(岫慶寺)

岫慶寺
心樹院矩方圓成居士(中村雅之進の墓)
中村雅之進は、天保九年(1838)、武田家の生まれ。宗家中村短誠の遺言により中村家六百石を継いだ。文久二年(1862)参政に就任。明治元年(1868)四月、国老。同年九月、隊長として箱館戦争に出征し、翌年六月、凱旋した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。酒を愛し、常に瓢を手元より離さなかったと伝えられる。
(徳巌寺)
ガイドのOさんの調査によれば、寺田竹次郎の墓は近年(六~七年前か)縁者の手により他に移されたという。
寺田竹次郎は、慶応三年(1867)正月十五日、格式御供小姓格に召し出され、料理の間詰めとなった翌年に従軍。四月二十九日、矢不来の戦いで頭部貫通銃創を受け、翌月一日、茂辺地の病院で長逝した。二十一歳。墓石には「秀弘院忠肝的勇居士」と刻まれていたそうである。
(最勝寺)
河合家の墓
最勝寺には河合家の墓はこれしかないそうで、河合富蔵もここに合葬されているのではないかと推定。河合富蔵は従軍時に日記を残している。
安親院楽了一閑居士(村井競の墓)
村井外記。諱は安親、隠居後は一閑斎と称した。明治元年(1868)第四隊長として出征。明治七年(1874)有終小学校で訓導を拝命した。明治三十三年(1900)死去。
土田家遺骨
大野藩医土田龍湾の墓を探して、ボランティア・ガイドのOさんはわざわざ寺に問い合わせていただいたが、寺からは「何の権限で…」という厳しい拒絶にあったそうである。最勝寺門前には市が付した説明があり、そこに「土田龍湾の墓がある」と記載されているが、市に問い合わせても「分からない」との回答。墓地に土田家の墓は二つあるが、参考としてそのうちの一つの写真を掲載しておく。
土田龍湾は、林雲渓とともに種痘の普及に尽くした人である。
(篠座神社)

篠座神社
招魂社
篠座神社境内には、箱館戦争戦死者をまつる大野招魂社がある。入口には「戦死之碑」が建てられ、そこに箱館戦争にて戦死した岡良賢以下十一名の名前が刻まれている。
戦死之碑
吉田拙蔵紀念之碑
篠座神社に吉田拙蔵の記念碑がある。吉田拙蔵は、文政九年(1826)、大野藩士の家に生まれ、十六歳の時、内山隆佐の門に入って、政治、経済を学んだ。十九歳で出仕して明倫館の助教補となり、藩主土井利忠に従って、江戸に出て、蘭学を杉田成卿、伊東玄朴に学び、安政二年(1855)帰藩して蘭学授業師となった。幕府の蝦夷地開拓計画を知り、大野藩は積極的にこれに応じ、内山隆佐、早川弥五左衛門とこれに従事し、大野丸の竣成とともに拙蔵はその船長となって、遠く樺太鵜城に達したが、その守備に耐えず、明治元年(1868)幕府に上地した。のち大野藩少参事として藩政改革に従事。明治四年(1871)の廃藩後は、学区取締、あるいは郡吏として庶民教育に尽力した。明治二十年(1887)、年六十二で没。
Hさんは篠座神社の近くに住んでおられるそうで、何度もこの神社を訪れているが、ここに吉田拙蔵記念碑があることは今回初めて知ったそうである。越美北線の発車時間が迫る中であったが、敢えてここまで足を伸ばした値打ちがあったというものである。
この後、Hさんの運転で越前大野駅まで送っていただいた。短時間であったが、ガイドの皆様には本当にお世話になった。大野には、天狗党関係の史跡がある。次の機会には、天狗党の足跡を追ってみたい。

岫慶寺

心樹院矩方圓成居士(中村雅之進の墓)
中村雅之進は、天保九年(1838)、武田家の生まれ。宗家中村短誠の遺言により中村家六百石を継いだ。文久二年(1862)参政に就任。明治元年(1868)四月、国老。同年九月、隊長として箱館戦争に出征し、翌年六月、凱旋した。明治三十三年(1900)、六十三歳で没。酒を愛し、常に瓢を手元より離さなかったと伝えられる。
(徳巌寺)
ガイドのOさんの調査によれば、寺田竹次郎の墓は近年(六~七年前か)縁者の手により他に移されたという。
寺田竹次郎は、慶応三年(1867)正月十五日、格式御供小姓格に召し出され、料理の間詰めとなった翌年に従軍。四月二十九日、矢不来の戦いで頭部貫通銃創を受け、翌月一日、茂辺地の病院で長逝した。二十一歳。墓石には「秀弘院忠肝的勇居士」と刻まれていたそうである。
(最勝寺)

河合家の墓
最勝寺には河合家の墓はこれしかないそうで、河合富蔵もここに合葬されているのではないかと推定。河合富蔵は従軍時に日記を残している。

安親院楽了一閑居士(村井競の墓)
村井外記。諱は安親、隠居後は一閑斎と称した。明治元年(1868)第四隊長として出征。明治七年(1874)有終小学校で訓導を拝命した。明治三十三年(1900)死去。

土田家遺骨
大野藩医土田龍湾の墓を探して、ボランティア・ガイドのOさんはわざわざ寺に問い合わせていただいたが、寺からは「何の権限で…」という厳しい拒絶にあったそうである。最勝寺門前には市が付した説明があり、そこに「土田龍湾の墓がある」と記載されているが、市に問い合わせても「分からない」との回答。墓地に土田家の墓は二つあるが、参考としてそのうちの一つの写真を掲載しておく。
土田龍湾は、林雲渓とともに種痘の普及に尽くした人である。
(篠座神社)

篠座神社

招魂社
篠座神社境内には、箱館戦争戦死者をまつる大野招魂社がある。入口には「戦死之碑」が建てられ、そこに箱館戦争にて戦死した岡良賢以下十一名の名前が刻まれている。

戦死之碑

吉田拙蔵紀念之碑
篠座神社に吉田拙蔵の記念碑がある。吉田拙蔵は、文政九年(1826)、大野藩士の家に生まれ、十六歳の時、内山隆佐の門に入って、政治、経済を学んだ。十九歳で出仕して明倫館の助教補となり、藩主土井利忠に従って、江戸に出て、蘭学を杉田成卿、伊東玄朴に学び、安政二年(1855)帰藩して蘭学授業師となった。幕府の蝦夷地開拓計画を知り、大野藩は積極的にこれに応じ、内山隆佐、早川弥五左衛門とこれに従事し、大野丸の竣成とともに拙蔵はその船長となって、遠く樺太鵜城に達したが、その守備に耐えず、明治元年(1868)幕府に上地した。のち大野藩少参事として藩政改革に従事。明治四年(1871)の廃藩後は、学区取締、あるいは郡吏として庶民教育に尽力した。明治二十年(1887)、年六十二で没。
Hさんは篠座神社の近くに住んでおられるそうで、何度もこの神社を訪れているが、ここに吉田拙蔵記念碑があることは今回初めて知ったそうである。越美北線の発車時間が迫る中であったが、敢えてここまで足を伸ばした値打ちがあったというものである。
この後、Hさんの運転で越前大野駅まで送っていただいた。短時間であったが、ガイドの皆様には本当にお世話になった。大野には、天狗党関係の史跡がある。次の機会には、天狗党の足跡を追ってみたい。