【858】を書いたのは、『知ることより 考えること』に、下記の文があり、
「眼に見えないものって、何だろうか」と思ったからです。(^^;ゞ
『中学一年生の教室。考えることの大枠だけ示して、質問を求めたら、生徒が私に、
「心は、どこにあるのですか?」と問うた。
「体は目の見えるものだから、ここにある、どこにあるということができます。
けど心は、目に見えないものだから、どこにあるといえないものですね。」と私。
そしたら生徒は、しばし黙って、「眼に見えないものって、何ですか」
う~む~。私は一分近く絶句した。「存在ってなんですか」と訊かれたに同じである。
答えあぐねて、苦しまぎれに「先生だって、何十年も考えてわかりません」と言っちゃった。』
(『知ることより 考えること』池田晶子著 p34)
★哲学的には、目に見えないものが何なのかは、不明なのです。
そして、これは「存在とは何か」の裏返しだからです。
ですが、「存在とは何か」を問わない、一般的な議論では、
眼に見えないものとは、極端に小さなものか、エネルギーです。
そして哲学的には、「存在」についての科学的説明も、早い話「物語(言語)」なのだということになります(p149)
『科学および日常の我々は、客観的世界というものが、先に存在し、主観的意識すなわち「私」が
これを認識するのだと思っている。科学が提唱するこの世界観、まさにこれが誤りなのだ。
なぜなら、改めて言うのも変なほどに当たり前のことだが、
世界とは、私によって見られている世界である。
それを見る私が存在するから、世界は存在するのである。
私が存在しなければ、世界は存在しないのだから、 私とは、すなわち世界なのである。
主観すなわち客観なのである。この全一性、ここに脳の出番はない。』(p151)
★「水からの伝言」騒動も、こういう哲学的視点からみれば、答えが出るのかも知れません。
「眼に見えないものって、何だろうか」と思ったからです。(^^;ゞ
『中学一年生の教室。考えることの大枠だけ示して、質問を求めたら、生徒が私に、
「心は、どこにあるのですか?」と問うた。
「体は目の見えるものだから、ここにある、どこにあるということができます。
けど心は、目に見えないものだから、どこにあるといえないものですね。」と私。
そしたら生徒は、しばし黙って、「眼に見えないものって、何ですか」
う~む~。私は一分近く絶句した。「存在ってなんですか」と訊かれたに同じである。
答えあぐねて、苦しまぎれに「先生だって、何十年も考えてわかりません」と言っちゃった。』
(『知ることより 考えること』池田晶子著 p34)
★哲学的には、目に見えないものが何なのかは、不明なのです。
そして、これは「存在とは何か」の裏返しだからです。
ですが、「存在とは何か」を問わない、一般的な議論では、
眼に見えないものとは、極端に小さなものか、エネルギーです。
そして哲学的には、「存在」についての科学的説明も、早い話「物語(言語)」なのだということになります(p149)
『科学および日常の我々は、客観的世界というものが、先に存在し、主観的意識すなわち「私」が
これを認識するのだと思っている。科学が提唱するこの世界観、まさにこれが誤りなのだ。
なぜなら、改めて言うのも変なほどに当たり前のことだが、
世界とは、私によって見られている世界である。
それを見る私が存在するから、世界は存在するのである。
私が存在しなければ、世界は存在しないのだから、 私とは、すなわち世界なのである。
主観すなわち客観なのである。この全一性、ここに脳の出番はない。』(p151)
★「水からの伝言」騒動も、こういう哲学的視点からみれば、答えが出るのかも知れません。
これを逆に言い換えてみると、それもまた味わい深いな、
と、兄貴が云ってたのを思い出しました。
中々想像しにくい、「私は最早居ない」状態での暮しが
脱落した生ですものね。
まあ、これは、目に見える対象の、みえるみえないのはなしでなく、
私そのもののみえるみえないの話なんですけど、
大きな「こころという宇宙」が、あるんであって、
その中に私やあなたといううたかたが明滅している(像を結んでいる)のだ、
というヴィジョンは、子供なんかには伝えにくいですね。
『大きな「こころという宇宙」』という表現はいいですね。(*^_^*)
それが「本心」であり、すべては繋がっているという心なのでしょうね。
その「本心」のなかに生かされている分際なのに、
何かを得ようとするから、迷い、孤独に陥ってしまうのだと思うのです。(^^;ゞ