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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「夜明けを駆ける」 綱淵謙錠著 文春文庫

2011年06月01日 | 書評
表題の「夜明け」は、この文庫に収められた一篇「夜明けを駆ける人々」から取られたものである。
「夜明け」というと、明治前夜、すなわち幕末の頃をいっているのかと捉えがちであるが、それほど短絡的なものではないらしい。著者「あとがき」には
――― 夜明けはもっと大きく、文明史的あるいは人類史的観点からのものでなければならない。
と言及されている。
「夜明けをかける人々」では、「解体新書」の時代(十八世紀後半)、杉田玄白や前野良沢らが手探りで西欧の医学を学ぶ姿を描く。
著者は、この時代を「夜明け」と定義しているわけではなく、「われわれ自身の現代が一つの<夜明け>である」という立場である。つまりいつの時代も次の時代の原因を生んでいるとすれば、どの時代も「夜明け」であるということであろう。
本書には二十六篇の随筆が収められているが、個人的にもっとも面白く読んだのが、「大名家と明治維新」であった。江戸も末期となると藩主というものは無個性で床の間の飾りのような存在になっていた。それが当時の帝王学であり、無能で無害、無個性な藩主が望まれたというのである。その典型が長州の毛利敬親である。
一方で、個性的な藩主の典型として、水戸の斉昭を挙げる。斉昭が個性的であったが故に、幕末の水戸藩は幕府を滅ぼす遠因を作り、血で血を洗う藩内抗争を繰り返すことになった。さらには「明治政府に入って国家の経綸にたずさわった人物が一人も出なかった。」その遠い源が斉昭の個性にあったとする論は卓見である。
この本が上梓されたのは、昭和五十三年(1978)。文庫化されたのも昭和六十一年(1986)と四半世紀も前のことである。しかし「現代もまた夜明け」という著者の主張は、新鮮さを失っていない。
恐らく今回の東日本大震災は、日本の将来にとって、大きなターニング・ポイントとなることは間違いない。本当に経済を縮小させて良いのか、今こそ国民的議論を尽くすべきだろう。

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「河井継之助」 稲川明雄著 新潟日報事業社

2011年06月01日 | 書評
著者稲川明雄氏は、長岡市の河井継之助記念館館長である。今回の新潟遠征に先だって、テキストになりそうな本を探していて、手に入れたのがこの本である。新潟へ旅立つ前にこの本を読み終えることにした。
河井継之助といえば、北越戦争を連想するが、この本では北越戦争の記述は必要最低限に抑えられ、むしろ彼の前半生に力点が置かれている。
河井継之助の人となり、思想を知るには格好の書である。筆者によれば、継之助が山田方谷から学び取ったのはデモクラシーだという。ここでいうデモクラシーは、我々が理解する民主主義とは少々異なるように思われる。藩政改革においては庄屋や村役人の不正をただし、戊辰戦争では戦火に焼き出された領民のことを気遣った。この辺りに継之助の思想の一端をうかがい知ることができよう。彼が北越で戦死していなければ、明治の世をどう生きただろうか。想像を掻き立てられる。

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「大鳥圭介」 星亮一著 中公新書

2011年06月01日 | 書評
星亮一氏の著作なので、読むのに時間がかかりそうな気がして、南米出張の際、長時間のフライトの機内で読もうと携行した。しかし、意外とすらすらと読めてしまい、だったら他の本も持ってくるのだったと後悔することになった。
本書の構成は、全八章のうち四章が戊辰戦争の経過に割かれている。戊辰戦争が著者の得意分野であることは十分理解するが、大鳥圭介の生涯を語るとき、ややバランスの悪さを感じる。
大鳥圭介は、幕府の洋式部隊である伝習隊を率い、その後旧幕臣や新選組を統合して、宇都宮や会津に転戦した。しかし、連戦連敗を重ね(厳密にいうと三勝十二敗くらいでしょうか)、最後は榎本武揚と合流して箱館で戦う。そこでも敗れて降伏することになる。兵の補充もなく、弾薬も足らない等、同情すべき点は多々あるが、それにしてもこれだけ負け続けが混めば、当時から言われていたように「戦下手」という謗りは免れないだろう。指揮官は結果責任を負わなくてならない。
著者は、「決して愚将ではない。むしろ有能な指揮官だった」と弁護する。「大鳥は旧幕府の名誉と会津藩の支援のために懸命に戦っていた。ほかにこういう人がいただろうか。それを思うと安易な大鳥批判は誤りといわざるを得ない」と断定するが、一軍の指揮官としての能力と、戦う姿勢とは別物であろう。確かに一貫して幕府のために戦う姿には清々しさを感じるが、結果から見れば、指揮官としては有能とはいえないのではないか。
むしろ、大鳥圭介が本領を発揮したのは、維新後の工部省出仕時代や外交官としてであった。工部大学校の校長や学習院長なども務め、教育者としても適性があったようである。維新後の記述は最後の二章にとどまるが、特に日清戦争前夜の動きなど、もう少し詳しく知りたいところである。

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