カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

純喫茶 アメリカン

2012年11月25日 | 大阪
「レトロは、うねる。」

席に着いて店内を見回し、何か違和感を感じてもう一度よく見返してみると、その豪奢な天井の電飾と造形は勿論のこと、しかしやはり其れは気のせいではなかった、波打つレトロな壁面に眼を奪われることになる。

その木目のうねる壁面に埋め込まれた玉というのは、波間に浮かぶ水泡なのだろうか、半透明のその表面にはカラフルな色彩が不規則に現れ、その模様は人外の瞳のように見えるものもあれば、夢の中で見る富嶽百景の一部を切り取ったもののように思えなくもない。

統一感があるのかないのか凡人には断言することの躊躇されるその装飾の数々は、しかしそれでもそのひとつひとつがこの迷宮を彩るに相応しい淫靡な深みを湛えている。
ひとつとしてありきたりなものはなく、その意味をはっきりと理解することはできず、かといって全くに前衛的な意味不明の物体、造形であるというのでもない。

評判のホット・ケーキも其の珈琲も、其れを味わう以上に其の空間、其の風情に心を奪われる。

時、既に夕暮れ時であった為か、場処柄そこそこの身なりをした初老の男性と、まるで其れはコスチューム・プレイであるかのような、あまりに短い丈のワンピースを着た若い女性のカップルが一際に眼を引く。
所謂、同伴と呼ばれる組み合わせであろうその男女関係、彼女は其処から何かを得ることが出来るのであろうか、人生の先輩である彼は、客であるという立場を超えて、年若い彼女に金銭以外の何ものかを、その夜きっちりと与えることが出来るのだろうか。

出入口付近にある華やかなケーキのショー・ケース、そしてレジ・カウンターに向かって左斜めの上に在る、巨人の虚ろな瞳のように見える一対の造形物、その視線を日々人々はどう受け止めているのだろう。
その光が穏やかな仏の瞳に見えるか、それとも何かを咎める閻魔の眼差しに思えるか、其れはその人の心の内、きっと其れ次第なのであろう。

純喫茶 アメリカン喫茶店 / 日本橋駅近鉄日本橋駅大阪難波駅
昼総合点★★★★ 4.0


本家 尾張屋 本店

2012年11月21日 | 京都
「至れり、尽くせり。」

その日、出掛けるのが少々遅くなり、京都市内に到着したその頃には既にお食事処の多くは昼の休憩時間に入りつつあったものの、さて、ではどうしようかと思案して、記憶の片隅にあったこの通し営業の蕎麦屋を運良く思い出した、そのような次第です。

もう随分と以前のこと、東京の浅草にある同じ屋号の蕎麦屋の出汁があまりに味なかった覚えがあって、此処は其処とはおそらく無関係であると何度か教示されつつも、長らく何となく足が向かずにいた、そのような無意識を振り切って、いよいよ訪れることになったその蕎麦屋の風情というのは、思っていた以上に風格があり、しかし敷居は高くない、むしろ昨今のこだわりの手打ち蕎麦を謳う個人店と比べれば、幾らか安価ですらあるその価格、蕎麦とは本来こういうものでなくてはならない、そう言って膝を打ちたくなるようなその店構え、その全体なのです。

歴史を感じさせる暖簾をくぐり、座敷か腰掛け、どちらが好いかを尋ねて戴き、では腰掛けをと申し出ると、では二階へと通されます。
落ち着いた暖かい雰囲気の狭い間取りで詰まったその建物の内部は、少人数でいっぱいになる小部屋に意外なほど細分化されていて、その成り行きによっては容易に個室へと早変わりさせることが出来る、そのような仕組みのようです。

もう既にちょっと寒くなり始めた季節のこと、温かい玉子とじ蕎麦と、お揚げの載ったきつね丼を頼んで暫く、注文してはいない筈の蕎麦饅頭と蕎麦板が供されます。
驚いたことに、三時半以降に食事を取るのであれば、こちらは無料であるとのこと、これは恒常的なシステムなのでしょうか、それはわかりませんが、早速に思いがけなく嬉しいサービスです。

そしてその料理に関しては、お出汁が好ければそれで全てが許される、例えば、道頓堀にある今井の如きそんな風情、そして貫禄が此処にもあります。
もちろんのこと関東の蕎麦屋の出汁とは雲泥の差で、結局のところ無意識に抱いていたその不安というのは全くの杞憂でしかありませんでした。

充分に満足した帰り際、支払いの場で駐車場の件について尋ねてみると、向かいのコインパーキング駐車にて一時間分のキャッシュ・バックがあるとのこと、これもまた至れり尽くせりのサービスです、次回からの訪問で使わない手はないでしょう。

