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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長浜

2018年10月26日 | 滋賀県
(宮川陣屋跡)


宮川陣屋跡

 長浜市宮司町の日枝神社の脇に宮川陣屋跡を示す石碑が建てられている。宮川陣屋は、宮川藩堀田家一万三千石の陣屋で、元禄十一年(1698)の入部以来、この地を拠点としていた。現在はすっかり住宅地となっており、往時の面影はない。
 幕末の藩主は堀田正養。宮川藩は近隣の小藩と同様、彦根藩に追従して朝廷側に立ち、維新を迎えている。

(慶雲館)


慶雲館

 慶雲館は明治二十年(1887)二月、明治天皇、昭憲皇太后の御休憩処として、長浜の豪商浅見又蔵が私財を投じて建設したものである。命名は同行した伊藤博文。
 約六千平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、これ以降も長浜の迎賓館として活用された。門前に明治天皇長浜行在所の石碑が建つ。


明治天皇長濱行在所

(長浜鉄道スクエア)
 慶雲館の向い側が長浜鉄道スクエアである。
 我が国鉄道の黎明期において京阪神(太平洋側)と北陸(日本海側)を結ぶ交通網は、物と人を運び経済を発展させる重要な路線であり、その要所に長浜があった。明治十五年(1882)には敦賀~横浜間が開通し、その翌年、大津~長浜間を三時間半で結ぶ鉄道連絡船(第一・第二太湖丸)が就航した。長浜は鉄道の街として重要な拠点となった。


長浜鉄道スクエア

 長浜鉄道スクエアは、明治十五年(1882)に竣工した旧駅舎を利用したものである。旧駅舎は現存する日本最古の駅舎として鉄道記念物に指定されている。
 建物の前には、明治の有名人による石額が六つも並べられている。
 一つ目が旧北陸本線子不知トンネル(新潟県糸魚川市)にあったもので、鉄道院総裁等を務めた後藤新平の題字で「大亨貞」(大いに亨(とお)り貞(ただ)し)である。


萬世永頼(伊藤博文書)

 二つ目は旧北陸本線山中トンネル(福井県南条郡今庄町)の山中信号掲口にあった石額で、黒田清隆の題字「徳垂後裔」。
 その次も同じく黒田清隆の書で「功和干時」。こちらも旧北陸本線山中トンネル杉津口にあったものである。
 さらにもう一つ黒田清隆の書が続き、「與国咸休」。これも北陸本線葉原トンネル(福井県敦賀市)の敦賀口にあったものである。


徳垂後裔(黒田清隆書)

 その向い側には、旧北陸本線の柳ケ瀬トンネル東口(滋賀県伊香郡余呉町)にあった石額で、題字「萬世永頼」は伊藤博文による。「萬世永く頼む」とは、鉄道が長く世のために働いてくれることを、いつまでも頼りにするという意味である。

(梨ノ木墓地)
 長浜市三ツ矢元町23の梨ノ木墓地は広い敷地を持つ公営墓地である。そこに金沢藩士多賀賢三郎の墓がある。


加賀藩士 多賀賢三郎之墓

 多賀賢三郎は、明治二年(1869)五月、金沢藩家老本多政均暗殺の一味。事件後、七十日の閉門を申し付けられたが、その後、明治四年(1871)、石川県小属として復職。しかし、同年十一月、江州長浜で本多家の家来、芝木喜内、藤江松三郎に復仇された。

(五村別院)
 奥羽越列藩同盟に与して新政府軍に敗れた山形藩主水野忠弘が、同じ五万石をもって近江(現・滋賀県長浜市)に移封された。朝日山藩は、明治三年(1870)七月から明治四年(1871)七月の「廃藩置県」までの約一年間存在した。藩庁は当初五村別院に置かれたが、明治四年(1871)一月より朝日山(現・朝日山小学校)に移転した。
朝日山藩は廃藩置県以降、朝日山県となる。その後、長浜県、犬上県を経て滋賀県に編入された。水野家は明治二年(1869)の版籍奉還後、華族に列し明治十七年(1884)に子爵を授爵した。


五村別院


五村別院 表門

 五村別院の本堂は、享保十五年(1730)の上棟、表門は延宝二年(1674)の建立で、いずれも当時の建築様式を今に伝える貴重な建造物である。

(朝日山小学校)
 朝日山藩が陣屋を置いた場所は、今朝日山小学校となっている。陣屋跡を感じるものは何も残されていない。


朝日山小学校
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米原

2018年10月26日 | 滋賀県
(柏原宿)
 米原市には、柏原・醒井・番場という中山道にあった三つの宿場町があった。
 ところで米原は当然「まいばら」と読むものと信じ込んでいたが、高速道路のインターチェンジは「まいはら」と濁らないのが正解なのだそうである。レンタカーのカーナビの音声に教えられた。


中山道 柏原宿

 柏原宿は中山道六十番目の宿場である。江戸時代には宿駅の街並みが十三町(一・五キロメートル)にわたって続き、中山道の宿駅の中では比較的大きい方に属していた。天保十四年(1843)時点で旅籠二十二、本陣・脇本陣各一、人馬取継問屋場五が存在していた。


