市教委が21日、石清水八幡宮境内で赤穂藩士の大石内蔵助(1659-1703)ゆかりの僧坊「太西坊(だせいぼう)」跡が見つかったと石清水八幡宮境内遺跡調査専門委で明らかにした。
太西坊跡は、江戸時代中期に作られたとされる絵図から位置は分かっていたが、今回の調査で、八幡宮の本殿裏で枯れ葉などに埋もれるようにして見つかった。本堂とみられる建物の痕跡部分には、直径約1mの花崗岩の礎石7基が6m四方に配置され、礎石の上部には柱がのせられるような四角いくぼみがあった。
地誌「男山考古録」によると、赤穂浪士の討ち入りの頃、太西坊の住職は大石家の親類から養子に迎えられ、住職についた覚運(かくうん、1687-1754)。「仇討ちのことについて密かに手助けをした」などと書かれている。覚運の前の住職は内蔵助の実弟・専貞(?-1698)が務めており、大石家と石清水八幡宮との関係が浅くないことをうかがえる。
[参考:朝日新聞]
過去の関連ニュース・情報
石清水八幡宮
太西坊跡は、江戸時代中期に作られたとされる絵図から位置は分かっていたが、今回の調査で、八幡宮の本殿裏で枯れ葉などに埋もれるようにして見つかった。本堂とみられる建物の痕跡部分には、直径約1mの花崗岩の礎石7基が6m四方に配置され、礎石の上部には柱がのせられるような四角いくぼみがあった。
地誌「男山考古録」によると、赤穂浪士の討ち入りの頃、太西坊の住職は大石家の親類から養子に迎えられ、住職についた覚運(かくうん、1687-1754)。「仇討ちのことについて密かに手助けをした」などと書かれている。覚運の前の住職は内蔵助の実弟・専貞(?-1698)が務めており、大石家と石清水八幡宮との関係が浅くないことをうかがえる。
[参考:朝日新聞]
過去の関連ニュース・情報
石清水八幡宮
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます