(吉祥寺)
貴族院議員正三位勲一等男爵安場保和之墓
安場保和は、天保六年(1835)熊本城下に生まれ、八歳で時習館に入り、更に横井小楠の門下に進んだ。嘉悦氏房、山田武甫、宮川房之らと並んで、四天王と称された。戊辰戦争に参加して功を立て、胆沢県大参事、酒田県大参事、熊本県少参事を経て、大蔵大丞、租税権頭に任じられた。明治五年(1872)の岩倉使節団に加わり、帰朝後は福島県令、愛知県令、福島県令といった地方官を歴任した。のちに元老院議官、貴族院議員にも選任された。明治三十二年(1899)年六十五で死去。
従二位伯爵溝口直正墓
溝口直正は、慶応三年(1867)十二歳で新発田藩主を継いだ。戊辰戦争に際して、藩論は分裂したが、慶応四年(1868)五月、仙台、米沢の藩士が新発田に来て奥羽列藩同盟への加盟を要請された。これに屈して城を出たところ、農兵隊の反対にあい、動きが取れず、その間に政府軍が新潟に上陸し、東北諸藩が兵を引いたため、新発田藩は勤王派として活動することになった。大正八年(1919)、年六十五で没。
贈従三位溝口直諒記功公碑
溝口直諒(なおあき)は十代新発田藩主。享和二年(1802)、父の死により、わずか四歳で家督を継いだ。以後、天保九年(1838)まで藩主の座にあった。
賢性院殿徳永儀忠大居士
(前従五位新庄直敬墓)
新庄直敬は、常陸麻生藩の十五代藩主である。戊辰戦争では新政府に恭順した。明治五年(1872)五十五歳で死去。
大機院直道鐡心居士
(細谷安太郎の墓)
細谷安太郎は幕臣。伝習隊に属し、箱館戦争に身を投じた。敗戦後投獄されたが、明治三年(1870)赦されて、横須賀造船所に勤務した。大正十年(1921)、七十八歳で死去。