カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ラ・マーサ (LA MASA)

2011年05月29日 | 京都
「よろしく、パエリア。」

唐突に友人が、スペインに行くと言い出した。
しかも、移住を視野に入れ、とりあえず近々、視察に行くのだという。
驚いたカゲロウは、何か出来ることはないかと思い、とりあえず、パエリアを食べてみることにした。
これまでは、映画でしか知らない、そんなスペインをリアルで感じるには、脈絡がないようでいて、実はそこそこに妥当な方法であるとも思える。
最近、パエリアのひとり鍋を、ランチで始めた御店があるとの情報が、いきなりの渡航告白に面食らった彼を、闇雲にパエリアに向かって強く後押しした、それも事実であろう。

もう何十回と知れず、度々往復している寺町通り、だが、その建物の一角の、気付かなかった細い通路の奥の奥に、その御店はあった。
この辺り、外観的な造りは、京町屋風でも何でもない物件であっても、土地の間取りは同じように、鰻の寝床的であるのは何故であろうか、京都市役所横の洋食屋、アローンと似通った状況、似通った中庭まである不思議。
おそらくは、この近辺の建物の設計士が、嘗ては一手に同一人物だったのであろう。

と、程なくやって来た前菜は、彩り豊か、しかし、ことごとく冷製であるのは、やはり、メインのパエリアが出来上がるまでの、時間稼ぎに丁度いいから、そういう事情なのは、多くの御店の定番である。
セット中、スープ、もしくは、グラスワインを選べるのは、選択肢として幅があり、とても親切なシステムだ。
ただ、おそらくは、安価なスペイン・ワインなのであろう、その渋さが、残念ながらカゲロウの口には合わない。
そしてメインのパエリアは、季節料理の蛍烏賊、そして定番の鶏と兎肉、別々の種類を、ふたりで選んでみた。
蛍烏賊というのも、あまり戴く機会のない食材で、普段、味わうことのない、それなりに特殊な風味であるのは勿論であるが、何より兎肉、その風味のクセ、あまりのジビエっぷりに至っては、ふたりして少々驚きを禁じえない。
それは勿論、それなりの専門店としては、誉められるべき良いことであって、その特色、その風味を、あえて日本人の好みに合わせたりはしない、そこにこそ、スペイン料理店としての矜持があるというものである。

これまで幾らか異国の料理に馴染んできた、そんなつもりのふたりにあって、それでも少々たじろぐ、ジビエとしての兎肉、パエリアという、食材を雑多に煮込んだイメージの料理、その味を、食材同士の風味が絡み合い、程好く中和されたものと甘く見ていた、そうなのかもしれない。
そう感じ出すと、当然のこと、東洋風のお粥とはまた違う、別の調理法を施された米の煮方、そこにまで違和感を感じてくるのが人間の成り行きである。

良くも悪くも馴染みのない、スペイン料理の持つこの違和感を、この御店に来る他の客たちは、大して違和感としては感じていないのであろうか。
本来は在るべき矜持と、幾らかの勇気を持って提供されているのであろう、これらの特徴ある料理は、御店の持つバルとしての雰囲気に紛れてしまい、その違和感を、酔いと共に、曖昧に享受されてしまっているのではないか。
カゲロウの脳裏に、そのような、色んな方面に対して、かなり失礼であるとさえ言い得る、無粋な考えが過ぎる。

そう、世間というものは、食べること、それだけのために料理店に来る人間ばかりでは、勿論ない。
呑む為、もしくは、喋る為、そして、時間潰し、それはそれで、一定の需要があるのが、実情である。
そんな客にも場所を提供し、あまつさえ、あわよくば、本格的な料理で啓蒙することが出来る、その実際に、意味がない訳ではない。
もしかすると、その為には、このジビエを使ったパエリアくらいに、強く違和感の湧く料理であることの方が、より適している、そうとさえ、言い得るのではなかろうか。

親しみが湧くには、少々時間が要りそうな、そんな異国の料理を戴きながら、カゲロウは、遠からず遠くの地に行ってしまうという友人の行く末に、想いを馳せる。
友人を、よろしく、パエリア。

末廣

2011年05月26日 | 京都
「鰻の寝床の穴子のお寿司。」

穴子寿司というと、当然、穴子が主役であるような、
それは、勿論のことなのだけれど、
実際、この押し寿司の酢飯は、絶妙のやさしさを内包している。

刺激とは無縁の、ほのかなほのかな酢の風味、
頬張る直前の香りにのみ、感じられる、
その存在は、おそらく千鳥酢なのであろう、
強い酸味以上に、むしろ戴く者の心に、深く深く印象付けられる。
湿り気が多い訳でもない、にもかかわらず、型崩れすることのない、
米粒同士が、かなり密着した、まさに、これ、箱寿司といった、その出来栄え。
一旦、型に嵌め込まれ、切れ味も鋭く、光った包丁で、
職人の手によって、すっぱりと切り分けられ、出来上がる。
調理の過程が眼に浮かぶような、手造りの美しさが、そこにはある。

