goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

沼津 Ⅱ

2010年06月05日 | 静岡県
(江原素六記念公園)


江原素六翁

 前回、辿りつけなかった沼津の江原記念公園まで行った。かつて国道1号線沿いにあった江原素六の銅像が移設されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千駄木

2010年06月05日 | 東京都
(区立鴎外記念図書館)


森鴎外観潮楼跡

 千駄木一丁目の区立鴎外記念図書館は、明治二十五年(1892)から、鴎外が亡くなる大正十一年(1922)までの三十年に渡って、鴎外が居を構えた場所である。ここから遥かに品川沖を臨めたため、住居を観潮楼と名付け、文学活動の拠点とした。明治四十年(1907)以降、ここで歌会が開かれ、与謝野鉄幹、石川啄木など多くの詩人歌人が集った。鴎外の没後、火災や戦災により観潮楼は失われたが、昭和三十七年(1962)に至って鴎外記念図書館が開設された。

(須藤公園)


須藤公園

 地下鉄千駄木駅の直ぐ目の前にある須藤公園は、かつて品川弥二郎の邸宅があった場所である。品川弥二郎の死後、実業家須藤吉衛門に買い取られた。
 維新前には、加賀藩の支藩大聖寺藩の下屋敷があった。今ではマンションなどに取り囲まれてしまったが、当時は遠く東京湾や房総半島まで見渡すことのできる景勝地であった。起伏を生かした大名庭園が築かれたが、小規模ながら現在もその風情を残している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本駒込 Ⅱ

2010年06月05日 | 東京都
(養源寺)


天量院殿璣山道璇大居士
(井戸覚弘の墓)

 井戸覚弘(さとひろ)の墓である。井戸覚弘は、天保十三年(1842)、使番見廻兼帯により目付に任じられ、その後、長崎奉行に転じ、累進を重ねた。弘化三年(1846)、琉球に通商を求めた仏艦や、嘉永二年(1849)、遭難した船員の引き渡しを要求する米艦の対応に当たった。安政元年(1854)、ペリー二度目の来航では、林大学頭復斎、鵜殿長鋭、伊沢政義らとともに、米国使節応接掛として、交渉の任に当たった。同年三月、日米和親条約を調印するに至る。更に、その年の五月には、下田開港に伴う下田追加条約の締結、調印、批准交換に至るまで、常に全権の一員として活躍した。安政三年(1856)町奉行から大目付に転じたが、任半ばで死去した。

(浄心寺)


浄心寺


正六位佐々倉桐太郎墓

 幕臣佐々倉桐太郎は、嘉永六年(1853)、ペリー来航時には応接方として中島三郎助と米艦に赴いた。安政二年、海軍伝習生として長崎に留学。二年後には江戸で築地の軍艦操練所教授方となった。万延元年(1860)の遣米使節に随行した。帰国後は、肺患のため一時療養したが、浜御殿内の海軍伝習の業務に復帰。明治元年(1868)正月には軍艦役となった。幕府瓦解後、徳川家に従って静岡に移り、静岡県権少参事。明治四年(1871)、兵部省出仕。明治八年(1875)病のため辞職するまで海軍兵学寮に勤務した。同年、四十六で病没。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒込 Ⅱ

2010年06月05日 | 東京都
(吉祥寺)


貴族院議員正三位勲一等男爵安場保和之墓

 安場保和は、天保六年(1835)熊本城下に生まれ、八歳で時習館に入り、更に横井小楠の門下に進んだ。嘉悦氏房、山田武甫、宮川房之らと並んで、四天王と称された。戊辰戦争に参加して功を立て、胆沢県大参事、酒田県大参事、熊本県少参事を経て、大蔵大丞、租税権頭に任じられた。明治五年(1872)の岩倉使節団に加わり、帰朝後は福島県令、愛知県令、福島県令といった地方官を歴任した。のちに元老院議官、貴族院議員にも選任された。明治三十二年(1899)年六十五で死去。


従二位伯爵溝口直正墓

 溝口直正は、慶応三年(1867)十二歳で新発田藩主を継いだ。戊辰戦争に際して、藩論は分裂したが、慶応四年(1868)五月、仙台、米沢の藩士が新発田に来て奥羽列藩同盟への加盟を要請された。これに屈して城を出たところ、農兵隊の反対にあい、動きが取れず、その間に政府軍が新潟に上陸し、東北諸藩が兵を引いたため、新発田藩は勤王派として活動することになった。大正八年(1919)、年六十五で没。


贈従三位溝口直諒記功公碑

 溝口直諒(なおあき)は十代新発田藩主。享和二年(1802)、父の死により、わずか四歳で家督を継いだ。以後、天保九年(1838)まで藩主の座にあった。


賢性院殿徳永儀忠大居士
(前従五位新庄直敬墓)

 新庄直敬は、常陸麻生藩の十五代藩主である。戊辰戦争では新政府に恭順した。明治五年(1872)五十五歳で死去。


大機院直道鐡心居士
(細谷安太郎の墓)

細谷安太郎は幕臣。伝習隊に属し、箱館戦争に身を投じた。敗戦後投獄されたが、明治三年(1870)赦されて、横須賀造船所に勤務した。大正十年(1921)、七十八歳で死去。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする