この長編の主人公は堀達之助という名も無き通詞である。小説の主人公といえば、スター性を持っているものと相場は決まっているが、堀達之助は、ペリー来航時に通訳の任にあったことと、我が国初の英和辞典「英和対訳袖珍辞書」を著したことにより歴史に名前を刻んだが、彼の人生は失敗と挫折の連続であった。
小説は、浦賀沖に黒船が出現することから幕を開ける。中島三郎助や森山栄之助(多吉郎)といった著名な人物が活躍するが、肝心の達之助は際立った活躍をするわけではない。中島三郎助を艦に上げてもらうために、咄嗟に身分を偽り、そのことを幕府から咎められるのではないかとびくびくする小役人である。この先この物語はどう展開するのだろうかと要らぬお節介ながら心配になってしまう。
物語は、達之助が下田に転勤してから意外な展開をみせる。ドイツ商人リュドルフと親しくなった達之助は、彼から幕府に通商を求める願書を手渡される。国主からの信任状もない、正式な国書の体を成さない文書である。達之助は、リュドルフの名誉のためにもこの文書を取り継がない方が良いと判断した。ところが、通詞の一存で願書を握りつぶしたことが問題となり、達之助は投獄される。
達之助は牢名主になるが、このことは決して成功物語というわけではない。達之助は、火事によって切り放しがあっても、決められた期日に戻ってくる模範的な囚人であった。牢の外では安政の大獄や桜田門外の事変など、さまざまな事件が立て続けに起きる。小伝馬の牢でも、吉田松陰らが処刑されるが、達之助は極力政治と関わろうとしない。
獄中にあること四年。古賀謹一郎(茶渓)の骨折りにより、達之助はようやく娑婆に出る。蕃書調所(のちに洋書調所)で、達之助は「英和対訳袖珍辞書」を完成させる。これが彼の人生のピークだったのかもしれない。その後、乞われて箱館に転勤するが、ここでも屈辱を味わうことになる。
イギリス人によるアイヌ人盗骨事件や小出(大和守秀実)奉行の活躍については、この小説で初めて知った。幕吏というと、外国人公使の恫喝にいつも萎縮しているイメージが強いが、小出奉行は、逆に領事を鋭い舌鋒で攻め立てる。小出奉行の活躍は痛快であるが、その影にあって英語が理解できずオタオタする堀達之助は惨めである。役に立たないという烙印を押された達之助は、その後、一切通訳に立つことがなかった。
次男孝之は、薩摩藩の五代友厚の知遇を得て、ロンドンに留学している。ロンドン大学の日本語で記された石碑に刻まれた「堀孝之」の名前と本書の主人公堀達之助がここで結びつく。しかし、このことは晩年の堀達之助には何ら関係のないことであった。
達之助は、美也という美しい女性と出会い、再婚を果たす。束の間幸福を味わうがそれも長くは続かなかった。美也を失った達之助は急速に老いを迎える。吉村昭は達之助の人生に「なにか物悲しい気配」を感じたという。黒船の出現により針路が狂わされた彼の人生は、実は大多数の人間が歩む失敗と挫折の連続の人生である。ありふれた人生が静かな共感を生むが、同時にずしりと重い読後感のある小説である。
小説は、浦賀沖に黒船が出現することから幕を開ける。中島三郎助や森山栄之助(多吉郎)といった著名な人物が活躍するが、肝心の達之助は際立った活躍をするわけではない。中島三郎助を艦に上げてもらうために、咄嗟に身分を偽り、そのことを幕府から咎められるのではないかとびくびくする小役人である。この先この物語はどう展開するのだろうかと要らぬお節介ながら心配になってしまう。
物語は、達之助が下田に転勤してから意外な展開をみせる。ドイツ商人リュドルフと親しくなった達之助は、彼から幕府に通商を求める願書を手渡される。国主からの信任状もない、正式な国書の体を成さない文書である。達之助は、リュドルフの名誉のためにもこの文書を取り継がない方が良いと判断した。ところが、通詞の一存で願書を握りつぶしたことが問題となり、達之助は投獄される。
達之助は牢名主になるが、このことは決して成功物語というわけではない。達之助は、火事によって切り放しがあっても、決められた期日に戻ってくる模範的な囚人であった。牢の外では安政の大獄や桜田門外の事変など、さまざまな事件が立て続けに起きる。小伝馬の牢でも、吉田松陰らが処刑されるが、達之助は極力政治と関わろうとしない。
獄中にあること四年。古賀謹一郎(茶渓)の骨折りにより、達之助はようやく娑婆に出る。蕃書調所(のちに洋書調所)で、達之助は「英和対訳袖珍辞書」を完成させる。これが彼の人生のピークだったのかもしれない。その後、乞われて箱館に転勤するが、ここでも屈辱を味わうことになる。
イギリス人によるアイヌ人盗骨事件や小出(大和守秀実)奉行の活躍については、この小説で初めて知った。幕吏というと、外国人公使の恫喝にいつも萎縮しているイメージが強いが、小出奉行は、逆に領事を鋭い舌鋒で攻め立てる。小出奉行の活躍は痛快であるが、その影にあって英語が理解できずオタオタする堀達之助は惨めである。役に立たないという烙印を押された達之助は、その後、一切通訳に立つことがなかった。
次男孝之は、薩摩藩の五代友厚の知遇を得て、ロンドンに留学している。ロンドン大学の日本語で記された石碑に刻まれた「堀孝之」の名前と本書の主人公堀達之助がここで結びつく。しかし、このことは晩年の堀達之助には何ら関係のないことであった。
達之助は、美也という美しい女性と出会い、再婚を果たす。束の間幸福を味わうがそれも長くは続かなかった。美也を失った達之助は急速に老いを迎える。吉村昭は達之助の人生に「なにか物悲しい気配」を感じたという。黒船の出現により針路が狂わされた彼の人生は、実は大多数の人間が歩む失敗と挫折の連続の人生である。ありふれた人生が静かな共感を生むが、同時にずしりと重い読後感のある小説である。