そして穴子は、これもまた、やさしい。
ほのかな酢飯の風味、それと共存するかのように、
同じくほのかな、しかし、はっきりとした輪郭を持ったタレの風味、
そして、穴子独特の微かな微かな泥臭さ、
それ故の、穴子寿司としての個性は、存分に発揮されている。
それこそが、穴子を戴く、負の魅力と言っていい。
何もかもを、良きことのように言う必要はない、
微かに匂う、その悪魔的な要素にこそ、人は惹きつけられ、
それ故の、深み、そしてその稀有な価値を見い出すのだ。

例えばこれを、気候が許すならば、晴れた鴨川沿いに持ち出して、
のんびり河原で戴けるならば、その長閑さは、何にも変え難い記憶として、
おそらく死ぬまで、その記憶の中に残ることであろう。

例えばこれを、手土産に、病床のお見舞いになど持って行ったものならば、
この穴子寿司のやさしさ、奥深さが、その人のやさしさ、奥深さと勘違いされ、
実際以上に感謝されてしまいそうな、そんな風情の押し寿司。

購入後、カフェにでも寄るつもりが、
どういう成り行きか、持ち帰るつもりの穴子寿司で、
車中、腹を満たしてしまった。
思いも寄らぬ速さで腹中に収まり、姿を消した、
これも、穴子寿司の持つ、魔力なのであろうか。

御二九と八さい はちべー

2011年05月21日 | 京都
「ネオ・新京極。」

新京極といえば、言わずと知れた京都一の繁華街、しかし、少し外れて、灯りの少ない路地に、一歩足を踏み入れれば、少々薄汚い、しかし、居ればその内、どっかと腰を落ち着かせてしまう、そんな雰囲気のゲーム・センターがあったり、通りすがりには必ず苦笑を催す、そんなタイトルの付いた、性的な映画を専門に上映する映画館があったりと、地元民、観光客、いずれも、その年代は問わず、何処かに、ほっこりした居場所を見つけることの出来る、雑多な雰囲気を持つ街並み、そして人の流れではありました、かつては。

京都市内の他の場所と比較して、人が多い、駐車事情が悪いなどという諸事情もあり、あまり長居することもなくなっていたその地域で、久々に小さな路地を、当てもなく、ふらふらと歩いてみると、ある種の懐かしさを思い起こさせる、そういった陰のある部分は、おおよそ一掃され、小ぎれいな石畳に路面はひき直され、しかし、昔ながらの京都風であることを、強く意図的に主張する、まるでアトラクションの国のような街並みが、以前の陰湿さなど、まるでなかったことであるかのように、いつの間にか、この見慣れぬ街角を潔癖に覆っています。

殊更その傾向の強い場処にある、同じくそんな風情のこの御店の、牛タン・ハンバーグ、それが、ランチのメイン・メニューで、当然の如く、所望していたのはその料理だったのですが、一際に感銘を受けたのは、実はもうひとつのメニュー、牛ネック・シチューでした。
牛タン・シチューであれば、よくあるメニューなのですが、牛ネックとは、珍しい。
しかも、諸々のサイド・メニューまで付いて、1,500円というのは、この類のシチューにしては、かなりお手頃な値段であるとも言えるでしょう。
コクのあるデミグラス系のシチューは、蕩ける肉片と共に、ご飯と一体化させ、カレーライスのように戴くと、何とも言えない満足感を得られること、請け合いです。

夜のメニューを拝見していると、どうやら様々な部位の牛肉を提供しているようなのですが、普通の焼肉屋さんで見かけるような、メインであるはずの部位は、全く見当たりません。
よくある内臓系のみならず、珍しい部位ばかりです。
ちなみにお昼のランチでは、付き出しも、部位は、肺であるとのことでした。
そして、食後の苺羊羹、これも、見栄えのする、ちょっと変わった趣向です。
他の御店とは、幾分か違う料理、それがこの御店のコンセプトなのでしょう。
さらには何と、提供しているワインは、モルドバ・ワインです。
こちらは、知っている人自体が、非常に少ないワインでしょう。