これ程に客の立場に添った御店の在り方というのも、ちょっとない、今からの観光シーズン、やはりこの店は大繁盛するのであろうこと、それはきっと必然の流れなのでしょう。

本家 尾張屋 本店そば(蕎麦) / 烏丸御池駅丸太町駅(京都市営)京都市役所前駅
昼総合点★★★★ 4.0


グリム

2012年11月17日 | 兵庫
「玉手箱。」

店名、所在地、そしてそのブログ、いずれから推し量ってみたところでちょっとその雰囲気が掴めないというのは勿論のこと、具体的にそのパンがこれまで知る中において、どのような傾向、どういう類の代物であるのか、PCの画面を眺めるばかりのカゲロウには長らく謎のまま、それがこのパン屋であった。

それは期待感を抱かせるという意味では楽しみのようでもあり、しかし今となっては少々その予想は裏切られてしまったような、そんな気もしないでもない、その箱を楽しみに開けてみて出てきたのは、もやもやぽわぽわとした白い煙ばかりで、ちょっと肩透かしを喰らってしまった、そんな印象も、正直カゲロウの心中なくはない。

そんな擬音の如く、あまりにふわふわとしたその柔らかなパン生地の多くは、所謂、甘えのないハードなパン生地の歯応え、そして其処から感じさせられる、或る種の高みを目指す感覚とは、まさに対極にあるものであり、勿論その種類にもよるのではあるけれど、この店で提供されるおよそそれらのパンの何が特殊なのかと言えば、その具材の多彩さは勿論ではあるにせよ、何より土台になる生地の軽さ、その印象に尽きる、数種のパンを戴いてみて、そう断言して間違いはないようにカゲロウには感じられたものである。

良く言えば、幼い子供やお年寄りに優しい、そんなイメージを抱かせる、あまりにわかり易い美味しさばかりを内包したそれらのパンというのは、今現在の時点で老人でも子供でもないカゲロウにはちょっと淡すぎて、何処か少々物足りないように感じられはしたものの、それでもそういった方向性に真面目に向かい合うこの店のパン作りに関し、真摯でさえあればその結果には其処に合致したニーズというのが必ず付いて来るものなのだと、少なくともカゲロウは素直に納得させられたのではあった。

グリムパン / 伊丹駅(阪急)新伊丹駅伊丹駅(JR)
昼総合点★★★☆☆ 3.5


童夢

2012年11月11日 | 京都
「おもちゃ箱。」

結局のところ、この童夢のケーキというのはなかなかのものだという結論にしかならない訳ではあるのだけれど、きっと長くはならない、一応のこと順を追って話しをしてみたいと思うのです。

そもそも幼少の頃から甘味というものを然程欲しない男という生き物にとって、それがそこそこの美味しさであったとしても、まるごとひとつがおよそ同じ味わいばかりのケーキひとつ、饅頭ひとつというのは、食べているその最中に早くも飽きがくる、そのような現実は実感として否めませんでした。

それは例えば年に一度、夏休みに念願の海水浴に出かけ、当初はその砂浜ではしゃいで遊んではみるものの、その茫洋とした自由、そして其処に在るのは実は海水と砂だけでしかないという事実にふと気付かされ、然程の時を経ずしてその喜びを見失ってしまう、そのような心持ちと少し似通っているのかも知れません。

またひとつ、別の話、別の面で言うのなら、既に故人である自身の祖父などは、同じく男という生き物でありながら、一日一個、大きなおはぎを毎日おやつに平らげていたものですが、その世代的な差異、そして戦争経験のあるなしなどとも相まって、実際その味覚ですら相通じることのない自分とはまるで別の生き物のようにすら思えぬでもない、そんな気さえしたものです。

兎も角、凝った甘味処など和洋問わずその影すら見当たらない、そんな田舎において育った男としては、甘いものは全般少しでいいという固定観念が形成されてしまうこと、それは成り行き当然でさえありました。

だがしかし、自ら車を運転するようになって幾分か見聞を広め、世間に溢れる情報、その詳細をPC、その他から吸収するようにもなれば、そんな甘いものですら実は一概ではないらしいということに、薄々気付かされるようにもなって行く。
世の中に存在する甘味というのは、昔ながらで片付けられてしまうような一概に甘いばかりのものだけではなく、非常に凝った造りの、飽きさせないスイーツというものも実は都会には幾らか在るのだということを、今更ながら知らされることにもなって行くのです。

そしてそれら凝った甘味というのは、やはり実際のところ最新の洋菓子であることが多く、何重にも仕掛けられた風味の複合体ともいえる、あまりに贅沢で高度なケーキを戴き、感心させられるというようなことも昨今ではめずらしくありません。

