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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅴ

2013年02月10日 | 京都府
(金戒光明寺 つづき)


井汲恭平墓

 井汲恭平こと、谷川辰蔵の墓を訪ねて金か戒光明寺を訪ねること三度目にしてようやく行き当てることができた。結果からいうと、谷川辰蔵の墓は、豊岡随資の墓のすぐそばにあった。
 谷川辰蔵は備中倉敷の出身という。元治元年(1864)、国許で事件を起こして大阪に出奔した。土佐人と交わるうちに土佐浪士の大阪焼き討ちの謀議があることを知り密告。その縁で新選組に入隊した。入隊後は、本名の和栗吉次郎を名乗ったが、同年十二月に脱走して井汲恭平と改名して新政府軍に加わって奥州を転戦した。戦後、京都に移って七十二歳で世を去った。

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京都御所 Ⅳ

2013年02月10日 | 京都府
(富岡鐵齋邸跡)


富岡鐵齋邸跡

 富岡鉄斎は、天保七年(1836)京都の法衣商の家に生まれた。十五歳頃から絵を学んだ。勤王の志士とも交際があった。維新後は、各地で神職を務めていたが、四十六歳のときこの地に居を定めて画業に専念し、大正十三年(1924)に没するまで四十年以上をここで過ごした。

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堀川寺ノ内 Ⅱ

2013年02月10日 | 京都府
(妙顕寺)


妙顕寺

 堀川寺ノ内は、寺院が密集するいかにも京都らしい一角である。その中にあって一際広大な境内を持つのが妙顕寺である。元亨元年(1321)に日蓮上人の孫弟子である日像上人が創建したと伝えられる古刹で、天正十一年(1583)に豊臣秀吉の命により現在地に移された。慶応三年(1867)十一月二十八日、芸州藩主浅野長勲は、藩兵三百を率いて妙顕寺に入った。

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御室

2013年02月10日 | 京都府
(仁和寺)


仁和寺山門

 仁和寺は、真言宗御室派の大本山である。仁和四年(888)、宇多天皇によって創建された門跡寺院である。第三十代門跡純仁法親王は、慶応三年(1867)還俗して仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王と改めた。新政府の議定・軍務総裁を命じられ、鳥羽伏見の戦いに参加した。維新後は、東伏見宮、さらに小松宮彰仁と名を改めた。佐賀の乱、西南戦争にも従軍した。日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。明治三十一年(1898)には元帥の称号を賜る。明治三十六年(1903)薨去。五十七歳。


仁和寺本堂


鐘馗さん


山門の仁王像

(妙光寺)


妙光寺

 福王子神社の交差点を真っ直ぐ北進すると、突き当りに妙光寺がある。幕末、ここでは勤王の志士が謀議を交わしたと伝えられる。
 品川弥二郎や田中顕助ら勤王の志士たちの相談相手となっていたのが、天章和尚である。天章は、大原重徳の知恵袋として活躍し、文久二年(1862)、勅使派遣の際に、当初岩倉具視が推挙されたのを、天章の推薦により大原重徳の決まったといういきさつがあった。明治四年(1871)、七月九日、妙光寺の書斎で読書しているところを何者かに襲われ、斬殺された。


天章和尚の墓

 すぐ近くには、陶工として名高い野々村仁清の墓もある。

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鳴滝 Ⅱ

2013年02月10日 | 京都府
(三寶寺)


三寶寺

 鳴滝の三寶寺の墓地の一番高いところ、中川家墓域に新選組水口市松の供養塔がある。墓石正面には、水口市松忠輝のほか、藤田兵助忠善、藤田慶三音人の名前が刻まれている。側面には「明治元年一月伏見役戦没」とある。
 水口市松は若狭藩の出身で、京都の医師水口家の養子となった。慶応二年(1866)九月の三条制札事件で活躍し、報奨金十五両を下賜された。鳥羽伏見の戦いで戦死した。享年四十五歳。


水口市松供養塔


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