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福山市・福山城 大手門の石垣遺構を確認

2009年05月08日 | Weblog
 福山市教委は7日、JR福山駅前広場(同市三之丸町)整備事業に伴う第3次発掘調査で、地下送迎場への進入路を設ける計画地の200㎡を3月から調査し、福山城の大手門へ通じる橋台の石垣遺構を確認したと発表した。また、出土した大手門東側の石垣を報道陣に公開した。
 福山市教委は、昨年5月の試掘で存在が確認されていた石垣の周辺を、南北20m、東西10mにわたって掘り下げ、西側に向かって通路の遺構(長さ約7m、幅約12m)を確認した。石垣は1619年の築城時に整備された大手橋の基礎部分に当たる。
 橋台の北側の石垣は高さ1・8m。堀底から2段目までが築城当時で、上部は過去の地図などから溝として利用するため大正期以降に築かれたとみられる。底部では粘土と砂地の軟弱な地盤を支えるために敷かれた石が目立つ。一方、南側は堀底から2段目までしか残っていなかった。
 一帯でこれまでに確認されている舟入状外堀や二重櫓と同様、さまざまな形の石を組み合わせた「打ち込みはぎ」と呼ばれる高度な技術が残る。
 市教委によると、一部が激しく損壊している上積み方が粗く、保存状態は必ずしもいいとはいえないが、古絵図などから大手門があったことを示す唯一の遺構。規模や石積みの状況が明らかになったと話している。
一般公開した後、中旬をめどに石垣の撤去を始める。撤去した石垣は保存するという。
 現地見学会は10日午前11時~午後3時。午前11時、午後1時、同2時の3回。
[中国新聞、山陽新聞、毎日新聞]

福山城
 元和5年(1619)、備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則(1561-1624)が広島城を無届けで修築したことを咎められ改易となったため、 徳川家康の従兄弟である水野勝成(1564-1651)が計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封した。入封時は備後神辺城に住んだが、やや内陸にあるため、この時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。元和8年(1622年)に完成した。

福山市由来(福山市役所HPより)
 福山城があるところは,もとは蝙蝠山(こうもりやま)と称していたが、「蝠」は福に通じることから「福山」と称された。

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