史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の知られざる巨人 江川英龍」 橋本敬之 角川SSC新書

2014年02月22日 | 書評
タイトルに「知られざる巨人」と謳っているが、少し幕末をかじった人であれば、この名を知らないことはないだろう。
江川家は源満仲を祖とする古い家系(大和源氏)で、英龍で三十六代目となる。江戸期には代々韮山代官を務めていた。英龍は、為政者として優れていたというだけでなく、蘭学や武術、書画、教育など多方面に異能を発揮した。英龍個人の才能もさることながら、代々積み重ねられた教養が、英龍の時代に開花したという側面もあるように思う。
英龍が代官に就任した時点では五万石の支配高であったが、ほどなく伊豆国のほか、駿河国駿東郡、相模国津久井郡、足柄上郡、愛甲、大住、高座、鎌倉郡、武蔵国多摩郡まで支配地となり七万八千石に、のちには武蔵国多摩郡の一部が加わり、合計十万二千石余の支配となった。大大名並といって良い。幕府からの絶大な信任が伺われる。
江川英龍の偉名を慕って、この時代を代表する多くの政治家や思想家、教育家、文人が英龍と交際を持った。少し名を挙げてみるだけでも、高島秋帆、川路聖謨、徳川斉昭、鍋島直正、藤田東湖、渡辺崋山、桂小五郎、品川弥二郎、金子健四郎、佐久間象山、斎藤弥九郎、大槻俊斎、伊東玄朴らがいる。錚々たる顔ぶれと言わざるを得ない。中でものちに幕末を代表する剣術道場主となった斎藤弥九郎に至っては、天保六年(1835)、韮山代官に就任した際に自分の家臣として召し抱えたという。天保八年(1837)、この頃、大塩平八郎の乱があったりして世情不安であったが、英龍は斎藤弥九郎一人を伴って、支配地であった甲州を偵察旅行した。このとき二人は刀売りに扮しており、その様子を描いた絵も残されている。
英龍の多忙さは想像を絶するものがあった。ヘダ号の建造、品川台場の建築、反射炉の築造、条約締結のための下田出張、農兵の訓練、韮山塾の経営等が重なり、江戸と伊豆を息つく暇もなく往来していた。忙しい中にあって、絵を描いたり、書をしたためたり、彫金を行ったりしていたというから、驚くほかない。筆者によれば「忙しいからこそ、これらに没頭することによって、仕事と生活のバランスをとっていたものと思われる。これがなかったら、英龍の仕事は残らなかったのではないだろうか」と言及されている。
英龍の絵を見ると、そのほとんどは植物や魚貝、鳥、虫、動物を題材にし、それも掛け軸にするような芸術的な絵ではなく、図鑑に載せるような観察図である。恐らく英龍は、息をするのも忘れるくらい筆写するという行為に没頭したのであろう。
人は自分の脳の一割も活用していないという。しかし、江川英龍の多芸多才ぶりを見ていると、例外的に脳をフル活用しているような超人が、世の中には存在していると思えてならない。
英龍は多忙を極める中、度重なる出府命令に応えるために、体調不良をおして江戸に出る。しかし、風邪をこじらせ肺炎を併発。繁忙の中での過労が彼の肉体を蝕んでいた。安政二年(1855)二月、惜しまれながら世を去った。享年五十五。


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「新選組全隊士録」 相川司 新紀元社 「新選組全隊士徹底ガイド」前田政記 河出文庫 

2014年02月22日 | 書評
私は決して新選組マニアというわけではないが、それでも全国の史跡を回っているうちに、数多の新選組隊士の墓を訪ね歩くことになった。新選組マニアよりマニア度は高いのではないかと自負している。
「新選組隊士の総数は何人だっただろうか」とふと疑問に思い、書店でこの二冊の本を買い求めることになった。
前田政記氏の「ガイド」は、隊士数四百二十四名を網羅する文庫本である。十年前に出版されたものであるが、今も出版され続けられていることからも、本書に対する世間の評価が伺い知れる。ただし、小さな書店ではなかなか見つけられないのが難点である。
相川司氏の「隊士録」の方は、辞書のような分厚い本である。山崎烝の「取調日記」など、最新の成果を反映したもので、収録隊士数は五百二十名に及ぶ。ただし、中には変名・別名もあるので、同一人物である可能性があるものも含まれており、五百二十という数字は最大値と理解しておいた方が良いだろう。この数は飽くまでも、在籍記録のある延べ人数である。京都時代の新選組は百五十人程度が最大規模だったと推定される。
両書を通読して、改めて新選組に関しては、市井の研究者の調査が細部にまで及んでいることを認識した。
それにしても、入隊時期不明、離脱時期も不明、消息不明という隊士の多いこと。記録としては名簿にある名前だけという人物も少なくないのである。
新選組といえば土方歳三が定めたという「局中法度」が有名である。隊を脱することは許さない、それでも脱隊した場合は切腹か暗殺かという、情け容赦ない印象が強い。総長を務めた山南敬助もこの掟に従って切腹している。ところが、「ガイド」や「隊士録」を眺めていると、案外離脱した隊士が多いことが目につく。特に鳥羽伏見以降は、出入り自由に近い緩さであるが、元治~慶応年間であっても離脱したと思われる隊士が意外と多い。「局中法度」も実はケースバイケースで都合よく運用された内規なのかもしれない。


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「正伝 岡田以蔵」 松岡司 戎光祥出版社

2014年02月22日 | 書評
高知県佐川町出身の史家松岡司(まもる)氏による岡田以蔵の本格的伝記である。岡田家の成り立ちや以蔵の出生についても、丹念に追っている。新聞の地方版に連載されたものらしいが、そのため一章ずつが読みやすい長さになっているのが有り難い。
岡田以蔵といえば「人斬り」であるが、その通称故に実態以上に天誅・暗殺に関わったように過大評価?されている。筆者は、文久三年(1863)の儒者池内大学の斬殺事件と、同年同月の賀川肇(千草有文の家来)への天誅について、「土佐人の関与は疑っても、その全てを以蔵に結びつけるのは無理がある」と冷静に分析している。
以蔵は、慶応元年(1865)閏五月十一日、打ち首獄門に処される。二十七歳の生涯であった。以蔵の罪状は以下の四件であった。
一、 足軽井上佐一郎の殺害
二、 本間精一郎の殺害
三、 京都町奉行所与力・同心の殺害
四、 文久三年(1863)における出奔
過酷な拷問により、以蔵は「目付に抗する力はなく、詰められては次々と白状」した。にも関わらず、罪状は以上の四件、特に暗殺事件については三件しか取り上げられていないことからも、何でも以蔵の仕業とするのは無理があるということであろう。


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