TSUNODAの経営・経済つれづれ草

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「夜と霧」(フランクル著)をよんでまた新しい発見

2010-09-16 06:42:57 | 今週の一冊
 フランクル著の「夜と霧」(新版)を読んでいます。

 この本は、読むたびに新しい感動、発見があります。今回読んで感動したのは以下の箇所でした。以下引用です。

 雪に足を取られ、氷に滑り、しょちゅう支え支えられながら、何キロもの道のりをこけつまりびつ、やっとの思いで進んでいくあいだ、もやは言葉はひとことも交わされなかった。だがこのとき、わたしたちにわかっていた。ひとりひとりが伴侶に思いをはせているのだということが。

 わたしはときおり空を仰いでいた。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るく私を照らした。

 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。

 今わたしは、人間が詩や思想や信仰を通じて表明すべきとしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへとすくわれること!人は、この世にもはやなにも残されていかくても、心のおくそこで愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

 収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることにしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を。

 以上が、「もはやにも残されていなくても」に書かれている文章です。

 

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