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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長崎 丸山 Ⅱ

2015年07月10日 | 長崎県
(佐古小学校)


養生所趾

 佐古小学校は、養生所の跡地に当たる。構内に入れば養生所の石碑があるのではないかと思われるが、例によって私がここを訪れたのは早朝六時過ぎで、正門は固く閉じられたままであった。

(佐古招魂社)


軍人軍属合葬之碑

 佐古招魂社は、明治七年(1874)の台湾の役の戦没者ならびに当地で戦病死した五百四十七柱の英霊を奉祀したことに始まり、明治十年(1877)の西南戦争(熊本城付近の戦闘)における戦歿者、さらに大正七年(1918)、靖国神社合祀者のうち長崎県在籍者で県下の各招魂社の祭神以外の千二百四十二柱の英霊を合祀したものである。また明治元年(1868)の戊辰戦争(奥州および箱館)の犠牲者を奉祀する梅が崎招魂社を合併し、合計千九百十三柱の英霊が眠る。


西南戦争戦死者の墓

(唐人屋敷跡)
 唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため、この地に造成され、同二年(1689)に完成した。敷地は八千十五坪(のちに九千三百七十三坪に拡張)という広大なもので、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、その中に二階建ての瓦葺き長屋が二十棟あり、およそ二千人から三千人の中国人を収容することができたといわれる。


唐人屋敷跡

 嘉永三年(1850)九月九日、吉田松陰は、唐人屋敷を訪れている。松陰は、長崎で唐通事鄭勘介に教えを乞い、中国語を学んでいる。


天后堂

 安政六年(1859)、日本が開国されると、来航した唐人は大浦の外国人居留地や新地・広馬場などへ住むようになった。明治元年(1868)、唐人屋敷は解体され、現在、跡地は住宅街となっている。往時の建物としては東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂が残されている。


観音堂

(新地中華街)


新地中華街

 私が長崎で宿泊したホテルは、新地中華街のすぐ近くにあった。市内の主要な史跡を歩いて訪ねるには極めて便利であったが、夜更けまで賑やかな場所であった。


新地蔵跡

 中華街のちょうど真ん中辺りに新地蔵跡がある。
 江戸時代、新地の南側(湊川公園のある方)には四つの水門があり、荷役の際には荷物の種類に応じて水門が開かれた。また新地から唐人屋敷へは新地橋と呼ばれる木造の橋がかけられていた。新地橋の手前に門があり、新地を出る中国人には探番(さぐりばん)によるボディチェックが行われていた。

(薩摩藩蔵屋敷跡)


薩摩藩蔵屋敷跡

 正保四年(1647)、ポルトガル船二隻が長崎に来航し、幕府はこれを拿捕するために、西国諸藩に計四万八千人の動員を命じた。これ以降、各藩では長崎に専用の蔵屋敷を設置して、聞役その他を常駐させ、長崎奉行との連携を密にした。銅座町周辺には薩摩藩の蔵屋敷があり、長崎には小松帯刀、五代友厚、寺島宗則らが往来したが、薩摩藩名義で物資の購入に来た長州藩の伊藤博文、井上馨もこの屋敷に匿われていたという。

(五島藩蔵屋敷跡)


五島藩蔵屋敷跡

 これも銅座町にある五島藩蔵屋敷跡である。五島藩は有事に対応するため、自藩の領海警備を担当していた。

(久留米藩蔵屋敷跡)


久留米藩蔵屋敷跡

 同じく銅座町の久留米藩蔵屋敷跡である。久留米藩は幕府から有事の際の長崎警備等を命じられていた。
 まだまだ探せば、諸藩の蔵屋敷跡が見つけられると思うが、これくらいで勘弁してください。

(銅座跡)


銅座跡

 現在、銅座町という地名に名残が見られるように、この辺りには享保十年(1725)、銅代物貿易の棹銅等を鋳造するための銅吹所が設置されていた。棹銅は大阪銅座で製錬され、長崎に搬送されたが、長崎の銅座でも製錬されていた。銅座の敷地は千七百二十八坪であった。元文三年(1838)に銅座が廃止されると、以後は銅座跡と称されることになった。

 棹銅は、およそ直径二センチ、長さが七十センチ程度であった。右の写真は、出島に展示されている、別子銅山産で産出され、大阪の住友で製錬された棹銅である。


棹銅
コメント (2)
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長崎 丸山 Ⅰ

2015年07月10日 | 長崎県
(丸山)


丸山公園

 日本三大花街の一つと言われた丸山は、寛永十九年(1642)に市中に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたのが始まりという。丸山は江戸時代、海外貿易の発展とともに栄華を極め、上方などから多くの貿易商や知名士が集まり、元禄時代に全盛期を迎えた。丸山の遊女の数は、元禄五年(1692)には千四百四十三名を数えた。また江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽や、坂本龍馬らも当地を訪れている。という次第でここにも坂本龍馬像がある。


坂本龍馬之像

 慶應三年(1867)七月六日の夜、丸山の寄合町の路上で、イギリス軍艦イカルス号の水夫二人が殺害され、その疑いが海援隊士にかけられた。イギリス側の強硬な主張により、高知や長崎で度々取調べが行われ、坂本龍馬も才谷梅太郎という変名を用いて、長崎運上所での取調べに出席している。その結果、海援隊士への嫌疑は晴れた。当時、犯人は不明であったが、明治になって犯人は福岡藩士であり、事件の二日後に自殺していたことが判明している。


オランダ坂

 今ではオランダ坂といえば、東山手の旧外国人居留地辺りの坂をいうが、どうやら丸山のオランダ坂こそ、本家本元のオランダ坂らしい。鎖国時代、出島商館への出入りを許されていた丸山の遊女がこの坂を通って、玉帯川(今の電車通り)のところから船で行き来していたという説、或いは明治時代、西洋料理の「福屋」へ居留地の外国人(長崎では外国人は全て“オランダさん”と呼ぶ)が、丸山の遊里を避けて、この坂を通ったとする説、両説があるが、いずれにせよ、長崎で最初にオランダ坂と呼ばれたのはこの場所だそうである。

(梅園身代り天満宮)


梅園身代天満宮

 丸山にある天満宮は、元禄十三年(1700)、丸山町の乙名安田治右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神として親しまれてきた。元禄六年(1693)、安田治右衛門が二重門にて梅野五郎左衛門に襲われた。治右衛門は自邸に担ぎこまれたが、不思議なことにどこにも傷が無く、代わりに庭の天神様が血を流して倒れていた。以来、この天神様を身代わり天神と呼ぶようになった。花街に接していることから、遊女や芸者が多く参拝していたという。また第二次世界大戦の際には、丸山町で出征を命ぜられた者は、必ずこの神社に参拝し、そのご利益で無事に帰還できたという。


梅園身代天満宮

(西洋料理「福屋」跡)
 福屋は西洋料理のさきがけの一つで、創業者は中村藤吉。建物は明治二年(1869)上棟の日本家屋と明治八年(1875)上棟の洋館の組み合わせとなっていて、擬洋風の細部装飾が施されていた。馬町の自由亭、西浜町の精洋亭とともに長崎三大洋食屋と呼ばれた。孫文が国賓として来日した際や、グラント将軍(第十八代アメリカ大統領)が来崎の際には、食事を提供した。明治四十年代に閉店し、現在は庭園の一部や石垣、階段等を残すのみとなっている。


西洋料理「福屋」跡

(史跡 花月)
 寛永十九年(1642)、それまで市内に散在していた遊女屋を一箇所に集め、遊里丸山町・寄合町が形成された。料亭引田屋もこの頃の創業といわれる。花月は、文政元年(1818)前後、引田屋の庭園内に作られた茶室の名称である。長崎奉行の巡視の際には休憩所としても使用された。この地には、向井去来や太田蜀山人、頼山陽といった文人墨客のほか、多くの幕末の志士が訪れた。明治十二年(1879)、丸山の大火で花月は類焼したが、花月の名称は庭園、建物に引き継がれ、現在、料亭「花月」として営業している。


史跡 花月

 花月には、坂本龍馬がいろは丸事件で揉めている頃、怒って床柱に斬りつけた刀痕が残されているというが、残念ながら花月の門は堅く閉ざされており、見ることはできなかった。


花月


頼山陽先生故縁之處


(高島秋帆宅跡)


高島秋帆宅跡

 高島秋帆は、寛政十年(1798)の生まれ。町年寄高島家の十一代目。荻野流砲術を父から学び、鉄砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究した。また、「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説いた。そして武蔵国徳丸原(現・板橋区高島平)にて西洋式軍事訓練を実施するなど実績を挙げたが、天保十三年(1842)、無実の罪で十二年間の幽囚生活を送った。その後、後進の指導に当たり、江戸で没した。
 長崎市内にも墓があるが、残念ながら今回は訪ねることはできなかった。

 秋帆宅は、秋帆の父、茂紀が別邸として文化三年(1806)に建てたもので、瓦葺二階建ての建物で、二階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れ光景に因んで、秋帆によって「雨声楼」と名付けられた。秋帆は天保九年(1838)に大村町(現・万才町)からこの地に移り住み、天保十三年(1842)に捕えられるまでの約五年間をここで過ごした。

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長崎 風頭山

2015年07月10日 | 長崎県
(亀山社中跡)


亀山社中跡

 長崎の三日目は、電動自転車にまたがって駅周辺の史跡からシーボルト記念館、寺町の墓を訪ね、継いで風頭公園、グラバー邸を中心とした南山手、そして出島を回るといった、どう考えても無謀な計画であった。一刻のロスも許されないし、とても昼食を取っている時間などなかった。
 想定外だったのは、亀山社中で長蛇の列ができていたこと。ここまで来て亀山社中の中を実見できないのは悔しいが、行列に並んで時間を無駄にするわけにはいかない。
 行列の先頭の方にお願いして、ちょっと下がってもらい、亀山社中の門の写真のみ撮影。


