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『天皇の密謀」後編写真5,川島芳子、田中隆吉、永田鉄山、北一輝、大川周明、井上日召、建川健次、犬養首相

2014年03月04日 20時55分22秒 | thinklive

 *戦前の日本の活躍人物の方が個性的でドラマティック?皇族を含め、貴賤入り乱れて,超階級的?戦後の日本はマッカーサー占領下、戦争中の米英同盟者たち、昭和天皇を頭に、ヨハンセングループ,吉田茂、白州次郎の跳梁以降、構造的に官僚支配が持続している、官僚支配の中心は、岸、佐藤の明治維新以来の田布施朝出身者、田布施朝が英財閥の支配下にあったように、米の支配集団の指令下に動いている、戦前の自由度の方が日本国家としては自由度が大きかった?戦後の日本は朝鮮戦争以降、産業界の世界化に軸が移行した?

*写真は右から、北一輝、大川周明、井上日召、建川健次、下、犬養首相、

北の理論、* 今読んでも新鮮である、

明治維新の本義は民主主義にあると主張し、明治憲法における天皇制を激しく批判した。すなわち、天皇の国民ではなく、国民の天皇であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け『維新革命』『国家改造』が必要であると自著で主張した。(1.人物 参照)

内務省は、北の考えを”危険思想”とした。後に、北に直接の関与はないが、この主張等に感化された若手将校たちによる二・二六事件で、1937年(昭和12年)8月14日、北は民間人だが、特設軍法会議(一審制)にかけられ、非公開・弁護人なし・上告不可のもと、理論的指導者の内の一人として死刑判決を受け、5日後、銃殺刑に処された。1911年明治44年中国辛亥革命に参加し、宋教仁など、現地で中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼であった事から「片目の魔王」の異名を持つ。また、早稲田大学文科聴講生の時に、階級制度の廃止や労働組合の組織等、社会主義に傾倒する。1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に「日本改造法案大綱」を刊行し『国家改造』を主張した。北の写真はウキペディアの方が真実に近い、イイ顔してる!

*南京攻略司令官たち、松井将軍、朝香宮、柳川将軍



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