富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

井波律子さん「完訳」は謙虚でなさすぎる。「論語」は文学作品ではない。

2017年01月05日 | Weblog

TMAの基本は、「論語」である。「論語」こそ、治国、平天下の基本である。従って、最も優れた「論語」の実践的な読み解きとなると、渋沢栄一の「論語講義」(講談社学術文庫)を推奨する。井波律子さんとは、面識がないが、金沢大学の教授をされていたので、あることでご縁があった。さて、昨年2016年に、天下の岩波書店が、井波さんの「完訳論語」を公刊された。まずは、女性が「論語」を受容したという点では、天下を刮目させる大事件であった。古今東西、孔子は女性を敬して遠ざけたから、「論語」は基本、女性を相手にしていない。それは、孔子の側に、女性を教育する資格がないという厳しい自覚があったからだ。「詩経」には、女子には女子の師匠があり、葛の蔓から繊維を取り出し、糸に紡ぎ、さらに染色、織布、縫製という「衣料」の全生産体系を担っていたことが読みとれる。「詩経」の主人公は、基本、女性からの恋歌である。孔子の弟子たちは、孔子の選定した「詩」300篇の暗誦が義務づけられていた。「詩経」の学習集団、その日常の断片記録が「論語」の基本形である。

井波さん、悪いけど、書名が厚顔に過ぎる。「全訳論語」とされないで、「完訳」の「完」は、天を恐れない不敬の思い上がりである。論語の最難読の章は、郷党篇の最後、孔子と子路たちが山野にでて雉たちの鋭い鳴き声に出会う場面がある。これをこなしきれないうちは、「全訳」は「全てに挑戦する」という意味で許される。「まったくする」は全でよい。でも、「完」は「まっとうする」、野球でいう投手の「完全試合」の達成を意味する。気になるので、アマゾンで取り寄せ、まずここをみた。最新の程樹徳の「論語集釈」を参照していないことが分かった。というのは、参考文献の欄で、劉宝楠の「論語正義」のまえに程樹徳の本を並べている。儒学のたしなみとしては、劉宝楠の正義を踏まえ、程樹徳があるので、中国人の参考文献の読みこみが浅いとすぐに分かる。次の難読箇所は、学而編の曽子の「三省」である。訓読と口語訳とが、完全にズレている。訓読では、「吾、日に三たび」と訓じ、口語訳では、「毎日に三つの事について反省する」と大矛盾を犯している。しかも、「伝不習」は、「不習」を目的語にして、「不習」を「伝える」ことをしなかったか、と。これは、中国語の語法には適しない。

中国の最新の楊伯峻の「論語訳注」(中華書局)は、「伝わりて、復習をきちんとしたか?」という意味の現代語訳を丁寧にしている。井波さん、ここをミスすると、学而編ですから、野球でいうと、1回の表で、満塁ホームランを打たれた投手です。それが大リーグの掟です。「北京」や、「上海」で通用しないようなレベルの中国学者ということを意味します。ともかく、「完訳」を銘打つ度胸は、孔子から学んだことになりません。謙虚に、岩波新書では部分訳だったので、次は全訳に挑戦しました、といえば済む。「完訳」ができるのは、まだ100年先の話である。中国古典学のメジャーリーグは、北京、南京、上海、西安、鄭州、成都、杭州、さらに香港。繰り返しますが、「全訳」は事実だから許される。でも、肝心の口語訳の活字が小さく、井波大先生の解説の活字が大きすぎる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする