『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【862】「絶対」と言えない科学者の発言が、混乱の原因(*^_^*)

2006-12-17 07:05:16 | 思索
「波動注意報の雑記帳」の下のほうに、
専門家が使わ(え)ない表現である「~は絶対にありえない」を、
「~は否定できない」「~はほとんどない」「確率的にきわめて低い」と言い換えたときに、
一般の人たちは、「ありえるのだ」と捉えてしまう話が載っていましたが、
私も、こういう傾向に陥っていると思いました。

 波動注意報の雑記帳 

【861】波動ビジネス(ニューエイジ・サイエンス?)

2006-12-17 05:52:07 | 思索
波動ビジネスで検索しましたら、下記の「波動注意報」という興味深いサイトを発見しました。
このなかの「ニューエイジ・サイエンス」の項目は、今の私のは立場なので注意深く読みました。(^^;ゞ

その欄にある、「感じる」と「傾向」の項目も、今の私の考え方に近いので興味深かったです。

「科学と感じることの差異」と、「主観即客観という認識構造」の関係を、どのように解釈するのかという問題があると思うのです。私は、「人間の主観即客観という認識構造」を拡大解釈し過ぎて、科学に対しても、都合よく使っていたように思いました。(^^;ゞ
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【ニューエイジ・サイエンス】

1960年代~1970年代に近代科学の行き詰まりの代案を求めるという形で生まれた。
伝統的な教え、学問の中から古い考えを捨て、真の教えを探求する運動。
つまり、宗教・哲学・科学といった学問に東西の神秘主義、霊魂などの超常的・精神的な思想を合わせて新しい考えを創ると言うもの。古い考え(超常的ではない?)に対しては批判的。

例:UFO(地球外知的生命体)、霊魂、輪廻転生、霊媒、などを組み合わせて予知や占いやエコロジーな話を用意したのがチャネリング。

しかし、ニューエイジ思想には物事を考えていく上でもっとも大事な「自己検証システム」が欠けているため好き放題に考えを広げる事ができてしまう。
結果的に制限が無く(小さく)、自由な発想が許されるので検証・実証の無いままのめり込んでいく。(場合がありえる)
大きな事件となったオウム真理教なども背景にこの思想を持っていると考えられる。
「波動」(水の結晶)もこのカテゴリに入る。
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波動注意報


セーラー万年筆株式会社 様に聞いてみた。(波動ビジネスの状況)


【860】唯脳論ではなくて、唯脳法

2006-12-16 22:19:00 | 思索
以下の文章は、『知ることより 考えること』のなかの「脳には何もわからない」(P153)の内容を
参考にしながら、波動ブームについて、私なりに考えたことです。

2001年に『こころの時代』(NHK教育)で1年間、『心の神秘を解く』という唯識思想をテーマにした番組がありました。初回に講師のかたが、『仮に、「心しかない」として、世界を解明すると』と言ったことを今でも憶えています。

養老猛司氏の唯脳論も、ただ「脳がある」「脳しかない」という意味ではなくて、
脳しかない「ということにして」、論を進めるものであり、唯脳論ではなくて、唯脳法なのです。
考えるための一つの方法なのです。←哲学的には、「科学」もまた、考えるための一つの方法(存在解釈の物語)ということになります。(^^;ゞ

脳しかない「ということにして」、論を進めるのは、物質としての脳から、非物質の意識が「生じた」など言えるはずがないからです。

意識とは、そこにおいて認識の一切が成立している、世界そのものであり、
脳についての認識すら、意識なのか脳なのかは、ニワトリとタマゴである。
どちらとも言えないのである。

だから、養老氏は、とりあえず起点を脳「ということにして」考えるいう方法をとったのである。
ゆえにこれは、科学とも呼べない。

目に見えない「意識」が、物質にどのような影響を与えることができるのか?
これは、とても難しい問題です。

このことを、今までの私は「信じる人には、現れる」(主観即客観)と表現してきましたが、
飛鳥さんの教えてくれたサイトにある「波動を利用した商品」ということになりますと、
「信じる人には現れる」というわけにもいかないと思うのです。(^^;ゞ

★18日(月)の『視点・論点』(午後10時50分~)は、『蔓延するニセ科学』(菊池誠氏)だそうです。

【859】眼に見えないものって、何ですか(^。^?

