帰国した。その間、十七冊にも及ぶノートに日記を残した。
上巻は来日時より明治十一年七月までの日記と収録したものである(平成八年(1996)発刊)。今となっては書店で本書を購入することはできない。本書もネットで古本を取り寄せたものである。
今や日本中の至るところで西洋人の姿を見かけるようになった。街で外国人とすれ違っても何の感慨もないが、明治初年といえば西洋人が珍しかった時代である。買い物や観光に出かけると、クララのあとには無遠慮な日本人の子供たちが行列を成してついてきたという。さぞかし不便で腹立たしかったことだろう。
日記の大半は、何気ない日常である。毎日のように訪れる客人との会話や、料理やケーキを作ったり、日光や江の島に観光に出かけたり、といった日常が描かれる。中学生か高校生程度の年齢で、未開の国日本に移住することに不安はなかったのだろうか。現代であれば、アメリカン・スクールやインターナショナル・スクールがあるが、そのような教育機関がない時代である。母親が教師代わりだったようであるが、異国における教育に不安はなかったのだろうか。日記を読む限り、ついに正統な教育は受けていないようだが、それでもクララは大人に成長していく。
クララは、この時代の西欧人に共通するような日本人に対する偏見や先入観はほとんど持っていなかったようである。日本人は礼儀正しい、優雅さを持っていると手放しで称賛している。一方で肉屋のジョン・ホールなる人物が日本の骨董屋から花瓶を入手しておきながら代金を払わなかったということを聞きつけ、同じ西洋人として恥ずべきふるまいだと非難している。この時代に日本を訪れた外国人には、日本の発展のために献身的に尽くしてくれた聖人君子もいれば、犯罪者すれすれのゴロツキも少なからずいたようなので、これくらいの悪徳商人がいても不思議はない。
明治十年(1877)といえば、西南戦争という国家を揺るがす大事件が二月から九月まで進行していたが、クララの日記にはほとんど触れられていない。唯一、六月二十三日の項で使用人のテイが兵隊として熊本へ行くという記述がある程度である。テイは腰が悪くて兵隊に向かないと診断され、一か月も経たないうちにホイットニー家に戻っている。
歴史的事件といえば、明治十年(1877)九月十一日には静寛宮(和宮)の葬列に遭遇している。同年に上野で開催された博覧会にも出かけて、そこで明治天皇の挨拶を聞き、大久保利通や伊藤博文の姿も目撃している。明治十一年(1878)には、事件の二日後に大久保利通の暗殺事件の報に接し、「西南の役の原因は、西郷隆盛と大久保利通との間の個人的ないさかいだった」と解析している。
しかし、本書で歴史的事件の裏面を見ることを期待すると失望してしまうかもしれない。本書の魅力は歴史的人物の日常を見ることにある。
この日記の登場人物は多彩である。徳川宗家当主徳川家達や松平定敬、定教父子、松平康倫(津山藩主家 確堂の子)といった世が世ならば直接話をすることもできないような大名がホイットニー家を訪ねてくる。彼らは食事を楽しみ、歌をうたい、ゲームに興じ、時におどけた表情を見せる。決して史料では伺い知れない元大名たちの人間臭い姿を見ることができるのである。
ホイットニー一家を経済的に支援した勝海舟とその家族は頻繁に登場する。とりわけ三女逸子(のちに目賀田種太郎と結婚)とクララは同い年ということもあって仲が良かったようである。ほかにも福沢諭吉、森有礼、箕作秋坪、大鳥圭介、大山巌、楠本正隆、富田鉄之助(旧仙台藩士・日本銀行第二代総裁)、杉田玄端、大久保三郎(一翁の息)、津田仙、新島襄、小崎弘道(同志社第二代社長)、高木貞作(元桑名藩士)、村田一郎(富士製紙二代社長)、滝村小太郎(海舟の伝記を著わした)など多士済々。外国人ではアメリカ公使ビンガム、イギリス公使パークス、ヘボンといったビッグネームが続々登場する。
そういった錚々たる名士の中にあって矢田部良吉という名前は、知名度ではかなり劣る。矢田部良吉は、米国留学経験をもつ植物学者で、東京大学の初代植物学教授にもなった人である。宗教心の篤いクララやその母の前で自分は無神論者であるといって憚らない。その時点でクララの印象はかなり悪いが、どうやら彼はクララに懸想していたようで、ホイットニー家を頻繁に訪れるようになる。今ならストーカー行為とされても仕方ない。そんな事実が、当人も亡くなって百年以上も経過してから、少女の日記から明かされるとは、とんだ意趣返しである。