史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

京北

2014年02月14日 | 京都府
 前日、吹雪といって良いような天気だったので、山国護国神社のある京北まで行けるものか、非常に心配であった。天気の方は打って変わって青空が広がった。
 京都の駅前でレンタカーを借りて、京北を目指す。バスで行くことも検討したが、本数が少ない。行き着くことはできても、市内に戻ってくるのがかなり遅くなってしまう。少々お金はかかるがレンタカーを使うことにした。自動車でざっと一時間である。父によれば、とても一時間では無理という話であったが、一週間ほど前に京北トンネルが開通し、僻遠の地、京北も少し便利になった。


京北

 京北まで来ると、前日の雪が残っていた。雪化粧した山々は、絵に描いたように美しかった。

(山国護国神社)


山国護国神社

 山国護国神社(右京区京北辻町清水谷10)は、山国隊が山国庄に凱旋した明治二年(1869)二月二十一日、直ちに伍長会が開かれ、戦病死した隊士の招魂場を設けることが議され、その三日後、辻村薬師山にて招魂祭が催された。山国隊は山国庄出身者八十三名で結成されたが、うち戦病死したのは次の七名である。

 仲西市太郎(江戸)
 高室重蔵 (江戸)
 田中浅太郎(安塚)
 高室治兵衛(江戸)
 田中伍右衛門(上野)
 北小路萬之助(京都)
 新井兼吾(安塚)

 安塚は宇都宮攻城戦では最も激戦となった場所である。山国隊は、この戦闘で三人の戦死者を出した。


山国隊戦病死者七名の墓


山国隊紀念碑

 山国隊紀念碑の撰文は、槇村正直によるもの。槇村正直は山口萩藩の出身。明治元年(1868)上京して、京都府に出仕。明治八年(1875)、副知事、明治十年(1877)に知事に就任した。諸産業の振興を図り、学校や図書館、病院の設立に尽力したほか、新文化の移入に積極的に努力した。明治十四年(1881)、元老院議官に転じ、その後行政裁判所長官などを歴任した。明治二十九年(1896)、六十三歳にて死去。


池田慶徳歌碑

 池田慶徳は、水戸の徳川斉昭の五男に生まれた。第十一代因州藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したため、幕命を受けて後を継いだ。徳川慶喜は実弟であるが、戊辰戦争では西軍に加担し、山国隊とともに官軍に参加した因州軍は目覚ましい活躍を見せた。碑文には右の慶徳の歌が刻まれている。

大きみの 御たてとなりし ますらをの
いそしを 世々に たつる石ふみ

 その傍らに三角形をした原六郎の碑が置かれている。表面が磨滅して読み取れない。


原六郎(進藤俊三郎)碑

 原六郎は生野の変で敗れた後、因州に逃れ、戊辰戦争では河田左久馬の推挙で山国隊指令長となり、各地を転戦した。維新後は、実業界に転じ、銀行、鉄道(現・総武・東武鉄道)、帝国ホテル、電力、紡績など、我が国の経済界に大きな足跡を残した。昭和八年(1933)、九十二歳で死去。

 池田慶徳の歌碑、原六郎の碑の横には、隊長河田左久馬、司令長官原六郎以下、全山国隊士の霊標が整然と並べられている。


河田左久馬(左)、原六郎の霊標


山国隊士霊標

 中央の少し背の高い霊標は、藤野斎と辻啓太郎のもの。藤野斎は山国神社の神職で、山国隊を組織した人。辻啓太郎は山国隊伍長。戦後は京都府会議長や山国村長を務めた。


藤野斎(右)、辻啓太郎霊標


(山国神社)


山国神社

 藤野斎が山国神社の神職だったこともあり、山国隊が出陣前夜、この神社に集結した(右京区京北鳥居町宮ノ元1)。

(常照皇寺)


常照皇寺

 常照皇寺(右京区京北井戸字丸山14-6)は、春の枝垂れ桜と秋の紅葉で有名であるが、この時期訪れる人は少ない。足跡のない雪を踏んで石段を上ると、本堂に至る。受付は無人であったが、志納料を払ってそのまま拝観させていただいた。




天皇の位牌

 最前列中央は、昭和天皇のもの。右の奥には孝明天皇の位牌も並べられていた。



 「山国隊」(仲村研著 中公文庫)によれば、慶応二年(1866)、光厳法皇を開山とする常照皇寺は、開山五百年を迎えた。時の住持は魯山和尚といった。魯山和尚は、山国の皇室七ヵ村と旗本杉浦領五ヵ村の対立をたくみに利用して、五百年事業を達成しようとした。魯山和尚は、旗本領の富裕な農民からも借金をしたが、早期返済を求められ、窮した魯山和尚は皇室領と旗本領の村人を対立させることにより、まんまと危機を乗り切った。この結果、村には分裂と混乱がもたらされることになり、魯山和尚のもとには「新興成金」と呼ぶべき富裕層が結集することになった。
 これに対抗するため、名主層は官位拝任運動に走った。あたかも京では小御所会議が開かれ、王政復古の大号令が下った時期であった。彼らの運動は成功し、官位を獲得するに至ったが、鳥羽伏見の報が山国に伝わると、彼らが農兵隊を結成し、官軍に協力するのは自然な流れであった。

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