史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

幸手

2014年09月21日 | 埼玉県
(戸島)


柳剛院彰義居士(加藤光造の墓)

 加藤光造の墓である。加藤光造は、本姓を横山といい、墓も横山家の墓域にある。杉戸町の農家の出身であるが、幕臣加藤家に養子に入って改姓した。十一番隊長として彰義隊に加わり、箱館まで転戦した。和田幸之進が残した「箱館脱走人名」によれば、加藤光造(同書では光蔵)は頭代や頭取改役、頭取といった幹部に継ぐ、差図役並という準幹部的な地位にある。差図役と差図役並は、合わせて十八人を数えるが、そのうち十三名が戦死もしくは負傷、脱走しており、加藤光造のように無傷というのは珍しい。墓碑には「柳剛院彰義居士」という戒名が刻まれている。墓碑によれば、明治三十二年(1899)三月没。

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加須 Ⅱ

2014年09月21日 | 埼玉県
(龍蔵寺)


龍蔵寺

 実は小林助松の墓を訪ねて、一度龍蔵寺墓地を歩いたことがあるが、その時は探し当てることができなかった。今回、二回目にして発見することができた。龍蔵寺の募地は結構広いので、当てもなく歩いてたどり着くのは、かなり大変である。


義運勇道居士(小林助松の墓)

 小林助松は、加須村(現・埼玉県加須市中央)の人。文政四年(1821)の生まれで、小太刀の名手として知られた剣術家である。実家は油を営む旧家であった。
 文久の頃、幕府が塙次郎、鈴木重胤、中村正直(のちの敬宇)らに廃帝の前例を調べさせているとの風聞が流れ、薄井龍之は小林助松とともに中村正直を暗殺しようと、正直の家に踏み込んだ。しかし、正直の母の捨て身の抗議に、二人とも手を出せず、暗殺は未遂に終わった(ただし、正直の母はこの事件の二年前に亡くなっているため、この逸話の真偽は定かでない)。
 文久三年(1863)二月、幕府の徴募した浪士組に参加し、三番組新見錦の隊に属していた。その後、一時期庄内藩の新徴組にも籍を置いたらしいが、脱退している。桃井儀八(可堂)の挙兵計画にも関与していたらしい。助松は何らかの嫌疑により役人から呼び出しを受けたが、頑として出頭を拒否した。そこで役人は捕吏を派遣して助松を逮捕したが、その時、左手の五指を失う傷を負った。この傷がもとで、明治四年(1871)三月、没した。享年五十。(「幕末維新埼玉人物列伝」小高旭之著 より)

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熊谷 Ⅳ

2014年09月21日 | 埼玉県
(中村家)


中村家


中村正行碑

 ショスタ様より、中村正行碑の場所を教えていただき、三度目にしてようやく行き着くことができた。中村定右衛門は、明治二十年(1887)二月に歿しているが、この碑文の末尾には「明治二十一年四月 正四位子爵山岡鉄太郎撰幷書」とある。山岡鉄舟はこの年の七月に死去しており、碑文は病床の鉄舟が認めたものといわれる。

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前橋 Ⅲ

2014年09月21日 | 群馬県
(源英寺)

 前回訪問時に発見できなかった小河原多宮の墓を訪ねて、再度源英寺を訪ねた。竹様から小河原多宮の墓は、「墓地内ではなく、駐車場側の笹薮の中に数基立っている中の一つ」という情報を得たので、それを頼りに探すことにした。実際には、探すまでもなく、駐車場に到着した時点ですぐに分かった。


前橋執政小河原政徳墓

 墓の側面には、小河原多宮(墓碑によれば左宮)が、慶応四年(1868)閏四月、「国難により死」んだことが刻まれている。小河原多宮は、前橋藩の家老(二千三千石)。慶応四年(1868)四月、上総富津陣屋を警備していたとき、旧幕軍の撤兵隊に陣屋の明け渡しを迫られた。陣屋には少数の兵しかいなかったため、小河原はやむを得ず無血開城に応じ、責任を負ってその場で自刃した。五十八歳であった。

(隆興寺)
 隆興寺は、教会のような本堂を有した寺院である。


隆興寺

 「明治維新人名辞典」によれば、前橋市三河町・隆興寺に鈴藤勇次郎の墓があるというので、墓地を歩いてみた。墓地を三周歩いてみたが、それらしい墓に出会うことはできなかった。もう一度、機会があれば挑戦してみたい(鈴木姓の墓はいくつもあるのだが…)。
 鈴藤勇次郎は、本姓は鈴木。江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、江川の推挙を得て幕府に仕えるようになり、万延元年(1860)の遣米使節派遣では、咸臨丸の運用方として渡米した。木村芥舟に贈った太平洋上の咸臨丸の図が今日まで伝わる。慶応四年(1868)榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向った報に接したとき、鈴藤は病床にあり、参戦できないことを嘆いて自殺した。四十三歳。


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佐久 Ⅲ

2014年09月21日 | 長野県
(相生の松)
 本来、その土曜日、嫁さんと昼食に行く予定にしていたが、金曜日の夜、帰宅すると、急に予定がキャンセルとなった。自動車で外出する許可を得たので、急遽、佐久や前橋、埼玉県下の史跡を回る計画を立てた。例によって、早朝、家族がまだ眠りから覚めないうちに自宅を抜け出し、一路長野県佐久市を目指した。


相生の松

 旧中山道沿いに「相生の松」と呼ばれる名木があった(現在の松は三代目)。文久元年(1861)十一月七日、江戸を目指す和宮がこの地で休憩を取り、野立てを楽しんだという。

(蕃松院)
 龍岡城址からほど近い場所に、蕃松院がある。蕃松院は、戦国時代の武将、依田信蕃(のぶしげ)の菩提寺で、その戒名に因んで蕃松院と名付けられた。江戸時代に入って田野口藩が置かれると、歴代藩主の位牌の安置所となった。


蕃松院

 蕃松院の本堂向いに戊辰戦争戦死者の墓が四基並べられている。田野口藩(別称・龍岡藩または大給藩とも)では、藩主大給乗謨(維新後は大給恒)が老中や陸軍総裁に任じられる等、重職を担ったこともあり、幕府を支えて奔走した。しかし、慶応四年(1868)戊辰戦争が起こると、新政府への恭順を表明し、北越戦線に藩兵を送った。田野口藩兵はその後半年に及ぶ戦争に参加し、彼らが帰藩したのは、同年十月二十四日のことであった。戦死者は四名であった(「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、五名)。


龍岡藩士熊谷直擧之墓

 熊谷直擧義八は、先手指揮役(銃隊隊長)。慶応四年(1868)七月下旬、越後長岡付近で負傷。九月八日死亡。四十一歳。熊谷儀八の墓は、ほかの三名の墓と違って、金属製の柵で囲われている。


戊辰戦死者の墓

 向かって右手の少し大き目の墓は、鷲見又男のもの。戒名の横に「鷲見又男源貞吉之墓」と刻まれている。鷲見又男は、士銃隊に属した。慶応四年(1868)七月二十五日、越後亀貝村で戦死。十七歳。
 背の低い二つの墓のうち、右手は平林藤吉のもの。平林藤吉は銃士。六月七日、越後筒場村にて戦死。五十三歳。
 一番左が田島栄之助の墓。田島栄之助は、前隊の銃卒。七月十五日、越後宮下村で戦死。三十八歳。

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