2006-12-15 22:02:49 | 哲学的思考
【858】を書いたのは、『知ることより 考えること』に、下記の文があり、
「眼に見えないものって、何だろうか」と思ったからです。(^^;ゞ

『中学一年生の教室。考えることの大枠だけ示して、質問を求めたら、生徒が私に、
「心は、どこにあるのですか?」と問うた。

「体は目の見えるものだから、ここにある、どこにあるということができます。
けど心は、目に見えないものだから、どこにあるといえないものですね。」と私。

そしたら生徒は、しばし黙って、「眼に見えないものって、何ですか」

う~む~。私は一分近く絶句した。「存在ってなんですか」と訊かれたに同じである。
答えあぐねて、苦しまぎれに「先生だって、何十年も考えてわかりません」と言っちゃった。』
       (『知ることより 考えること』池田晶子著 p34)

★哲学的には、目に見えないものが何なのかは、不明なのです。
そして、これは「存在とは何か」の裏返しだからです。

ですが、「存在とは何か」を問わない、一般的な議論では、
眼に見えないものとは、極端に小さなものか、エネルギーです。

そして哲学的には、「存在」についての科学的説明も、早い話「物語(言語)」なのだということになります(p149)

『科学および日常の我々は、客観的世界というものが、先に存在し、主観的意識すなわち「私」が
これを認識するのだと思っている。科学が提唱するこの世界観、まさにこれが誤りなのだ。

なぜなら、改めて言うのも変なほどに当たり前のことだが、
世界とは、私によって見られている世界である。

それを見る私が存在するから、世界は存在するのである。
私が存在しなければ、世界は存在しないのだから、 私とは、すなわち世界なのである。
主観すなわち客観なのである。この全一性、ここに脳の出番はない。』(p151)

★「水からの伝言」騒動も、こういう哲学的視点からみれば、答えが出るのかも知れません。

【858】物理用語による文字表現(^。^?

2006-12-14 21:53:59 | 思索
「目に見えない世界」には、2つあると思うのです。

原子や細菌など、肉眼では見えないけれども、存在するという「眼に見えないもの」もありますし、
熱や風などのエネルギーのように、働きがあるけれども、「眼には、見えないもの」もあります。

問題は、この「エネルギー」の中に、心や言葉が入かどうかです。(^。^?

私もそのひとりかも知れませんが(笑)、「波動クリーク」(?)は、これらの目に見えない二つの事柄を、
極小の世界で結びつけて、言葉の波動が、物質の組成(?)を変えると言い切ろうとしているように思うのです。

そのあたりの説明に、量子力学での「原子は、波動的性質をもつ粒子である」というような説を持ってきて、
言葉のエネルギーが、物質(事象)を作り変えると結論づけようとしていると思うのです。

たしかに、「すべては、宇宙のエネルギーが、表れたものである」といえば、その通りですが、
その場合の「エネルギー」は、物理学で定義された「エネルギー」ではなくて、
いわば文字表現だと思うのです。

そしてもちろん、この文字表現が、真理であることも有り得るとは思うのですが、
科学的に、「存在」はすべて波動であると証明されているのではないと思うのです。(^^;ゞ

【857】「水からの伝言」を信じないでください(^。^?

2006-12-13 23:10:54 | 思索
12月11日の朝日新聞(夕刊)に【反「「水からの伝言」に激】という記事があって、
田崎清明氏の【「水からの伝言」を信じないでください】というサイトが紹介されていたので、拝見しました。

とても論理的に書かれていて、納得出来ました。(^^;ゞ

その他の関連サイトも、とても興味深いです。
「水からの伝言」は、霊的に、説明ができるのでしょうか(^。^?


