(昌福寺)
昌福寺
慶応四年(1868)七月二十五日、新町の長福寺に陣を置いて新政府軍と交戦していた河井継之助は、左膝下に被弾した。負傷した河井継之助が翌日搬送されたのが四郎丸の昌福寺であった。当時、昌福寺は長岡藩の野戦病院となっていた。同二十九日、長岡城が奪回されると、長岡藩兵は会津まで長途退却することが決定され、継之助も戸板に乗せられて昌福寺を出た。
鵜殿団次郎(春風)の墓
昌福寺には、鵜殿団次郎(春風)の墓がある。鵜殿団次郎は、天保二年(1831)長岡藩士の家に生まれた。幼い頃、神童といわれた。安政二年(1855)、江戸に出て、東条英庵、手塚律蔵に蘭学、英学を学んだ。特に数学、天文学、航海、計量学に優れ、蕃所調所で数学を教授した。安政六年(1859)には、大野藩の要請を受けて、西洋型帆船大野丸に乗って樺太まで往復している。西郷隆盛も鵜殿団次郎の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。その縁で、江戸開城に当たって勝海舟、山岡鉄舟を助けて西郷隆盛との会談を斡旋したという。その後、長岡藩の開戦を聞いて急いで帰郷したが、既に長岡城は新政府軍に囲まれて入城を果たせなかった。落城平定ののち城下に入ったが、その後いくばくも経たないうちに病を得て没した。三十八歳。
長岡藩国漢学校発祥之地碑
明治後、小林虎太郎が中心となって開校した国漢学校は、明治二年(1869)五月、当初は昌福寺に開かれた。
(本妙寺)
本妙寺
本妙寺も、慶応四年(1868)五月十九日の兵火により焼失した。
本妙寺には、長岡藩の儒者山田到処の墓があるが、探しきれなかった。墓地はかなり広い。山田到処は、藩校崇徳館の校長として、河井継之助、鵜殿団次郎、川島億次郎らを育てた。戊辰戦争では、反戦・勤王を唱えた。
(興国寺)
興国寺
興国寺には小林虎三郎、小林雄七郎兄弟の墓がある。
小林虎三郎は、戊辰戦争では開戦に反対した。戦後、大参事として長岡の復興に尽くしたが、明治十年(1877)五十歳で死去。
雄七郎は、虎三郎の末弟。江戸、横浜に遊学ののち、大蔵省に出仕。民権自由を唱えて、第一回衆議院議員に当選した。長岡藩士族の子弟のための育英機関「長岡社」を設立し、人材の育成に努めた。
小林虎三郎 雄七郎 墓
(西福寺)
西福寺
長岡城が落城した慶応四年(1868)五月十九日の早暁、西軍来襲を告げる鐘が乱打された。長岡では、この梵鐘のことを「維新の暁鐘」と呼んでいる。
維新の暁鐘(ぎょうしょう)

昌福寺
慶応四年(1868)七月二十五日、新町の長福寺に陣を置いて新政府軍と交戦していた河井継之助は、左膝下に被弾した。負傷した河井継之助が翌日搬送されたのが四郎丸の昌福寺であった。当時、昌福寺は長岡藩の野戦病院となっていた。同二十九日、長岡城が奪回されると、長岡藩兵は会津まで長途退却することが決定され、継之助も戸板に乗せられて昌福寺を出た。

鵜殿団次郎(春風)の墓
昌福寺には、鵜殿団次郎(春風)の墓がある。鵜殿団次郎は、天保二年(1831)長岡藩士の家に生まれた。幼い頃、神童といわれた。安政二年(1855)、江戸に出て、東条英庵、手塚律蔵に蘭学、英学を学んだ。特に数学、天文学、航海、計量学に優れ、蕃所調所で数学を教授した。安政六年(1859)には、大野藩の要請を受けて、西洋型帆船大野丸に乗って樺太まで往復している。西郷隆盛も鵜殿団次郎の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。その縁で、江戸開城に当たって勝海舟、山岡鉄舟を助けて西郷隆盛との会談を斡旋したという。その後、長岡藩の開戦を聞いて急いで帰郷したが、既に長岡城は新政府軍に囲まれて入城を果たせなかった。落城平定ののち城下に入ったが、その後いくばくも経たないうちに病を得て没した。三十八歳。

長岡藩国漢学校発祥之地碑
明治後、小林虎太郎が中心となって開校した国漢学校は、明治二年(1869)五月、当初は昌福寺に開かれた。
(本妙寺)

本妙寺
本妙寺も、慶応四年(1868)五月十九日の兵火により焼失した。
本妙寺には、長岡藩の儒者山田到処の墓があるが、探しきれなかった。墓地はかなり広い。山田到処は、藩校崇徳館の校長として、河井継之助、鵜殿団次郎、川島億次郎らを育てた。戊辰戦争では、反戦・勤王を唱えた。
(興国寺)

興国寺
興国寺には小林虎三郎、小林雄七郎兄弟の墓がある。
小林虎三郎は、戊辰戦争では開戦に反対した。戦後、大参事として長岡の復興に尽くしたが、明治十年(1877)五十歳で死去。
雄七郎は、虎三郎の末弟。江戸、横浜に遊学ののち、大蔵省に出仕。民権自由を唱えて、第一回衆議院議員に当選した。長岡藩士族の子弟のための育英機関「長岡社」を設立し、人材の育成に努めた。

小林虎三郎 雄七郎 墓
(西福寺)

西福寺
長岡城が落城した慶応四年(1868)五月十九日の早暁、西軍来襲を告げる鐘が乱打された。長岡では、この梵鐘のことを「維新の暁鐘」と呼んでいる。

維新の暁鐘(ぎょうしょう)