夢発電所

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「名山名士出・・・・」陸 羯南(くが かつなん)

2007-09-02 06:54:50 | こころに残る言葉
 陸 羯南(くが かつなん)(1857~1907)生誕百五十年没後百年の記念講演とフォーラムを聞きに行きました。羯南は「津軽が生んだ近代ジャーナリズムの先駆者」、『国民主義を堅持し、論陣を張った新聞「日本」の創始者』「正岡子規との深いつながり」この三つのタイトルが紹介のチラシに大見出しに書かれています。
 羯南はM40年9月2日に51歳で亡くなっていますから、きょうがその命日になります。昨日は弘前文化会館大ホールにて開会セレモニーが催され、松山市長も挨拶をされました。初めに「陸 羯南と正岡 子規」について復本 一郎現神奈川大学教授が記念講演を行ないました。その後のフォーラムでは松山市立子規記念博物館長・竹田美喜さん、弘前出身でルポライターの鎌田 慧さん、九州工業大学教授で羯南研究家・本田 逸夫さんが「人間陸 羯南」について紹介しました。
 正岡子規が24歳の時に東京上根岸の羯南の上隣に引っ越し、生活が困窮する子規が軌道に乗れるように羯南があれこれと身の回りの世話をしたといいます。実は子規は5歳の時に父親を無くしており、そのために子規は母親と妹の3人世帯となります。羯南の親友でもあった子規の叔父・加藤 拓川(たくせん)は松山藩の藩主が渡仏する際にその通訳をするという名目で不在のために、羯南を頼れと子規に言ったのがその初めとのこと。子規と羯南の年齢差は10歳あり、子規が若かった。結局羯南は子規の没後も母親と妹の世話をし、墓地まで創ってやるような寛大で優しい男でもあったようです。
 子規は羯南を父親のように慕っていたとのことで、脊椎カリエスで病床に臥してからも、羯南のもとに這いながらも訪ねたといいます。
 羯南を語る時に「反骨の人」「反逆の人」と肩書きされますが、宮城高等師範学校在学中に、学校経営に抗議して退校処分になったり、転校した司法省法学校でも、賄征伐事件に巻き込まれ放校となった。M22年に新聞「日本」を創刊して社主兼主筆。しかしこの新聞社も、8年間の間に30回合計200日以上の新聞の発禁処分を受けていました。佐藤紅緑や子規がその新聞社で働いていました。子規を採用したのも羯南でした。「金のために働いているわけではない」というのが彼の主張だったそうです。新聞の役割について彼は、「世論の先になって新聞記事は書かなければならない。社会啓発啓蒙こそ新聞の役割だ」と「independent Writer」(独立的記者)を宣言したのです。「ジャーナリストとして、日本はどこに行くべきか」を考え主張することができるよう、新聞人は自由であるべき。大記者は要らない。新聞が世論を創っていくんだ」とも言われた。足尾鉱毒事件で田中正造が裁判を起こす際に、弁護士を世話したのも羯南だということでした。標題の「名山名士を出だす・・・」は羯南の書で弘前市大狼神社の近くに陸 羯南厳城の詩碑がある。この名山とは岩木山で名士とは誰なのか?実は名山とは陸 羯南で、名士とは子規のことではないのかとシンポジストの鎌田 慧(弘前出身・ルポライター)が熱く語っていました。子規の生涯に渡り庇護をした羯南の寛大な人間性と厳しい反逆精神は彼の最大の魅力となっているのだと思いました。
 松山市での正岡子規は記念館も作られて、多くの人々にも愛されつづけ理解されているようですが、弘前市出身の羯南については、私も弘前在住30年にもなろうとしているのに、今ようやくその存在を知ったような状態です。永年暮らして、どうも津軽人は棟方志功や笹森義助などをはじめ、太宰治、石坂洋二郎など中央で評価されている人々に対して、何も知らないでいることが多いのではないかと思うことがあります。今回のイベントもこれが単なる町興しの起爆剤として使われたり、記念イベントの材料としてだけ使われ終わるのではなく、今の時代にこそこのような人が日本社会のあり方を正しくつき示していることを理解し、伝えていかなければならないのだと感じました。

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