「水からの伝言」を信じないでください

【856】「スーパーラブ」とは、生命エネルギー(宇宙神のエネルギー)

2006-12-13 21:51:27 | 思索
「スーパーラブ」を学び、人間を卒業できた魂が、ガイド(守護霊)になるそうです。

人間と守護霊の違いは、意識の周波数(修行の度合)の違いなのです。(^^;ゞ

「スーパーラブ」とは、生命エネルギーと言い換えてもよくて、
命そのものが持っているエネルギーであり、そのなかには、無条件の愛、知性、好奇心、機知、
冗談、ひょうきんさ、ウイットなども含まれます。
そういうものが一緒になったものが、生命エネルギーであり、「スーパーラブ」のだそうです。

これは私が以前に「各人が、自分の生命を輝かせることが、各人の人生の目的である」と表現をしたことと同じであり、
「世界平和の祈り」のなかの「天命が完とうされますように」という祈りと、同じ意味だと思うのです。

『慈悲の瞑想』では、「○○さんに、悟りの光があらわれますように」と言われています。

「白光の行法」では、「私は、宇宙神エネルギーと一体である」という我即神也の印と、人類即神也の印だと思うのです。

【855】スーパーラブ(無条件の愛)

2006-12-12 22:48:05 | 思索
『SUPER LOVE』(坂本政道著・ハート出版)という本も、偶然に見つけました。(^^;ゞ

そして、この「スーパーラブ(無条件の愛)」を学び、自ら発することが出来るようになると、
輪廻から卒業できるそうです。

「スーパーラブ」がどのようなものなのかは、体験してみなければわかりませんし、
体験するためには、源からもらわなければならないそうです。

私のイメージでは、深い「統一」をして、宇宙神エネルギーと繋がっている意識だと思うのです。

この覚めた意識のままで、死を迎えることが出来れば、
「業」に巻き込まれないので、「想念」は、輪廻から卒業できるということではないでしょうか。

この世のモノは、この世に置いてゆく覚悟を決めてしまえば、
呑気に生きられます。(*^_^*)

「統一」がもっと深くなると、
死ぬことに、恐怖心が湧かなくなるのかも知れません。 (*^_^*)

【854】自分の波動を高める(*^_^*)

2006-12-11 21:33:41 | 思索
実際に、ヘミ・シンクをするには、準備や費用が必要のようです。(*^_^*)

体外離脱や「自分の意識」に興味があるのなら、体験してみても良いと思うのですが、
「自分の意識」の波動を高めたいのなら、「統一」(瞑想)をすればよいと思うのです。

私は単純に考えていて、「統一」をして、自分の意識の波動(周波数)を常に高めていられれば、
あとは守護霊さんのお任せすればよいと思っています。(^^;ゞ

自分の「波動(周波数)」は、朝と日中と夜では確かに違っていて、
早朝は、自分の波動を高める(浄める)のに最適な時間です。
朝は、「統一」をしたいという気持ちが強く、習慣になりました。(^^;ゞ

日中は、体を動かしたいという気持ち(波動)になり、
夜は、家内と話をして一日を終えたいという気持ち(波動)になるようです。(^^;ゞ

それにこの頃は、なにを見ても、なにを読んでも、「白光の教え」と比較してしまい、
「白光の教え」で解釈してしまっている自分がいて、ちょっと危ない(笑)とは思うのですが、
ここまできたら、「白光の教え(霊的真実)」を生きるのが自分の人生だと、今は考えています。(^^;ゞ

もし、また別の違う道があるのなら、守護霊さんが導いてくれると思うのです。(^^;ゞ
「維持会員」であることが、消えてゆく姿であり、プロセスである可能性はあると思うのです。 (^^;ゞ

★★【白光の教え】とは、「消えてゆく姿」で、「世界平和の祈り」★★

【852】意識は 波動(振動数)か(^。^?

