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日本軍南京占領時、城内に滞在、独人、多くの市民救済に尽力、独人、ジョンラーベの日記、

2014年03月30日 09時24分25秒 | thinklive

*日本軍の虐殺に付いての具体的な数字はこの日記には書かれていナイ、中国兵や市民の不法な行為も記録されていて、日本、中国に関して客観的な記述が多い、彼がドイツに帰国後、中国における日本軍の残虐性を非難する活動を多くの写真を展示を基に行い、ナチに逮捕され、写真類は没収されている、この活動と日記の内容には幾分か乖離の感がある、

ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe, 1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツ人商社員。シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国に滞在し、日中戦争南京攻略戦時には民間人の保護活動に尽力した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)南京支部副支部長。南京安全区国際委員会委員長。

 1908年に中国に移り、1910年からシーメンス社の中国支社で勤務。一介の商社員として瀋陽、北京、天津、上海、そして南京と中国各地を転勤する。その間、中国は清朝から中華民国へと移り変わり、さらには日本の進出によって1932年に満洲国が建国される。ナチス・ドイツ成立時、中国では最古参のドイツ人であり、ワイマール期に引き続いてドイツ政府と強いコネを持ち続ける巨大複合企業シーメンスの中国支社のトップとしてたまたま南京にいたラーベは、ナチス南京支部副支部長に就任する。

1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の保護に努める。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわれる避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、非人道的行為の防止に尽力する。
1938年2月28日に南京からの退去を日本軍に命ぜられ、ドイツに帰国したラーベは母国ドイツが日本・イタリアとの三国同盟を予定していることを知り、これに反対する政治活動を開始する。ベルリンその他で日本軍の残虐行為を喧伝するフィルムの上映・写真の展示を行うとともに、ヒトラーに上申書を提出し、日本軍による非人道的行為を止めさせるよう働きかけることを提言した。しかし、政府からはまったく相手にされないどころか、直後にゲシュタポによって逮捕勾留される。シーメンス社の介入によってすぐに釈放されたが、写真の類を没収されるとともに、以後公での発言を禁止された。シーメンス社はその後も彼を雇用し続け、ラーベの身の安全を確保するためアフガニスタンに一時的に転勤させた後、終戦までベルリン本社で海外出張する社員の世話をする庶務係として勤務させた。失意のラーベはこの期間に、後に『ラーベの日記』として再発見されることになる草稿を、何年にも渡って書き綴っていたようである。1950年に脳卒中のため死去。墓所はベルリン・シャルロッテンブルク地区のカイザー・ヴィルヘルム記念墓地にある。

 ベルリンの失意時代に書かれたラーベの日記は、のち1996年に孫のトーマス・ラーベおよび当時ラーベ家の食客であったエルヴィン・ヴィッケルト(Erwin Wickert, 元ドイツ中国大使)によって出版された。英語、中国語、及び平野卿子によって「 南京の真実」として日本語に翻訳されている。また、

 一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが、実際には中国人の間に日本軍による虐殺の噂があること、安全区において5件の殺人事件の通報があったことを伝えているだけで、ラーベ自身は1件の殺人も残虐行為も目撃・証言してはいない?さらに、日記では日本軍に対する告発のほかにも、難民が避難している安全区に砲台を設けたり、安全区内の空家に潜伏し、放火や掠奪行為を行う中国兵、市民を置いて逃亡した蒋介石政府と唐生智将軍など、中国側にとっても辛辣な記述があり、ラーベ自身も「ここはアジアなのだ!」と記している。また文中には反ユダヤ的な言動がいくつか見られ、ラーベが帝政時代に多かった反ユダヤ主義者であったこともわかる、*ウキペディア参照





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