亀山社中資料展示場

 亀山社中跡から若宮稲荷に至る途中に亀山社中資料展示場がある。特に史料というものは見当たらず、亀山社中の隊士の写真などが展示されているのみである。ここも凄い混雑で、早々に退散した。

(良林亭跡)


良林亭跡

 文久三年(1863)、草野丈吉(じょうきち)は我が国の西洋料理の先駆けである良林亭を開業した。草野は十八歳のとき出島和蘭商館出入の商人に雇われ、その推薦でオランダ人の洗濯係やボーイを務め、のちにオランダ人と起居をともにしながら料理の腕を磨いた。良林亭は六畳一間の部屋で、六人以上のお客様は御断りだったという。元治元年(1864)には店舗を他所に新築し、自遊亭と称した。さらに慶応元年(1865)に自由亭と改称。現在、グラバー邸内にその建物が移築されている。明治十一年(1878)には馬町の諏訪神社前に進出した。明治十二年(1879)、グラント前大統領が立ち寄った際には、コーヒーや洋酒、果物などを提供した。明治二十年(1887)廃業。

(若宮稲荷神社)


若宮稲荷神社

 若宮稲荷は勤皇稲荷とも呼ばれている。これは、当稲荷が南北朝の武将楠正成の守護神であったことに因み、幕末に来崎した諸藩の志士の多くが参詣したためと謂われている。坂本龍馬も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸・湊川では
月と日の むかしをしのぶ みなと川
流れて清き 菊の下水

と詠んでいる。若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友佐々木三四郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣した。


坂本龍馬像

 本殿前には高さ一メートル程度の坂本龍馬像がある。風頭公園の龍馬像の原型というが、こちらの龍馬は何だか聞かん坊の顔をしている。

(藤屋跡)


藤屋跡

 若宮稲荷神社の鳥居前に藤屋跡の説明板が設置されている。藤屋は天保元年(1830)に創業され、慶應元年(1865)から西洋料理を手掛け、福屋や自由亭と並んで幕末の長崎を代表する西洋料理屋となった。イギリス商人グラバーも得意客の一人であった。坂本龍馬も佐々木三四郎とたびたび訪れている。

(風頭公園)


坂本龍馬像

 風頭公園は、標高百五十一メートルの風頭山の山頂付近を公園にしたものである。山頂では龍馬像が長崎の市街を見下ろしている。
 私は熱心な龍馬フアンというわけではないが、それでも全国の史跡を探訪するうちに、数多の龍馬像を見て来た。(二宮尊徳を除けば)全国にこれほど像が建てられた幕末人はいないだろう。像の多さが、龍馬人気の高さを物語っている。以下のとおり、その数二十は超えている。
 北海道(函館)、東京(立会川)、京都(松源寺・岡崎公園・霊山墓地・土佐稲荷・嵐山)、高知(桂浜・高知駅前・坂本龍馬記念館・坂本家先瑩の地・龍馬歴史館・梼原)、愛媛(河辺)、香川(琴平)、鹿児島(塩浸温泉・天保山)、長崎(丸山・若宮稲荷・風頭公園・上野彦馬生誕地・新上五島)


司馬遼太郎文学碑

 龍馬像と向い合うように、司馬遼太郎先生の文学碑が建てられている。その全文。

――― 船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、
「長崎はわしの希望じゃ」
と陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」
ともいった。

 龍馬は日本全国を歩いており、各所に銅像が建てられるのも理解できる。しかし、龍馬が一番似合う街は、長崎かもしれない。龍馬のやったこと、大政奉還や薩長同盟、船中八策などは実は龍馬の独創ではない。龍馬のやったことでもっとも独創的かつ龍馬らしいのは、長崎における亀山社中の結成ではなかったか。亀山社中は、藩から独立していながら、貿易を生業とする商社的な組織であった。


上野彦馬墓

 龍馬像のある広場から少し下に墓地があり、上野彦馬を含む上野家、唐通事林・官梅家、阿蘭陀通詞加福家の墓が立ち並ぶ。
 上野彦馬を生んだ上野家は代々絵師の家で、絵画のほか鋳金などに秀でていた。初代は上野左衛門尉英傳といい、墓碑に延宝三年(1677)という年代が刻まれている。ほかに三代若元、五代若瑞、六代俊之丞(彦馬の父)などの墓碑が立つ。

(龍馬通り)


龍馬通り


龍馬のブーツ像

 龍馬通りを進むと、龍馬のブーツ像というユニークな記念碑に出会う。ここで龍馬に倣ってブーツを履いて、龍馬になった気分で長崎の街を見下ろそうという趣向である。
 このブーツ像は、「亀山社中ば活かす会」が亀山社中創設百三十年を記念して平成七年(1995)に建立したものである。龍馬がブーツを履いて長崎で新しい時代へと駆け抜けたことに想いを馳せて欲しいという願いがこめられている。

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