2006-12-10 22:58:52 | 思索
富士聖地が3,97次元であるとか、意識は波動であるという表現は、物理学的説明なのでしょうか?

「次元」とか「波動(振動数)」といっても、物理学的な解説をしているのではないのです。
あくまでも、概念の比喩として使っているのです。

『人は、はるか銀河を越えて』のなかに、そのことをわかりやすく説明した文章がありましたので引用します。
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【人間の意識は広大な宇宙につながっている】
『意識というのは、ひと言でいうと、非物質のエネルギーです。
それは生命エネルギーの躍動といってもよいでしょう。
生命エネルギーn躍動、脈動が意識となって、いろいろなかたちで現れてきいるのです。
ですから、意識は、それがどんなかたちであっても、必ず振動数を伴ないます。
電磁波にも振動数(周波数)があるように、私たちの意識にも振動数があります。

これはあくまで非物質界における振動であって、物質界での振動ではありません。
ですから、私たちの目に見えたり、耳に聞えたりしません。

要するに意識にはいろいろな周波数があって、その振動数の高い低いが意識レベルの高低に相当します。

高い意識というのは、振動数も非常に高いようです。
意識が進化してくるにつれて、高度の精練され、より細かい振動になっていくのです。

ただ、物理的に考えると振動には空間や時間が必要になってきます。
しかし、意識は非物質ですから、物理的な意味での振動数とは概念が違います。
振動数という言葉が一番近いから使っているだけのことです。』(p102)
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ヘミ・シンクでは、振動数の違う意識状態をフォーカス・レベルで表します。

たとえば、フォーカス27は,
次の生に生まれ変わるための意識の中継地で、アカシックレコードを読める意識になることであり、

フォーカス35は、
私たちの意識が大いなる自己(ガイド)につながることができ、
過去世の自分や、ほかの人格の自分を体験する意識になることができるそうです。

【851】この「意識」とは、何か(^。^?

2006-12-09 21:39:34 | 思索
今朝は、『この「意識」とは、何か?』というフレーズが、頭のなかで何回もリフレーンされていました。(^^;ゞ
もちろん、『この「意識」とは、何か?』に、言葉で答えることは出来ないのですが、心地良いのです。(^^;ゞ

この心地良さは、自分の「意識」に覚めている心地良さだと思うのです。(^^;ゞ

これは、自分の「意識」を 客観的に問い続けていて、しかも答えがないことを知っている心地よさなのかも知れませんし、
自分の「意識」に覚めている心地良さかも知れません。(^^;ゞ

『この「意識」とは何か?』という言葉を、心の中で続けていますと、自然と瞑想状態になると思うのです。

OSHOの瞑想法のひとつに、「私は誰か?」と問い続ける方法がありましたが、
それと同じで、問い続けること自体が、自分を覚めた眼で観察し続けることになりますから、
思考が停止して、「覚醒」が得られるのだと思います。

【850】「私の意識」とは、何か?

2006-12-08 21:59:00 | 唯識
図書館に予約をしてあった『知ることより 考えること』(池田晶子著・2006刊)を取りに行ったとき、
偶然に『人は、はるか銀河を越えて』(坂本政道著・講談社2005刊)という本が目に入りました。
読んでみると、とても良い本でした。(*^_^*)  読後に、短い文章が浮かびました。(^^;ゞ
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【私の意識とは、何か?】

私たちは、すぐに、「他者の意識」のことを、あ~だ、こ~だと考えるけれども、
そう考えているのもまた、「私の意識」なのである。

「他者の意識」が、 客観的に存在しているのではないのである。
あくまでも、自分の観ている「他者の意識」なのである。

私とは、「意識」である。
ただ、ただ「意識」である。

ただただ、「統一」が出来て、「自分の想い」を手放して生きられれば良いのである。

それが、無為自然であり、老子の生き方である。

「寒い」と思っても、「暑い」と思ってもよいのである。
把われなければ良いのである。

言葉のイメージや感覚に、把われる必要はないのである。

「教え」に、把われる必要はないのである。
「把われる必要がない」ことにも、把われる必要はないのである。(*^_^*)