店員さんは、かなりお若く、職人風の方が数名、非常に丁寧な物腰で、京都観光に来られた方々に失礼がないよう、とても気を使っておられる風情で、逆に客であるこちらが気を使ってしまうような、そんな状況も、多少見受けられるような気はします。
御店の雰囲気、店員さんの物腰、此処でしか味わえないような、ちょっと特殊なお料理、滅多に来ることのない京都を楽しみたい、そんな方には、万全の御店かとは思われますが、少なくとも、地元の常連の方々が、この御店で寛いでおられる姿というのは、良くも悪くも、ちょっと想像できない、昨今の近辺の街並みと同様に、そのような風情の御店であるということは、少なからず、言えるのではないでしょうか。

口ぶえ/折口 信夫

2011年05月21日 | 日記
何であれ、良い面と悪い面があって、自分に都合の悪いことは、その悪い面だけが全てであるかのように、
本心から思ってしまう傾向というのが、人間にはあるし、つまり、社会全体にもある。

同性愛者というと、それにまつわる全てが破廉恥で汚らわしいと早合点してしまう、
そういう傾向は、いつの時代も著しく顕著であり、そういう風潮に苦しめられた人物というのは、
いつの世にも、常に居たことであろう。

当然の如く、敬虔で慎ましやかな同性愛者も居れば、多くの評判通りに、節操なく破廉恥な奴も居る。
同じく、救い難く破廉恥な異性愛者も居れば、勿論、所謂、人並み程度、普通の人も居て、
実は世の中、そのカテゴリーだけが、社会的には正常であると認知されている。

だが、実際は、同性愛者であろうとも、真面目な付き合いをする、真面目な人物なのであれば、
社会的差別を受ける謂れなど、全く以ってない訳であり、本書、「口ぶえ」で描かれる人物像というのは、
まさにそういう性向である。

そしてこれは、おおよそ、作者、折口信夫、本人の自伝的小説であり、
此処には描かれてはいないのではあるが、彼は、実際、そういう類の社会的偏見を、
存在の根源的な苦しみとして心中に抱いており、他の何かを切欠にして、
若い頃から、何度か自殺を試みているようである。

真に穢れているのは、差別する側の心だと、実は差別的な人々が気付くのは、いつの事だろうか。

月餅家 直正

2011年05月18日 | 京都
「凝視、必至。」

前衛芸術的な先鋭性を、その外面に表出しつつ、
実は材料が何であるのか、それがおおよそわかる我々は、
その風味が、おおよそ伝統的なものであろうことも、
予め理解することが出来る。

そしてその期待は裏切られることなく、
品の良い甘さの漉し餡によって、上質を証明され、
大量生産のそれとは比較にならない、
満足、納得の結果を、心静かに我々は得ることが出来る。

あえて、同じ和菓子で、
食べ物としての質的な満足度を言うならば、
例えば、桂離宮の南側にある、中村軒の質実さにも劣らない。
しかし、それにプラスして、
その外見は、少々方向性は違えども、
塩芳軒クラスの繊細さを持ち、
しかも、お値段は庶民的に、半額と言っても過言ではない。

塩芳軒の和菓子のデザインが、
やや、美味しそうであること、食べ物であることに、
多少のバイアスがかかっているのと比較して、
此処、直正は、その点、容赦なく、
むしろ、この和菓子が食べられる物であるとは思えない、
この美しい造形物が、食べられる物だなんて、
思いもかけなかった儲けものだとさえ思わせる、
それ程に、デザイン性に、特化している。

しかし、どのような類の物であれ、
得てして、外見の美しさ、その価値を軽んじる風潮のあるこの国で、
やはり、この御店が評価される最も有名な和菓子といえば、
成り行き、わらび餅である。

だが、店内では数少ない、地味な外見のわらび餅は、
例えば、鞍馬口の茶洛で所望すれば、見栄えに頓着する必要もなく、
嫌という程に、その質感のみを味わうことが出来るのであって、
やはり、この御店、直正が、あえて他と比して、
何に突出した御店なのかと問われれば、そのデザイン性に尽きる、
そのように直感されるのである。

都合により、ウィンドーから眺めるだけで、
味わう機会が、もしなかったとしても、
その純粋な造形美、それだけで、
観る者の心を別の世界に連れて行ってくれる、
そんな和菓子が、三条木屋町の高瀬川沿いには、在る。

