タイトルに「知られざる巨人」と謳っているが、少し幕末をかじった人であれば、この名を知らないことはないだろう。
江川家は源満仲を祖とする古い家系(大和源氏)で、英龍で三十六代目となる。江戸期には代々韮山代官を務めていた。英龍は、為政者として優れていたというだけでなく、蘭学や武術、書画、教育など多方面に異能を発揮した。英龍個人の才能もさることながら、代々積み重ねられた教養が、英龍の時代に開花したという側面もあるように思う。
英龍が代官に就任した時点では五万石の支配高であったが、ほどなく伊豆国のほか、駿河国駿東郡、相模国津久井郡、足柄上郡、愛甲、大住、高座、鎌倉郡、武蔵国多摩郡まで支配地となり七万八千石に、のちには武蔵国多摩郡の一部が加わり、合計十万二千石余の支配となった。大大名並といって良い。幕府からの絶大な信任が伺われる。
江川英龍の偉名を慕って、この時代を代表する多くの政治家や思想家、教育家、文人が英龍と交際を持った。少し名を挙げてみるだけでも、高島秋帆、川路聖謨、徳川斉昭、鍋島直正、藤田東湖、渡辺崋山、桂小五郎、品川弥二郎、金子健四郎、佐久間象山、斎藤弥九郎、大槻俊斎、伊東玄朴らがいる。錚々たる顔ぶれと言わざるを得ない。中でものちに幕末を代表する剣術道場主となった斎藤弥九郎に至っては、天保六年(1835)、韮山代官に就任した際に自分の家臣として召し抱えたという。天保八年(1837)、この頃、大塩平八郎の乱があったりして世情不安であったが、英龍は斎藤弥九郎一人を伴って、支配地であった甲州を偵察旅行した。このとき二人は刀売りに扮しており、その様子を描いた絵も残されている。
英龍の多忙さは想像を絶するものがあった。ヘダ号の建造、品川台場の建築、反射炉の築造、条約締結のための下田出張、農兵の訓練、韮山塾の経営等が重なり、江戸と伊豆を息つく暇もなく往来していた。忙しい中にあって、絵を描いたり、書をしたためたり、彫金を行ったりしていたというから、驚くほかない。筆者によれば「忙しいからこそ、これらに没頭することによって、仕事と生活のバランスをとっていたものと思われる。これがなかったら、英龍の仕事は残らなかったのではないだろうか」と言及されている。
英龍の絵を見ると、そのほとんどは植物や魚貝、鳥、虫、動物を題材にし、それも掛け軸にするような芸術的な絵ではなく、図鑑に載せるような観察図である。恐らく英龍は、息をするのも忘れるくらい筆写するという行為に没頭したのであろう。
人は自分の脳の一割も活用していないという。しかし、江川英龍の多芸多才ぶりを見ていると、例外的に脳をフル活用しているような超人が、世の中には存在していると思えてならない。
英龍は多忙を極める中、度重なる出府命令に応えるために、体調不良をおして江戸に出る。しかし、風邪をこじらせ肺炎を併発。繁忙の中での過労が彼の肉体を蝕んでいた。安政二年(1855)二月、惜しまれながら世を去った。享年五十五。
江川家は源満仲を祖とする古い家系(大和源氏)で、英龍で三十六代目となる。江戸期には代々韮山代官を務めていた。英龍は、為政者として優れていたというだけでなく、蘭学や武術、書画、教育など多方面に異能を発揮した。英龍個人の才能もさることながら、代々積み重ねられた教養が、英龍の時代に開花したという側面もあるように思う。
英龍が代官に就任した時点では五万石の支配高であったが、ほどなく伊豆国のほか、駿河国駿東郡、相模国津久井郡、足柄上郡、愛甲、大住、高座、鎌倉郡、武蔵国多摩郡まで支配地となり七万八千石に、のちには武蔵国多摩郡の一部が加わり、合計十万二千石余の支配となった。大大名並といって良い。幕府からの絶大な信任が伺われる。
江川英龍の偉名を慕って、この時代を代表する多くの政治家や思想家、教育家、文人が英龍と交際を持った。少し名を挙げてみるだけでも、高島秋帆、川路聖謨、徳川斉昭、鍋島直正、藤田東湖、渡辺崋山、桂小五郎、品川弥二郎、金子健四郎、佐久間象山、斎藤弥九郎、大槻俊斎、伊東玄朴らがいる。錚々たる顔ぶれと言わざるを得ない。中でものちに幕末を代表する剣術道場主となった斎藤弥九郎に至っては、天保六年(1835)、韮山代官に就任した際に自分の家臣として召し抱えたという。天保八年(1837)、この頃、大塩平八郎の乱があったりして世情不安であったが、英龍は斎藤弥九郎一人を伴って、支配地であった甲州を偵察旅行した。このとき二人は刀売りに扮しており、その様子を描いた絵も残されている。
英龍の多忙さは想像を絶するものがあった。ヘダ号の建造、品川台場の建築、反射炉の築造、条約締結のための下田出張、農兵の訓練、韮山塾の経営等が重なり、江戸と伊豆を息つく暇もなく往来していた。忙しい中にあって、絵を描いたり、書をしたためたり、彫金を行ったりしていたというから、驚くほかない。筆者によれば「忙しいからこそ、これらに没頭することによって、仕事と生活のバランスをとっていたものと思われる。これがなかったら、英龍の仕事は残らなかったのではないだろうか」と言及されている。
英龍の絵を見ると、そのほとんどは植物や魚貝、鳥、虫、動物を題材にし、それも掛け軸にするような芸術的な絵ではなく、図鑑に載せるような観察図である。恐らく英龍は、息をするのも忘れるくらい筆写するという行為に没頭したのであろう。
人は自分の脳の一割も活用していないという。しかし、江川英龍の多芸多才ぶりを見ていると、例外的に脳をフル活用しているような超人が、世の中には存在していると思えてならない。
英龍は多忙を極める中、度重なる出府命令に応えるために、体調不良をおして江戸に出る。しかし、風邪をこじらせ肺炎を併発。繁忙の中での過労が彼の肉体を蝕んでいた。安政二年(1855)二月、惜しまれながら世を去った。享年五十五。