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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

植木 萩迫

2015年04月16日 | 熊本県
(薩軍戦没者の墓)
 植木町萩迫に萩迫柿木台場薩軍墓地がある。周辺はスイカかイチゴ栽培のビニール・ハウスが立ち並んでいるために甚だ見つけにくい場所にある。


西南役薩軍戦没者墓


束野孝之丞戦歿碑

 中央に「西南役薩軍戦没者墓」が置かれ、その両側に薩軍の束野孝之丞の墓と戦没碑が並んでいる。


束野孝之丞墓

 束野孝之丞は、庄内から薩軍に投じた十五歳の少年であった。萩迫柿木台場堡塁争奪戦において二月二十八日戦死。田原坂民謡に「馬上豊かな美少年」と謳われたモデルの一人と言われる。
 戦没碑の側面には、束野孝之丞が戦死した経緯が刻まれている。

(萩迫神社)


萩迫神社


弾痕

 萩迫神社の本殿側面に西南戦争時の弾痕が残っている。
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植木 滴水

2015年04月16日 | 熊本県
(長府山坊共同墓地)


廣田先生 同令夫人之墓

 植木町滴水の長府山坊共同墓地に廣田尚(ひさし)の墓がある。
 廣田尚は、天保十四年(1843)、熊本に生まれる。名は尚、通称は彦右衛門、是空と称した。横井小楠の薫陶を受け、のち月田蒙斎の門に入った。刻苦精励して学大いに進む。熊本城下の俊英は多くその門下に集まった。明治の初め東都に遊学して、時勢に感ずるところあり、同志と山本郡正院平永会所跡に変則植木中学校を興して自由民権を唱え、戸長征伐を指揮して、庶民の間に廣田先生の名あり。西南の役が起こると、協同隊本営付となり、平川惟一、崎村常雄を助けて主簿に任じられた。役後、懲役に処せられ、出獄後、同志から帝国議会議員に推されること前後数回、志を得ずして明治二十八年(1895)五十二歳にて病没。人となり慧敏淡泊、博覧強記にして極めて下層社会の人情に通じたといわれる。

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植木 向坂

2015年04月16日 | 熊本県
(河原林少尉戦死の地)


河原林雄太少尉戦死の地

 思えば私が幕末維新期の史跡を回り始めたのは、今から二十年前台湾から帰国して鹿児島に着任した平成十七年(1995)であった。最初に訪ねた史跡は、忘れもしない菱刈町(現・伊佐市)の「辺見十郎太の涙松」であった。以来、鹿児島県、熊本県、宮崎県の各地に所在する西南戦争関係史跡を訪ね歩いたものである。ただし、当時我が家は三名の未就学児を抱えた状況で、とても気安く週末ドライブというわけにはいかなかった。客観的に見れば随分精力的に史跡を訪問したように見えるかもしれないが、個人的には心残り一杯であった。
 東京から九州は遠い。今回、久しぶりに熊本県内の西南戦争関連史跡を堪能することができた。また、九州の史跡を訪ねたいという欲望が沸々と涌いている。私の史跡訪問は、西南戦争で始まり、西南戦争に終わるのかもしれない。

 河原林少尉戦死の地碑は、二十年前から変わらぬ場所にある。しかし、傍らに階段が設けられ、すぐ近くで石碑を見ることができるようになった。石碑側面には二月二十日の官薩両軍が激突した緒戦において連隊旗手河原林雄太少尉が戦死した経緯が記されている。村田三介率いる薩軍と乃木少佐の第十四連隊がこの地で激戦となった。第十四連隊の殿軍に加わった河原林少尉は、この付近で村田隊の岩切正九郎に斬られ、連隊旗を奪われたと伝えられる。

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植木

2015年04月16日 | 熊本県
(植木天満宮)


植木天満宮


官薩両軍緒戦之地

(仁連塔神社)


仁連塔神社


弾痕

 植木小学校の裏(北東)にある仁連塔神社には西南戦争時の激戦を物語る弾痕が残る。

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