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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

北茨城 磯原

2015年01月17日 | 茨城県
(天妃山)
 早朝から茨城県の史跡を回ってきて、本日最後の訪問地北茨木市の磯原海岸に行き着いたときには、夕日が山端に沈もうとしていた。このすぐ近くに詩人野口雨情の生家もある。
 北茨木市磯原の天妃山は、元禄三年(1690)、光圀が天妃神をここに祀り、磯原の海の守護神とした。以来、この小さな山は天妃山と呼ばれることになった。標高二十一メートルという低山で、あっという間に山頂に達することができる。その後、天保二年(1831)、斉昭が日本尊の妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)を海陸の守護神として合祀し、麓の神社は弟橘媛神社と改称された。


弟橘媛神社


磯原海岸

(磯原防災コミュニティー・センター)


吉田松陰先生遊歴之地碑

 弟橘媛神社のすぐ近くの磯原防災コミュニティー・センターに吉田松陰遊歴之地碑がある。吉田松陰が東北遊歴の旅に出たとき、この地に立ち寄っている。それを記念した石碑である。

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日立 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(友部海防陣屋跡)


友部海防陣屋跡

 日立市の櫛形小学校の西側に少し広い空間があり、そこが友部海防陣屋の跡地である。
 水戸藩では、助川城のほか、現・日立市内に相当するエリアに七つの海防施設を建設した。その中の一つが友部海防陣屋(友部異国船御番陣屋とも)である。天保七年(1836)、斉昭の命を受けて普門寺のあったこの場所に陣屋が建設された。現在も残る稲荷神社は、当時から物頭の屋敷脇にあったものである。

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常陸太田 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(太田落雁碑)
 今回の「水戸八景碑」巡りの旅も、常陸太田の二つの石碑を残すのみとなった。一筆書きで八つの石碑を走破すると、ざっと九十キロメートルになる。昔の人は、これを歩いて達成したのだが、今回自動車で回っても、結構体力を要した。


大田落雁碑

 太田落雁碑は、小高い場所に建てられている。今ここから見る景色はありきたりの住宅街であるが、かつて阿武隈連山を背景として、稔りの秋や雁が刈田に降りる情景を見ることができた。
 なお石碑に刻まれる漢字は「大田」となっているが、「大」は「太」の古字である。

(西山研修所)
 西山研修所の敷地内に山寺晩鐘碑がある。これが、私にとって八つ目の石碑である。


山寺晩鐘碑

 この場所は、もと久昌寺の境内で、全国から学僧が集まり、盛時には数千という学僧が修業に励んだという。斉昭は周囲の寺々から打ち出される鐘の音を松籟とともに聞き「山寺の晩鐘、幽壑(ゆうがく)に響き」と詠んだ。


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水戸 城北

2015年01月17日 | 茨城県
(鹿島香取神社)
 水戸市青柳の鹿島香取神社は、その近くに水戸八景の一つ、青柳夜雨碑があることから、「夜の雨神社」とも称される。


鹿島香取神社


青柳夜雨

 青柳夜雨碑は、神社境内から那珂川畔側にある。大きな柳の木が目印である。

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水戸 偕楽園 Ⅱ

2015年01月17日 | 茨城県
(偕楽園)
 今回、偕楽園を訪ねたのは、斉昭が定めた水戸八景の一つ、僊湖暮雪碑が目的である。好文亭の南門から少し歩いたところにある。「莫」は「暮」の古字である。


僊湖莫雪碑

 偕楽園は秋を迎えて、美しい紅葉を楽しむことができた。


偕楽園

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水戸 弘道館 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(弘道館)
 久しぶりに弘道館を訪ねた。ほぼ十五年振りになる。以前、訪ねたときと何ら変わっていない印象であるが、実は平成二十三年(2011)三月の東日本大震災では、弘道館も甚大な被害を受けた。関係者の御尽力によりほぼ元通りに復旧を果たしている。


徳川慶喜公使用の長持ち

 慶喜は、慶応四年(1868)四月、水戸に下り、至善堂にて謹慎生活を送った。その当時使用したと伝えられる長持ちである。


正門に残る弘道館戦争時の弾痕

 明治元年(1868)十月一日、水戸城下に戻った市川三左衛門率いる諸生党と、水戸城に籠る尊攘派(山野辺義芸ら)は、弘道館を巡って激しい銃撃戦となった。双方死者を出したが、尊攘派が勝利を収めた。この戦闘(弘道館戦争と呼ばれる)により弘道館は一部を残して焼失した。正門には当時の弾痕が生々しく残る。

(鹿島神社)
 弘道館の裏は鹿島神社の境内である。斉昭の手になる種梅記碑や要石碑がある。


鹿島神社 八卦堂

 八卦堂は、藩校当時、弘道館の中央に置かれていた。堂内には斉昭の篆額による「弘道館記碑」が納められている。八卦堂の内部は非公開であるが、弘道館の中に弘道館記碑の拓本が展示されている。
 弘道館記碑は、やはり先年の東日本大震災で一部が崩落する被害を受けたが、修復されている。


弘道館記碑拓本


要石碑

 行末(いくすえ)も ふみなたがへそ蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ要なりける」とある。その大意は「日本古来の人倫の大道は、永久に変らないものであり、日本人はこの道を踏み違えるということがあってはならない」。やはり徳川斉昭の筆である。


種梅記(しゅばいき)碑

 天保四年(1833)、斉昭就藩の際、領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集めて水戸に送り、偕楽園や弘道館、さらには領民の家々にまで植えさせた。その由来を、斉昭自らの書により刻んだ碑である。碑文には、梅は花を観賞するだけでなく、戦時には非常食になるといった効用を記している。天保十二年(1841)建碑。

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大洗 Ⅲ

2015年01月17日 | 茨城県
(かんぽの宿 大洗)
 願入寺の墓地の向う側は、那珂川と涸沼川の合流する地点である。川畔に面して水戸八景の一つ、巖船夕照碑がある。石碑を見るには、「かんぽの宿 大洗」へ通じる道から、脇道を下りなくてはいけない(大洗町磯浜町7986‐2)。碑に刻まれた「照」の字は、下半分が「火」になっている。


巖船夕照碑


河口にかかる海門橋

 河口では多くの人が釣を楽しんでいる。私がここを訪れたのは、残念ながら夕日の時間ではなかったが、それでも十分美しい風景を堪能できた。

(アクアワールド大洗水族館)
 アクアワールド大洗水族館とホテル鴎松亭の間は松林になっているが、この丘全体がかつての台場跡である。


祝町向洲台場跡

 徳川斉昭が天保十一年(1840)に帰藩したとき、那珂湊の砲台だけでは不十分と考え、対岸の祝町にも砲台を建築することを企図した。直ちに実行されることはなかったが、ペリー来航後の安政二年(1855)に縄張りが行われた。その後、藩内事情もあって工事は進捗しなかったが、文久三年(1863)七月頃、ようやく砲台築造が着手された。元治元年(1864)の天狗党の騒乱ではこの砲台から大砲が発射されている。明治期までは砲台の姿がよく残っていたらしい。


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