史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅵ

2014年02月14日 | 京都府
(良正院)


良正院

 知恩院塔頭の一つ、良正院は文久三年(1863)の本圀寺事件の前夜、襲撃した因州藩士二十二名が集合したことで知られる。側用人黒部権之介ら四人を暗殺した藩士は、良正院に戻って処分を待った。この中の一人、奥田萬次郎は、惨殺された四名のうちの誰かと師弟関係にあったといわれ、自責の念から良正院「竹の間」で自刃した。


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大宮 Ⅲ

2014年02月14日 | 京都府
(妙恵会総墓所)
 右京区松原柿本町の妙恵会総墓所(右京区堀川通松原下る柿本町)には、歴史を感じる古い墓石が並ぶ。


良忠院義山堅剛居士(加藤十次郎墓)


因州早川卓之丞墓(中) 因州早川内藤井金蔵墓(左)

 文久三年(1863)八月十七日の本圀寺事件で斬殺された御側役早川卓之丞と大目付加藤十次郎、早川の従者藤井金蔵の墓である。加藤十次郎は襲撃の夜、非番であったが、翌朝強要されて切腹して果てたと伝えられる。


関口泰次郎之墓

 表面は剥落して、辛うじて姓名が読み取れる。関口泰次郎は水戸藩士。生野の変に参加したが、敗れて京都の水戸藩邸に帰って謹慎した。慶應元年(1865)十月、本圀寺にて病死。十八歳。


金子徳輝墓


金子健四郎墓

 金子健四郎は、文化十一年(1814)生まれ。神道無念流を修め、水戸藩に抱えられた。門下に伊藤甲子太郎がいる。酒席の争いから門人が殺害事件を起こしたため、水戸藩を辞した。元治元年(1864)死去。

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京北

2014年02月14日 | 京都府
 前日、吹雪といって良いような天気だったので、山国護国神社のある京北まで行けるものか、非常に心配であった。天気の方は打って変わって青空が広がった。
 京都の駅前でレンタカーを借りて、京北を目指す。バスで行くことも検討したが、本数が少ない。行き着くことはできても、市内に戻ってくるのがかなり遅くなってしまう。少々お金はかかるがレンタカーを使うことにした。自動車でざっと一時間である。父によれば、とても一時間では無理という話であったが、一週間ほど前に京北トンネルが開通し、僻遠の地、京北も少し便利になった。


京北

 京北まで来ると、前日の雪が残っていた。雪化粧した山々は、絵に描いたように美しかった。

(山国護国神社)


山国護国神社

 山国護国神社(右京区京北辻町清水谷10)は、山国隊が山国庄に凱旋した明治二年(1869)二月二十一日、直ちに伍長会が開かれ、戦病死した隊士の招魂場を設けることが議され、その三日後、辻村薬師山にて招魂祭が催された。山国隊は山国庄出身者八十三名で結成されたが、うち戦病死したのは次の七名である。

 仲西市太郎(江戸)
 高室重蔵 (江戸)
 田中浅太郎(安塚)
 高室治兵衛(江戸)
 田中伍右衛門(上野)
 北小路萬之助(京都)
 新井兼吾(安塚)

 安塚は宇都宮攻城戦では最も激戦となった場所である。山国隊は、この戦闘で三人の戦死者を出した。


山国隊戦病死者七名の墓


山国隊紀念碑

 山国隊紀念碑の撰文は、槇村正直によるもの。槇村正直は山口萩藩の出身。明治元年(1868)上京して、京都府に出仕。明治八年(1875)、副知事、明治十年(1877)に知事に就任した。諸産業の振興を図り、学校や図書館、病院の設立に尽力したほか、新文化の移入に積極的に努力した。明治十四年(1881)、元老院議官に転じ、その後行政裁判所長官などを歴任した。明治二十九年(1896)、六十三歳にて死去。


池田慶徳歌碑

 池田慶徳は、水戸の徳川斉昭の五男に生まれた。第十一代因州藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したため、幕命を受けて後を継いだ。徳川慶喜は実弟であるが、戊辰戦争では西軍に加担し、山国隊とともに官軍に参加した因州軍は目覚ましい活躍を見せた。碑文には右の慶徳の歌が刻まれている。

大きみの 御たてとなりし ますらをの
いそしを 世々に たつる石ふみ

 その傍らに三角形をした原六郎の碑が置かれている。表面が磨滅して読み取れない。


原六郎(進藤俊三郎)碑

 原六郎は生野の変で敗れた後、因州に逃れ、戊辰戦争では河田左久馬の推挙で山国隊指令長となり、各地を転戦した。維新後は、実業界に転じ、銀行、鉄道(現・総武・東武鉄道)、帝国ホテル、電力、紡績など、我が国の経済界に大きな足跡を残した。昭和八年(1933)、九十二歳で死去。

 池田慶徳の歌碑、原六郎の碑の横には、隊長河田左久馬、司令長官原六郎以下、全山国隊士の霊標が整然と並べられている。


河田左久馬(左)、原六郎の霊標


山国隊士霊標

 中央の少し背の高い霊標は、藤野斎と辻啓太郎のもの。藤野斎は山国神社の神職で、山国隊を組織した人。辻啓太郎は山国隊伍長。戦後は京都府会議長や山国村長を務めた。


藤野斎(右)、辻啓太郎霊標


(山国神社)


山国神社

 藤野斎が山国神社の神職だったこともあり、山国隊が出陣前夜、この神社に集結した(右京区京北鳥居町宮ノ元1)。

(常照皇寺)


常照皇寺

 常照皇寺(右京区京北井戸字丸山14-6)は、春の枝垂れ桜と秋の紅葉で有名であるが、この時期訪れる人は少ない。足跡のない雪を踏んで石段を上ると、本堂に至る。受付は無人であったが、志納料を払ってそのまま拝観させていただいた。




天皇の位牌

 最前列中央は、昭和天皇のもの。右の奥には孝明天皇の位牌も並べられていた。



 「山国隊」(仲村研著 中公文庫)によれば、慶応二年(1866)、光厳法皇を開山とする常照皇寺は、開山五百年を迎えた。時の住持は魯山和尚といった。魯山和尚は、山国の皇室七ヵ村と旗本杉浦領五ヵ村の対立をたくみに利用して、五百年事業を達成しようとした。魯山和尚は、旗本領の富裕な農民からも借金をしたが、早期返済を求められ、窮した魯山和尚は皇室領と旗本領の村人を対立させることにより、まんまと危機を乗り切った。この結果、村には分裂と混乱がもたらされることになり、魯山和尚のもとには「新興成金」と呼ぶべき富裕層が結集することになった。
 これに対抗するため、名主層は官位拝任運動に走った。あたかも京では小御所会議が開かれ、王政復古の大号令が下った時期であった。彼らの運動は成功し、官位を獲得するに至ったが、鳥羽伏見の報が山国に伝わると、彼らが農兵隊を結成し、官軍に協力するのは自然な流れであった。

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