(佐古小学校)
養生所趾
佐古小学校は、養生所の跡地に当たる。構内に入れば養生所の石碑があるのではないかと思われるが、例によって私がここを訪れたのは早朝六時過ぎで、正門は固く閉じられたままであった。
(佐古招魂社)
軍人軍属合葬之碑
佐古招魂社は、明治七年(1874)の台湾の役の戦没者ならびに当地で戦病死した五百四十七柱の英霊を奉祀したことに始まり、明治十年(1877)の西南戦争(熊本城付近の戦闘)における戦歿者、さらに大正七年(1918)、靖国神社合祀者のうち長崎県在籍者で県下の各招魂社の祭神以外の千二百四十二柱の英霊を合祀したものである。また明治元年(1868)の戊辰戦争(奥州および箱館)の犠牲者を奉祀する梅が崎招魂社を合併し、合計千九百十三柱の英霊が眠る。

西南戦争戦死者の墓
(唐人屋敷跡)
唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため、この地に造成され、同二年(1689)に完成した。敷地は八千十五坪(のちに九千三百七十三坪に拡張)という広大なもので、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、その中に二階建ての瓦葺き長屋が二十棟あり、およそ二千人から三千人の中国人を収容することができたといわれる。
唐人屋敷跡
嘉永三年(1850)九月九日、吉田松陰は、唐人屋敷を訪れている。松陰は、長崎で唐通事鄭勘介に教えを乞い、中国語を学んでいる。
天后堂
安政六年(1859)、日本が開国されると、来航した唐人は大浦の外国人居留地や新地・広馬場などへ住むようになった。明治元年(1868)、唐人屋敷は解体され、現在、跡地は住宅街となっている。往時の建物としては東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂が残されている。
観音堂
(新地中華街)

新地中華街
私が長崎で宿泊したホテルは、新地中華街のすぐ近くにあった。市内の主要な史跡を歩いて訪ねるには極めて便利であったが、夜更けまで賑やかな場所であった。
新地蔵跡
中華街のちょうど真ん中辺りに新地蔵跡がある。
江戸時代、新地の南側(湊川公園のある方)には四つの水門があり、荷役の際には荷物の種類に応じて水門が開かれた。また新地から唐人屋敷へは新地橋と呼ばれる木造の橋がかけられていた。新地橋の手前に門があり、新地を出る中国人には探番(さぐりばん)によるボディチェックが行われていた。
(薩摩藩蔵屋敷跡)
薩摩藩蔵屋敷跡
正保四年(1647)、ポルトガル船二隻が長崎に来航し、幕府はこれを拿捕するために、西国諸藩に計四万八千人の動員を命じた。これ以降、各藩では長崎に専用の蔵屋敷を設置して、聞役その他を常駐させ、長崎奉行との連携を密にした。銅座町周辺には薩摩藩の蔵屋敷があり、長崎には小松帯刀、五代友厚、寺島宗則らが往来したが、薩摩藩名義で物資の購入に来た長州藩の伊藤博文、井上馨もこの屋敷に匿われていたという。
(五島藩蔵屋敷跡)
五島藩蔵屋敷跡
これも銅座町にある五島藩蔵屋敷跡である。五島藩は有事に対応するため、自藩の領海警備を担当していた。
(久留米藩蔵屋敷跡)
久留米藩蔵屋敷跡
同じく銅座町の久留米藩蔵屋敷跡である。久留米藩は幕府から有事の際の長崎警備等を命じられていた。
まだまだ探せば、諸藩の蔵屋敷跡が見つけられると思うが、これくらいで勘弁してください。
(銅座跡)
銅座跡
現在、銅座町という地名に名残が見られるように、この辺りには享保十年(1725)、銅代物貿易の棹銅等を鋳造するための銅吹所が設置されていた。棹銅は大阪銅座で製錬され、長崎に搬送されたが、長崎の銅座でも製錬されていた。銅座の敷地は千七百二十八坪であった。元文三年(1838)に銅座が廃止されると、以後は銅座跡と称されることになった。
棹銅は、およそ直径二センチ、長さが七十センチ程度であった。右の写真は、出島に展示されている、別子銅山産で産出され、大阪の住友で製錬された棹銅である。
棹銅