シトロンサレ

2011年05月14日 | 京都
「ブルーチーズ、と、マカロン。」

一見、ちょっと失敗してしまったのかなと思うような、
そんなパーマをかけて学校に来る女の子を見掛けたことが、
むかしあったし、今も街で、稀にある。

否応なく周りから浮いてしまう、そんな奇抜なカラーとカール、
そしてそれを自覚している彼女自身の漂わせる雰囲気。
時に怖気づき、おずおずと、
しかし、時に自信が湧いてきて、堂々と、ワイルドに、
だが、彼女がどんな態度をとろうとも、
それに対して、見ただけで顔を顰める人間は、やはりいるし、
いくらか仲良くはしていても、
残念ながら、その美意識に関しては否定的な、そんな人もいる。

そうではなくとも、理解のある、
ましてや褒める人間など、かなり稀で、
実際、そういう行為、その要素の持つ意味を、
好ましいと心から思える人間の絶対数、
それは、カゲロウが世の中に絶望し、
悲しくなってしまう程に、少ない。
本当に、少ない。
既成の概念が何よりも尊重され、
良かろうと悪かろうと、過ぎた個性は歓迎されない、
常識と名付けられたそんな空気が、この社会を覆っている。

そんな彼女の個性を、ただ在りのままにというのでもなく、
お互いに意識して、その意味をくみ取り、尊重できるのは、
もしかすると、他でもない自分だけなのではないかと自惚れてしまう、
それ程に、多く世間を覆う価値観というのは、狭量だ。

だがしかし、そんな彼女をわかってあげられるのは、
ものを見る眼のある自分だけだなどという奢った考えは、おおよそ勘違いで、
彼女は彼女なりに、多くの人からそれなりの反感を買うことを覚悟しつつ、
強く根拠を抱いてその主張、その美を誇示しているのであって、
意外とそれは、此処ではない別の国ではトラディショナルなものであったり、
もしかすると、まだ日の目を見ることのない、
最新のファッションであったりする、そんな場合も、多々ある。
何のことはない、おおよそは、それにカゲロウの認識が追いついていない、
ただそれだけのことなのだ、現実は。

例えば、ブルーチーズの風味のする、そもそもは、甘いはずのマカロンなんて、
ちょっと常識的には考えられない組み合わせのように思えるのだけれど、
実際それを、齧ってみて、クセのあるその風味の虜に自分はならないなどと、
果たして迂闊ではない誰に言えることだろうか。

それが社会から押し付けられたものだと気付かずに、
ありふれた常識で自分を縛ってしまっている、
そんな人には巡り合うことのできない、稀に見る好さ、そして美しさ、
そういう価値あるものも、世の中には、まだまだあるのだ、意外と、たくさん。

ふなまち

2011年05月11日 | 兵庫
「イマジン。」

己の想像力の欠如を嘆く。

実際、中はトロリと、カスタードのよう。
さらりとした食感は、例えば、半熟カステラのように、粘り付くしつこさもなく、
勿論、風味は、甘くはない。
たまごやき、そのものが、丸くやさしく柔らかい、そんな甘い外見とは無関係に、
カスタードのような甘味とは、かけ離れた、お出汁の風味で、
何に似ているかといえば、たまご豆腐、もしくは、茶碗蒸し、そのような類のものであり、
深く考えるまでもなく、当然の如く思っていた普通のタコヤキとは遥かに程遠い、
ある種、上品な食べ物ですらある。

箸の一対で持ち上げようにも、丁寧に慎重に、
そして大切に運ばなければ、その美しいカタチは、脆く崩れ落ちてしまうけれど、
不思議なもので、それもコツがわかると慣れてきて、ぱくぱくと戴けてしまう。
何しろ、たったの500円で、木製のあげ板の上に、20個も載ってくるのだから。

明石焼きといえば、タコヤキを出汁に浸けて戴く、そのような食べ物である、
事前の、そんな浅はかな個人的認識からすると、
そのキーとなるのは、やはり出汁の存在であると愚考していたのであるが、
実際は、そうではなかった。
出汁に浸す必要もなく、たまごやきには、予め仄かなやさしい風味が備わっており、
むしろ何も付けずに戴く方が、その好さが身に沁みる、そのような感慨すら憶える、
素朴な在り様の、これまさに、ソウル・フードであった。

そこは、ポルノを上映する映画館があるような、
ひと昔前の自由な雰囲気を残す、活気のある商店街で、
その風情は、京都で例えると、西陣の一角、その界隈のようでもある。
ディープでありながら、明るい雰囲気に満ちた界隈にある、
素朴でありつつも、ひと際ディープな御店、それが此処、ふなまちであった。

亀廣永

2011年05月08日 | 京都
「彼の頃の、幼き夢想。」

蝉が鳴く、ジィジィジィジィ。
地面に出来る己の影が、
穴ぼこのように真っ黒だ。
痒くてすぐに剥がしてしまう、
かさぶたの傷とともに、
剥き出しの腕が焦げて
ジリジリと水分が蒸発するのにも構わずに、
少年はカブト獲りに出掛ける。

だがしかし、少し離れた土地に住む親戚は、
カブト獲りのことを、ゲンジ獲りと言う。
ゲンジとは、特定のクワガタの事だけを言うのであって、
本カブもクワガタも合わせた言い方は、
やはり、カブトと言うのが正しいのではないかと、
その田舎の少年は思いつつ、駆ける。

夜になると、
蝉の代わりに
蛙の声と、想いが空間を埋め尽くし、
水田の水面のひと隅に、
朧な月の姿が映るような、そんな処では、
然程、アスファルトの道から離れた場所でなくとも、
少々太めの幹であっても、
水草履を履いた細い足で、
思いっ切り蹴飛ばせば、
カブトは木から落ちてくる。
昼でも夜でも、落ちてくる。
ミヤマクワガタは、特に握力が弱いのか、
獲ってもガッカリして棄てたくなる、
それ程に、落ちてくる。

そして、これは蹴っても無理かと思う、
そんな厳かに太い雑木の幹からは、
往々にして、重く樹液が垂れている。

暑さも忘れ、喉の渇きを感じることもなく、
カブト獲りに熱中していた少年は、
その雫を見い出して、ふと、甘美な味を想像する。
昼の明るさは、その欲望を押し止めるが、
夜の暗さに包まれた中では、
その誘惑を断ち切ることも出来ず、
少年は、その雫をすくい取り、
舐めてみようと、思い、至る。

だがしかし、その雫は、
深く輝く琥珀色の瑞々しさとは
打って変わった硬さ、
それだけを、少年の指先に伝えてくる。
それにもめげず、
少年はその樹液を幹から引き剥がし、
おそるおそる、舐めてみる。
だが、極上の甘さを与えてくれること、
それを期待した琥珀の雫は、何の味覚も、
苦味さえも、少年にもたらしてはくれない。

少年が大人になって、
初めて舐めた、
「したたり」という、その和菓子。
子供の頃に切望した、
あの夏の陽射しの下の、
そして、冷えた暗闇の中の
そうあるべき樹液の夢の味、
それはちょうど、こんな味だったのだろう、
そんな気がする。

純手打うどん よしや

2011年05月04日 | 香川
「純真、うどん、そのもの。」

気張った雰囲気がない、
此処、よしやに入って最初に受けた印象は、
良くも悪くも、そのようなものであった。
現代的と、言えば言えないこともない、
ひと昔前のドライブイン的、建築様式、
これもまた、良くも悪くも、
ある種、朴訥な印象を受ける。

気軽に入れるその雰囲気のせいか、
客筋は比較的、若い年代のようである。
然程、遠方からではないように見える、
女の子5名程度の団体さんが、
この、うどんとサイド・メニューしかないお店で食事して、
満足気に店員さんと挨拶を交わし、帰っていく、
此処は、そういう御店なのだ。

だが、何でもないように見えるこの御店は、
どこにでもあるような、ありふれたうどんを出す、
そんな御店では、まったくなかった、驚いたことに。

観光客が多数居た、他のうどん屋さんとは、
明らかに、麺が違う。
例えば、讃岐うどんを謳う、県外のお店のように、
如何にも麺が太い、そういう訳でもない。
讃岐うどんとしての特色を出そうという
変なプライドは、此処では必要ないのだ。
ひと昔前のヤンキーのように、
ズボンの太さでハッタリを効かせるような、
無駄な麺の太さは、必要ない。
太さだけで言えば、よくある程度ではあるが、
実は戴いてみれば、その差は歴然としたものがある、
当たり前の事であるが。
やはり、事前に仕入れていた極秘情報、
緑あひるの小麦粉の、それが威力なのであろうか。
扱いの難しい原料であることから、
うどんの出来も、日によってムラがあるとの話も聞く。
その製法も、全て手作業であるとのことで、
それは例えば、清酒で言う、きもと造りのようなものであろうか、
その労力に、頭が下がる思いである。

そしてそれを、謙虚にアピールするかのように、
店内に立てかけられた、緑あひるの小麦粉の大袋。

・・・店内の客も、ごく少数、
これは、事前に聞いていた※極秘情報を試してみる、
絶好の機会なのではないであろうか。
時間に追われる中の、遠方からの折角の来訪、
それを、申し出てみない手はない。

かくして、提供されるうどんのように、
実直で誠実な人柄の若い店員さんは、
嫌な顔ひとつせず、緑あひる柄の、
そのTシャツを、快く分けてくれたのであった。