フランクル著の「夜と霧」をまた読みました。この本は私の愛読書です。
フランクルに関しては、心理学者諸富祥彦が数多くの書物を書いていますが、本人が書いた本としてはこの「夜と霧」がすばらしくて、読むたびに新しい発見、そして今を生きる力をもらえます。
さて、「夜と霧」は霜山徳爾氏が訳した旧版と池田香代子氏が訳した新版がありますが、私は池田加代子氏が訳した新版を主に繰り返し読んでします。その新版のあとかぎで次のようなことが記載されています。以下引用です。
旧版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。かつて何度か呼んだときには、このような重大なことにまったく気づなかった。
まずなにより、フランクルはこの記録に普遍性を持たせたかったから、そうしたのだろう。一民族の悲劇でなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかったのだろう。さらにフランクルは、ナチの強制収容所にはユダヤ人だけでなく、ジプシー、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人びとが入れられていた、ということを踏まえていたのではないだろうか。このことに気づいたときに思わず姿勢を正したくなるような厳粛な衝撃を受けた。
ところが新版では、新たに付け加えられたエピソードのひとつに「ユダヤ人」という表現が二度出てくる。ついにアメリカ軍と赤十字がやってきて収容所を管理下においたとき、ユダヤ人グループが収容所長の処遇をめぐってアメリカ軍司令部と交渉した、という逸話である。
以上引用ですが、ここに敢えて、ユダヤ人という表現を記載したのは、この新訳の原版が出版されたのが1973年は、イスラエルがアラブ側に対して国力増強した時期だったのです。
そして、訳者は以下のように記載します。以下引用です。
この時期「夜と霧」の作者は、立場を異にする他者同士が許しあい、尊厳を認め合うことの重要性を歌えるために、この逸話を新たに挿入し、増悪や復讐に走らず、他者を公正にもてあんしている「ユダヤ人収容所者たち」を登場させたかったのだと、私は見る。
訳者の深い洞察で、私はこの本の魅力をまた発見して、今後も読んでいこうと決意を新たにしました。
フランクルに関しては、心理学者諸富祥彦が数多くの書物を書いていますが、本人が書いた本としてはこの「夜と霧」がすばらしくて、読むたびに新しい発見、そして今を生きる力をもらえます。
さて、「夜と霧」は霜山徳爾氏が訳した旧版と池田香代子氏が訳した新版がありますが、私は池田加代子氏が訳した新版を主に繰り返し読んでします。その新版のあとかぎで次のようなことが記載されています。以下引用です。
旧版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。かつて何度か呼んだときには、このような重大なことにまったく気づなかった。
まずなにより、フランクルはこの記録に普遍性を持たせたかったから、そうしたのだろう。一民族の悲劇でなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかったのだろう。さらにフランクルは、ナチの強制収容所にはユダヤ人だけでなく、ジプシー、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人びとが入れられていた、ということを踏まえていたのではないだろうか。このことに気づいたときに思わず姿勢を正したくなるような厳粛な衝撃を受けた。
ところが新版では、新たに付け加えられたエピソードのひとつに「ユダヤ人」という表現が二度出てくる。ついにアメリカ軍と赤十字がやってきて収容所を管理下においたとき、ユダヤ人グループが収容所長の処遇をめぐってアメリカ軍司令部と交渉した、という逸話である。
以上引用ですが、ここに敢えて、ユダヤ人という表現を記載したのは、この新訳の原版が出版されたのが1973年は、イスラエルがアラブ側に対して国力増強した時期だったのです。
そして、訳者は以下のように記載します。以下引用です。
この時期「夜と霧」の作者は、立場を異にする他者同士が許しあい、尊厳を認め合うことの重要性を歌えるために、この逸話を新たに挿入し、増悪や復讐に走らず、他者を公正にもてあんしている「ユダヤ人収容所者たち」を登場させたかったのだと、私は見る。
訳者の深い洞察で、私はこの本の魅力をまた発見して、今後も読んでいこうと決意を新たにしました。
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