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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御成門 Ⅲ

2018年01月12日 | 東京都
(芝公園)
 地下鉄御成門駅の近く、芝公園の一角にかつて開拓使仮学校があった(港区芝公園3‐2)。


開拓使仮学校跡

 開拓使仮学校(北海道大学の前身)は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の二十五棟を購入して、明治五年(1872)三月、この地に開設された。札幌に移し、規模を大きくする計画であったことから「仮学校」と呼ばれた。同年九月には女学校も併設され、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わされたという。仮学校は、明治八年(1875)七月、札幌学校と改称され、八月には女学校とともに札幌に移転。さらに明治九年(1876)八月には札幌農学校へと発展した。

(青龍寺・光圓寺)
 青龍寺(港区虎ノ門3‐22‐7)は青松寺の末寺。今ではすっかり姿を変えてビルと化している。光圓寺は、その近くに所在している。
 両寺とも増上寺の近くにある。明治になってロシアから帰国した増田甲斎(橘耕斎)は、増上寺の境内の一角に起居し、時に請われてロシアでの体験談を近所の青龍寺や光圓寺で講演したという。


青龍寺


光圓寺

(慈恵看護専門学校)


看護教育発祥の地碑

 明治十七年(1887)十月、東京慈恵會医科大学祖高木兼寛は、アメリカからリード女子を招聘して、有志共立東京病院構内に看護婦育成を始めた。我が国における看護教育の嚆矢といわれる。今もこの地では、東京慈恵会医科大学西新橋キャンパスと付属病院に囲まれて慈恵看護専門学校が併設され、看護教育が実施されている(港区西新橋3‐25‐8)。

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靖国神社 Ⅵ

2018年01月12日 | 東京都
(千鳥ヶ渕戦没者墓苑)


千鳥ヶ渕戦没者墓苑

 千鳥ヶ渕戦没者墓苑(千代田区三番町2)は、昭和三十四年(1959)の創設。第二次世界大戦の戦没者の遺骨を納めた墓を中央の六角堂に祀る。
 安政三年(1856)、大村益次郎(当時は村田蔵六)は、この近くに私塾鳩居堂を開いた。蘭書を用いた蘭学、兵学、西洋医学を教授したといわれる。大村益次郎は万延元年(1860)以降、長州藩に出仕したため、時期は不明ながら鳩居堂も自然消滅したと思われる。

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御茶ノ水 Ⅶ

2018年01月12日 | 東京都
(お茶の水小学校)


お茶の水小学校 幼稚園

 お茶の水小学校のあった場所に剣豪岡田十松が道場撃剣館を開いていた(千代田区猿楽町1‐1‐1)。若き日の新選組の永倉新八もここで腕を磨き、十八歳で目録を得たという。

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東久留米

2018年01月12日 | 東京都
(村野家)


村野家

 東久留米市柳窪4‐15の村野家は、天保九年(1838)建築の茅葺の主屋、明治後期建築の離れのほか、土蔵や穀倉などを備えた豪農の住宅である。残念ながら普段は非公開。
 慶応二年(1866)六月、上名栗村で勃発した一揆は、たちまち関東西部一円に広がり、各地で豪農や村役場の家屋が次々と打ち壊された。その数、判明しているだけで五百二十という。
 同年六月十六日、一揆勢数百名は柳窪に到達し、質屋を営む村野七次郎宅がその標的となった。七次郎宅では酒を用意して接待したが、二十数名が家の中に雪崩れ込み、鋸や鉈で柱や鴨居など数カ所を傷つけられ、この騒動で当時四歳であった娘キクがショック死するという騒動となった。
 これに対し、韮山代官江川太郎左衛門配下の鉄砲方が現場に急行し、発砲して撃退した。この戦闘で一揆勢は八名が即死、十三名が逮捕され、八十余名が負傷という大きな犠牲を払って壊滅した。
 当家の裏庭の一角には戦死した七名を祀る無名墓碑が建てられているらしい。

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東村山

2018年01月12日 | 東京都
(小平霊園)
 小平霊園は昭和二十三年(1948)に開設された。都内にいくつか散在する巨大霊園の一つである(東村山市萩山町1‐16‐1)。


有吉家之墓(有吉佐和子の墓)

 小説家有吉佐和子の墓である。有吉佐和子は、昭和六年(1931)、和歌山の生まれ。「紀ノ川」「出雲の阿国」「恍惚の人」「複合汚染」などベストセラーを連発した。何といっても「和宮様御留」という幕末を題材とした名作を残した。長州藩士有吉熊次郎は、三代前の先祖である。昭和五十九年(1984)、五十三歳という若さで他界した。特徴の無い墓石であるが、マリア=マグダレーナという洗礼名が刻まれている。【25区12側15側】

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