カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

末廣

2010年01月27日 | 京都
「冬の京の誉。」

冬の京の陽は、思いの外すぐ落ちる。
早くも灯りを落とした建物が多く、二条から先は遠くまっすぐに伸びた細い寺町を御所に向かって見渡すと、
丸太町まで所々に灯りの漏れるお店がポツリポツリとあるばかり。
そして、戦火を逃れたこの町の、古い町屋は鰻の寝床と呼ばれる狭い間口のものばかり。

先に待たせた妻のいる末廣はどこかと窺いながら、少し急いで東側の先を見る。
歩きながら、今がいつなのかわからないような安らいだ違和感を覚える。
こんな時、疎まれる底冷えすると言われる京都独特の寒ささえ、そう悪くはない。

薄闇に浮かんだ小さな末廣の姿は、まさしく心に思い描く昔ながらの佇まい。
昼間、これまでこのお店の存在に気付いたことはなかった。
看板に重みがあり、覗く店内には暖かみがある。
蒸し寿司の出来上がりを待つ妻は嬉しげな微笑みを湛え、
意外と若いお店の大将も、それに応えるに充分の笑みを湛え、
足元のストーブだけで充分と思える空気が店内を満たしている。
待ち合わせであることを告げ、追加のいなり寿司とお吸い物をたのみ、
狭いながらもそれ故の雰囲気を持つ店内で、寿司の上がりを待つ。
同種の雰囲気を持つ日栄堂やよしおかほどくたびれた雰囲気はない。
それは、やはりお店の柱となる人の若さのゆえなのだろうか。

出てきた蒸し寿司は、こじんまりとした器にぎゅっと詰められ、
開けてみてもその器の温かさのわりに湯気は昇らない。
先に妻が半分、その後少し時間が経ってからいただいたものの、めしは少しも冷めてはいない。
不思議なほどにぬくぬくの、優しい味のその食べ物は、
温かいままのちらし寿司や、冷めたちらしを温めただけのものとは、
まったく別の食べ物であるように思える。
上方発祥の驚きの技が、京に息づいている。
いなりにも、お吸い物にも、毒々しさの欠片もない。
反芻しようとしても、もうその味は思い出せない、ほんのりとした優しい味。
蒸し寿司は、食べ終わるその時まで冷めることなく温かさを保ち、
まるで、ゆっくり味わうことこそ、その作法であるかのよう。

この懐かしい店内で、夢の中でいただく食べ物のようにいつまでも冷めない蒸し寿司を食す。
そんなことは初めてのことなのに、どうしてこうも懐かしいのだろうか。
経験したことのないその懐かしさ、それは、ふとした時に感じたような気がする、
あの、内にある何かを呼び起こすような新しい感覚である。
そして、そんな心の改まるような新鮮さを味わうには、きっと、日が落ちてからが格別なのだろう。