養生所趾
佐古小学校は、養生所の跡地に当たる。構内に入れば養生所の石碑があるのではないかと思われるが、例によって私がここを訪れたのは早朝六時過ぎで、正門は固く閉じられたままであった。
(佐古招魂社)

軍人軍属合葬之碑
佐古招魂社は、明治七年(1874)の台湾の役の戦没者ならびに当地で戦病死した五百四十七柱の英霊を奉祀したことに始まり、明治十年(1877)の西南戦争(熊本城付近の戦闘)における戦歿者、さらに大正七年(1918)、靖国神社合祀者のうち長崎県在籍者で県下の各招魂社の祭神以外の千二百四十二柱の英霊を合祀したものである。また明治元年(1868)の戊辰戦争(奥州および箱館)の犠牲者を奉祀する梅が崎招魂社を合併し、合計千九百十三柱の英霊が眠る。

西南戦争戦死者の墓
(唐人屋敷跡)
唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため、この地に造成され、同二年(1689)に完成した。敷地は八千十五坪(のちに九千三百七十三坪に拡張)という広大なもので、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、その中に二階建ての瓦葺き長屋が二十棟あり、およそ二千人から三千人の中国人を収容することができたといわれる。

唐人屋敷跡
嘉永三年(1850)九月九日、吉田松陰は、唐人屋敷を訪れている。松陰は、長崎で唐通事鄭勘介に教えを乞い、中国語を学んでいる。

天后堂
安政六年(1859)、日本が開国されると、来航した唐人は大浦の外国人居留地や新地・広馬場などへ住むようになった。明治元年(1868)、唐人屋敷は解体され、現在、跡地は住宅街となっている。往時の建物としては東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂が残されている。

観音堂
(新地中華街)

新地中華街
私が長崎で宿泊したホテルは、新地中華街のすぐ近くにあった。市内の主要な史跡を歩いて訪ねるには極めて便利であったが、夜更けまで賑やかな場所であった。

新地蔵跡
中華街のちょうど真ん中辺りに新地蔵跡がある。
江戸時代、新地の南側(湊川公園のある方)には四つの水門があり、荷役の際には荷物の種類に応じて水門が開かれた。また新地から唐人屋敷へは新地橋と呼ばれる木造の橋がかけられていた。新地橋の手前に門があり、新地を出る中国人には探番(さぐりばん)によるボディチェックが行われていた。
(薩摩藩蔵屋敷跡)

薩摩藩蔵屋敷跡
正保四年(1647)、ポルトガル船二隻が長崎に来航し、幕府はこれを拿捕するために、西国諸藩に計四万八千人の動員を命じた。これ以降、各藩では長崎に専用の蔵屋敷を設置して、聞役その他を常駐させ、長崎奉行との連携を密にした。銅座町周辺には薩摩藩の蔵屋敷があり、長崎には小松帯刀、五代友厚、寺島宗則らが往来したが、薩摩藩名義で物資の購入に来た長州藩の伊藤博文、井上馨もこの屋敷に匿われていたという。
(五島藩蔵屋敷跡)

五島藩蔵屋敷跡
これも銅座町にある五島藩蔵屋敷跡である。五島藩は有事に対応するため、自藩の領海警備を担当していた。
(久留米藩蔵屋敷跡)

久留米藩蔵屋敷跡
同じく銅座町の久留米藩蔵屋敷跡である。久留米藩は幕府から有事の際の長崎警備等を命じられていた。
まだまだ探せば、諸藩の蔵屋敷跡が見つけられると思うが、これくらいで勘弁してください。
(銅座跡)

銅座跡
現在、銅座町という地名に名残が見られるように、この辺りには享保十年(1725)、銅代物貿易の棹銅等を鋳造するための銅吹所が設置されていた。棹銅は大阪銅座で製錬され、長崎に搬送されたが、長崎の銅座でも製錬されていた。銅座の敷地は千七百二十八坪であった。元文三年(1838)に銅座が廃止されると、以後は銅座跡と称されることになった。
棹銅は、およそ直径二センチ、長さが七十センチ程度であった。右の写真は、出島に展示されている、別子銅山産で産出され、大阪の住友で製錬された棹銅である。

棹銅