柏原宿


皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地

 柏原宿本陣は江戸時代を通じて南部家が本陣役を務めていた。建物は皇女和宮宿泊の際、新築されたとも言われる。文久元年(1861)十月二十日に京都を出立した和宮一行は、江戸に至るまで中山道の宿場町を二十三泊している。私は長い時間をかけてその一つひとつを訪ねて来たが、これでいよいよあと一つ(沓掛宿)となった。今年中に達成したい。

(醒井宿)


醒井宿資料館

 醒井宿は京都から見れば柏原宿の一つ手前、江戸から見れば柏原宿の次の宿場となる。和宮一行もここで小休をとっている。
 想定外だったのは、他の宿場町と違って、ここは観光客が非常に多いということである。駐車場は満杯だし、途端に気力が萎えてしまった私は、醒井資料館(かつて醒井郵便局として使用されていた擬洋風建築)の外観写真だけを撮って、そそくさと立ち去った。

(番場宿)


番場宿


番場宿道標

 番場宿は山間に位置する中山道の小規模な宿駅の一つで天保十四年(1843)当時、旅籠十軒、本陣・脇本陣各一を備えていた。現在は鉄道や国道からも離れ、非常にひっそりとしている。文久元年(1861)十月二十三日、和宮一行もここで小休をとっている。

(福田寺)
 福田寺の住職三乗院摂專(本覚)連枝と井伊直弼とは従兄弟の関係にあり、同時に仏教信仰の上では子弟の関係にあった。直弼から本覚師への書簡八十余通が残されている。また、本覚師の後室は摂政関白右大臣を歴任した二条斉敬の妹鑈子(かねこ)であり、明治天皇の皇后の従姉妹に当たる。直弼の仲人によって入輿したという。


福田寺


明治天皇長澤御小休所

 門前に「明治天皇長澤御小休所」という石碑が建てられている。
 明治十一年(1878)、明治天皇は北陸行幸の途次福田寺に立ち寄り、この時、鑈子は彦根城の保存を懇請したと伝えられる。


三乗院殿釋教寛

 本殿の裏手に寺族の墓がある。今一つ自信はないが、これが本寛の墓?


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「対馬藩士の明治維新」 桟原冨士男著 櫂歌書房

2018年10月26日 | 書評
最近、読書のペースが著しく落ちている。私の読書は大半が通退勤の車中である。この六月に新橋本社に転勤となり、始業時間が前倒しとなったため、通勤時間も三十分余り早まった。自動的に起床時間も三十分早くなり、最近は五時半起床となっている。加齢とともに睡眠時間は短くてすむようになったが、それでも朝の三十分は貴重である。電車に乗った途端に睡魔に襲われ、気が付いたら下車駅が近いという繰り返しで、なかなか読書が進まなくなってしまった。
対馬藩の維新史を知りたいと思って、書店で発見したのが本書である。ところが、対馬の歴史に入る以前に歴史の教科書に載っているような、一般的な日本史に関する記述ばかりでなかなか本題の「対馬の明治維新」が始まらない。おまけに誤字脱字だらけで、これまた極めてストレスフルであった。おかげで半~一ページ進むのがやっとで、直ぐに読むのが嫌になってしまい、だったら寝ていた方がマシじゃないか、という繰り返しで、たかだか全部で百五十ページくらの小冊子を読了するまで二か月くらいかかってしまった。対馬藩の歴史が日本史の歴史と無関係ではありえないことは理解するが、あまりに教科書的記述の割合が多すぎないか。本当に知りたい「対馬藩の明治維新」に関する記述は集約すればほんの数ページの内容であった。
愚痴とボヤキはこれくらいにして、幕末の対馬藩のことである。海峡によって隔てられているとはいえ、対馬藩の政情は隣藩である長州の影響を強く受けた。長州藩と同じように過激な尊攘派が存在しており、長州尊攘派と連携して活動を展開していた。長州藩やほかの藩と同様、保守派との壮絶な内訌も続き、多くの血が流れた。特に八一八政変以降「勝井騒動」と呼ばれる事件(勝井五八郎により尊攘派百名以上が処刑)は、極めて深刻で対馬藩における人材は一気に消耗することになった。その後、佐野金十郎、小宮延太郎ら、薩長同盟や野村望東尼救出などに活躍する人材が出たが、圧倒的にその数は少ない。ひと言でいうと残念な藩というほかない。
著者は勝井騒動で自害した桟原勇馬の子孫。その孫桟原神五郎とも血縁関係がある。そのことが本書の執筆動機となっている。桟原勇五郎は十一歳という子供でありながら殺害されている。ほかにも二歳、四歳、五歳、六歳、八歳という子供が犠牲になっている。何故、このようないたいけのない子供たちが殺されなくてはならなかったのか。本書を読むだけではそのことはよく分からない。もう少し対馬の幕末史を調べてみたい。
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