これは、中国近代史研究の専門家として、責任をもって論述します。
1、南京事件を「南京城内の市民のみの30万人の虐殺」説は、日本軍の南京城内の占領まえと、占領後の人口を比較すると、30万という数字は虚構です。
日本軍が占領するまえの人口数から、中国国民政府の官僚とその家族たちは、すでに武漢・漢口の移転・移住していたので、その数字を引き算したうえで、占領前と占領後の人口数を計算しなくてはなりません。30万虐殺説の根拠とされるスマイス報告が誇大で、上記の計算ミスがあることは、ビーツ教授より再検証されています。中村哲夫『日中戦争を読む』晃洋書房に、ビーツ報告の全文を引用しているので参照してください。
2.南京市民に何ら人的損傷を与えなかったという日本政府側の歴史資料は存在しません。しかも、日本軍兵士の軍規のゆるみを指摘する資料が存在します。また、婦女への強姦が一切なかったとは、日本側の資料にも存在しません。そして、確実に射殺されたのは、南京監獄に収監されていた受刑者につき、日本軍は監獄の事務を引き継ぎながらも、受刑者を射殺したことにつき、国民政府の南京監獄を管理していた機関の証言があります。こうした資料は、南京にある国家第二档案館に存在しているそうです。現在の虐殺記念館は、南京監獄の跡地と言われています。
3.日本軍の南京占領が予測されたため、南京監獄より政治犯として収監されていた中国共産党員は、日本軍占領前にすべて周恩来に引き渡されていたので、中国共産党員には、ほとんど被害者がなかった。それで、武漢・漢口に駐在した周恩来は、日本軍の「大虐殺」に関する抗議声明をだしていません。
4、蒋介石の率いた国民政府軍は、30万の将兵の損傷(戦死と負傷者)を失ったと公式声明を出しているが、同時期に大虐殺であるとは表明していません。戦闘による戦死、傷病者を含めた議論は、この事件の検証を超えた範囲です。
5.日本軍が占領するまえの南京は、中華民国の首都でした。国民革命が成功し、世界から経済学者が集まり、世界経済の安定のためにケインズ学派、アメリカの制度学派、それにロシアのレオンチェフが集まっていました。1929年の世界恐慌から抜け出るために、中国経済を調査研究し、中国の国民総生産の試算を3年間行いました。それには、レオンチェフの理論が使われたので、イギリス、アメリカに先駆けて、GDPの計算は、日本軍の占領まえに、中国国民総生産として世界初めて実施されました。
6、この国際共同研究は、英語と漢語で行われたこと、ケインズ学派(イギリス労働党の顧問)が主導したので、日本から一人の学者も参加する能力に欠けていました。日本の中国研究は、マルクス主義経済学者に拠るものでしした。日本軍の南京占領は、世界資本主義を打倒するために必要だと考えていたと分析できます。だから、近衛内閣の暴走を止められなかったのです。日本軍が南京を占領したために、日本の経済学者は、独自の判断で1929年恐慌からの脱出を試み、中国の1元=日本円1円の固定レート制を採用し、中国経済の占領統治に失敗しました。そのために職を失った南京市民が難民となって上海になだれ込み、国際赤十字のルートから、日本の行為を批判するために、日本の南京占領の被害を増幅する「南京占領」の「事件化」が始まりました。
7.最近、中国政府は、日本軍の侵略を満州事変の前夜までさかのぼらせる歴史認識に改めました。こうして、仮に南京事件の真の被害が論証されても、日本の中国侵略の一場面として大局の被害に置き換えることにしたと思われます。
8、中村の研究において、未公開の資料があります。それは、江蘇省という南京を含む省政府の政治は、基本的に親日的で、日本人との文化交流も盛んでした。しかし、日本軍の行動は、省政府のリーダーたちが「抗日」に転換しました。味方を敵に回し、まともな占領行政の準備もなしに、監獄業務を引き継ぐ用意のない軍人、英語で行われる経済学者会議に呼ばれもせず、呼ばれてもレベルが低すぎた日本の経済学者たち、本当にダメな日本を象徴する事件でした。「30万の虐殺の有無」論争こそ、レベルの低い歴史学です。孫文たちは、青年学者をロンドンに派遣し、ケインズの国際貿易通貨論を学習していました。当時、日本では誰もその水準になかったのです。