ただ、そうなのではあるけれど、そうなってくると、その高度な味わいの前にはいったい何が在ったのか、それをもう一度試してみたくなるのが人情というものです。

そしてやっと、いよいよ話はこの年季の入った雰囲気を漂わせる童夢に行き着くのですが、なんと驚いたことにこのケーキは、明らかに懐かしさに由来する風情をその外見に漂わせているにもかかわらず、まるで積木のように積み上げられたその多彩な味わいというのは、食べる者の味覚を飽きさせない仕組みには事欠かない、ちょっと侮れない、そんなケーキであったのです。

現代的で細やかな複雑さや、ねっとりと瑞々しい有機的な肌合いに関しては少々希薄ではあるものの、それでも、作り込まれ、計算され尽くした職人的味わいというのは、男には容易に知りえぬこの甘味の世界にも、ずっと以前から、既にやはり存在していたのです。

童夢ケーキ / 出町柳駅今出川駅
昼総合点★★★★ 4.0


ベーカリー柳月堂

2012年11月06日 | 京都
「芳しく、香ばしい。」

果たしてこの店はいつから此処にあるのだろう。

出町柳の駅をあまり使うことのなかったカゲロウは、残念ながら学生の頃、この店の存在すら知らなかった、いや、知っていたところで、当時わざわざこの場処でパンを買うということもなかっただろう、そうなのかも知れない、そしてもし、このパンを口にしていたとしても、当時その美味しさに気付くこともなかっただろう、その頃の自分を顧みて、そう思う。

旧くも新しくもなく、在るがまま、甚くそう感じさせられる、この柳月堂のパン。

だから駄目だと思うのか、其処が好いと思うのか、きっと若い頃の自分にとってこのパンは、とても保守的なものに思えたことだろう、そしておそらくその変化のない在り様に少々苛立ちを覚えたりもしたことだろう。

新しさには疎いくせに、旧いものは認めない、今もその嫌いはあるものの、それはそれでその考えというのも不公平なものだと、今なら心を平らにすることも幾らか出来なくもない。
だが、人に、世間に、そして若さに揉まれ続けるばかりの当時というのは、自分が自分でいるだけで精一杯だった、その頃を振り返り、カゲロウはそう思う。

しかそんな当時ですら、この柳月堂のパンは何ひとつ変わらぬ姿で此処に在ったのだろう、20世紀も、21世紀も、そんな時代の流れなどものともせず、褒められても貶されても変わることのないその芳しく香ばしい風味を、この出町柳の道行く人々に放ち続け、その人が子供から大人になり、そして年老いた後でさえ、其処に或る一定の価値観を変わることなく提示し続ける、これからもそれが、この柳月堂のパンの存在意義であるに違いない。

ベーカリー柳月堂パン / 出町柳駅元田中駅
昼総合点★★★★ 4.0


バラッカ・デル・ソーレ

2012年11月02日 | 兵庫
「佇む、キッチュ。」

芦屋の埋立地、その突端にあるこの店は、眺望が良いという程でもないけれど、それでも海は程近く、まだ周囲に住宅が密集しているというわけでもない。

少々寂しいくらいの静けさ漂うこの場所に、ちょっと滑稽なくらいにキッチュなその建物がぽつねんとあると、それは正直かなりの違和感を感じさせる風景であり、周りにひと気は全くなく、もしかするとその店内もそうなのかも知れないと思いつつそろりと扉を開けてみると、果たしてその予想は完全に裏切られ、其処には満場の人がざわざわと犇き、むんむんと賑わっている。

人気があり過ぎて客数が店のキャパシティを超えている、そう感じさせられるのはちょっと戴けないのではあるけれど、戴いた料理の出来は予想を上回る美味しさで、其処に人気の上に胡坐をかいたようなぞんざいさ、軽薄さはおよそ窺えない。

ピザは勿論のこと、その他の料理に関してもボリューム充分な上に、その風味に一手間、そして一ひねりを感じさせられる奥行きがあり、食後のオリジナル・ティーのブレンドさえ手抜きのない出色の出来である。

この目立つ建物にこの料理、人気が出ない方がおかしいのではあるけれど、惜しむらくはこの過剰なまでのざわめきと犇きで、出来ることなら席を減らし、従業員を減らし、経営的なバランスをとった上で出資した銀行を黙らせ、一時の人当たりに対する勇気と料理に関する自信を以って、騒がしい小学生年齢以下の入店を断って行く、そうすれば、日々の営業形態にも余裕が出て、さらにこの店の値打ちは上がり、本当の意味でその存在を真っ当に評価されることにつながって行くのではないだろうか。

wiki→キッチュ (Kitsch) とは、「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」を積極的に利用し評価する美意識である。

バラッカ・デル・ソーレイタリアン / 芦屋駅(阪神)打出駅深江駅
昼総合点★★★★ 4.0