すべては、人類という生存の中にある「私の意識」なのである。


体外離脱の世界

【849】2007年5月のSOPP(世界平和交響曲)

2006-12-07 21:55:52 | 思索
私が生まれたのが55年前、老荘思想に興味をもったのが高校生の頃、それから共産主義、ヤマギシ参画、
OSHO、禅、瞑想を経て、数年まえに「世界平和の祈り」に出会い、
来年のSOPPに参加するというのは、あまりにも出来すぎているように思えるのです。(^^;ゞ

しかもそれが、人類の意識のアセンション(次元上昇)と連鎖(?)しているといるのだとしたら、驚くばかりです。

「私の意識」とは、何でしょうか?

2007年5月20日に富士聖地で行なわれるSOPPには、
世界の一線で活躍している聖なる人々、宗教者、科学者などを含めて、一万人以上の人が世界各地から集まります。
そしてこれは、四十二年前に、昌美氏が五井先生とともに霊視したことであり、
両氏は、富士聖地という場所が定かではない時期から、この行事に向けて、会員を育て、導いてこられたのです。

私も、そのようにして育てられた意識のひとつだったのです。
そしてこれが同時に、守護霊さんの導きだったのです。(^^;ゞ

人類印を組んでいる時に、「自分の意識は、人類の意識の一部(脳のネットワーク)」と思うことがあるのですが、
そういう「人類の大いなる意思」のようなものが、私の意識を導いているように思うのです。

五月大行事「Symphony of Peace Prayers (SOPP)」世界平和交響曲

【848】四次元世界に向かって

2006-12-06 22:28:51 | 思索
人類は、その歴史のなかに、キリスト教や仏教やマホメット教などを存在させてきましが、
それらを通じて行ったことは、「業の浄め」なのです。

人類とは、「業の浄め」を主眼とする存在だったのです。
個人の「業」が浄まることで、人類の滅亡を遅らせられるのです。
そして、昨年9月の「歴史の浄め祭」によって、人類の御霊は浄め切られたのです。

『これまで我々は、毎年歴史の浄め祭を行ない、今日まで人類が歩みつづけてきた過去の歴史を溯り、その元凶を浄め、浄め、浄めつづけてきた。そして昨年ついに浄め切ったのである。まさに地球規模の危機を回避させたのである。人類の無知で無秩序な生き方に終止符が打たれ、いよいよ人類一人一人による画期的な進化創造の道への第一歩が記されたのであった。』(「新たな地球の歴史が始まる」・白光誌12月号p7)

これは、2012年のアセンション(次元上昇)に向かって、人類の意識のレベルの準備が整いつつあるということだと思うのです。
そして同時にこれは、人類が霊化して、「意識レベル」が三次元から四次元になることでもあると思うのです。

富士聖地は、現在3,97次元であり、四次元まであと0,03次元になったそうです。
そして、4次元の世界になると、思ったことが即、現実に現れるようになるそうです。
(「四次元は以心伝心の世界」・白光誌12月号p14)


「四次元世界に向かって」

【847】「みたままつり」から地球黎明祭へ

2006-12-05 22:17:37 | 「白光」の教え
以前の「みたままつり」が、「歴史の浄め祭」となり、今年より「地球黎明祭」となりました。

私は、数年前までは神人でも白光の会員でなかったので、自分の肉体の霊波動(?)を役立てることが出来なかったのですが、今年は、地球黎明祭に参加することが出来ました。

人間とは、終始、魂(霊)であり、人生とは、「想い」の浄めであるという考え方は、本当のように思うのです。

人間は、肉体として生きているのか、死者であるのかには関係なく、
魂(霊)が真理(我即神也・人類即神也)を知っているのかどうかだけであり、
人は、浄まっている魂(意識)なのか、迷っている魂(意識)なのかの違いだけだと思うのです。


「地球黎明際によせて」