(金戒光明寺 つづき)
井汲恭平墓
井汲恭平こと、谷川辰蔵の墓を訪ねて金か戒光明寺を訪ねること三度目にしてようやく行き当てることができた。結果からいうと、谷川辰蔵の墓は、豊岡随資の墓のすぐそばにあった。
谷川辰蔵は備中倉敷の出身という。元治元年(1864)、国許で事件を起こして大阪に出奔した。土佐人と交わるうちに土佐浪士の大阪焼き討ちの謀議があることを知り密告。その縁で新選組に入隊した。入隊後は、本名の和栗吉次郎を名乗ったが、同年十二月に脱走して井汲恭平と改名して新政府軍に加わって奥州を転戦した。戦後、京都に移って七十二歳で世を去った。

井汲恭平墓
井汲恭平こと、谷川辰蔵の墓を訪ねて金か戒光明寺を訪ねること三度目にしてようやく行き当てることができた。結果からいうと、谷川辰蔵の墓は、豊岡随資の墓のすぐそばにあった。
谷川辰蔵は備中倉敷の出身という。元治元年(1864)、国許で事件を起こして大阪に出奔した。土佐人と交わるうちに土佐浪士の大阪焼き討ちの謀議があることを知り密告。その縁で新選組に入隊した。入隊後は、本名の和栗吉次郎を名乗ったが、同年十二月に脱走して井汲恭平と改名して新政府軍に加わって奥州を転戦した。戦後、京都に移って七十二歳で世を去った。