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奈良市・平城宮東院地区・発掘調査 淳仁天皇時代(758-764)の遺構を確認

2010年02月17日 | Weblog
 平城第446次発掘調査現地説明会が、2月20日(土)13時30分から開催される。
 それに先立ち、奈良文化財研究所が16日に調査概要を発表した。
 平城宮跡東院地区(奈良市)は奈良時代に、天皇や皇太子の邸宅が置かれた。
① 倉庫とみられる建物群(②参照)や通路跡(③参照)が見つかった。中枢部の外側だが、藤原仲麻呂(706―764年)が専制政治を行った時期には宮殿状に大改造されていた。奈良時代を通じて6時期の変遷があり、仲麻呂の専制期に重なる遺構が初めて確認された。
 主殿や脇殿を意識した建物配置で、柱を全面に立てる総柱建物でもなかったことから、宮殿的な施設と判断した。礎石を伴った可能性があり、地固めに敷いたとみられる石も残っていた。 [参考:奈良新聞]
② 淳仁天皇(在位758~764)時代の建物跡が出土したと発表した。建物はのちに別の建築物に変わっており、聖武天皇以降、5代の天皇が即位するたびに、大規模な建て替えを行ったことが確実になったとしている。
 過去の調査では聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁と続く5代のうち、淳仁期(758-764)の遺構だけ未確認だった。
 出土したのは、幅12m以上、奥行き6mの建物と、礎石の上に柱を立てたとみられる建物の2棟。その後の称徳期には、倉庫とみられる幅18mの掘っ立て柱建物に建て替えられていた。
 建て替えは、前の代の天皇を否定する意味もあったのではないかとの見解もある。 [参考:読売新聞]
③ 東西に伸びる幅約15mの通路も見つかった。奈良時代末には、両側の塀が中枢部とみられる地区の手前で北と南に90度屈曲。通路の先に中枢施設が眠る可能性が強まったとする。 [参考:奈良新聞]

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