カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

トラットリア レプレ

2013年12月29日 | 大阪
「其れ其れに、別の顔。」

近隣にお住まいのマダムによって、圧倒的な支持を得ている、店内に一歩足を踏み入れれば、一見して其れは明らかで、ランチ時、其処におよそ男性客の姿がないというのは、此のような、程々に上品な店の佇まいがそうさせるのか、むしろ、其の客層が此のような店の雰囲気を醸成しているのか、其処のところは、其の要素、どちらかの一方的な作用によるものというよりは、やはり相乗効果によるものなのであろうし、単純に言って、およそ女性ばかりの声で埋め尽くされた其の店内に、スーツ姿や作業着であえて乗り込もうという男性も、世間にはそう多くない、つまり、自然と此のイタリアンは、女性専用となっている、其れが実際なのであろう、少なくとも其のランチ時というのは。

と、其処までは、既存の客の思惑、其の集積によって、此の店が成り行き女性専用イタリアンとなっている実際もわからないではないのだけれど、ただ正直、少々解せない、呑み込めないところというのは、並以上に濃厚でありながら、しかし、若干、塩分が足りなのではないかと思わせられた、其の料理の風味、味わいである。

何しろ一概に言えるようなことではない、其れは勿論のこと百も承知ではあるけれど、其れでもやはり、比較的、女性は少々塩分控えめ、男性は濃く辛い味付けが、其の好みとして、ありがちな実際ではあるだろう、さらに言うなれば、年齢的には20代の辺りを頂点として、人は料理に求める塩分の量が減少して行く、其れが当然の成り行きでもある。

思うには、結局のところ、日々予約にて店内の席を埋め尽くす、其の女性客の多さというのが、そもそもあるべきイタリア料理としての塩の効き具合を、成り行き心持ち甘くさせ、此の店の料理を徐々に淡い味付けへと変化させて行っている、其れが実際であるのなら、つまり其れは、客の顔を見て、其の調理法が決定されている、良くも悪くも其のように言い得るだろう。

一概に、公平や平等という観点からして、其のような遣り方には賛成できないという向きも、世の中あるのではあろうけれど、あえて再度言うように、其れはきっと、一概に悪いことばかりというのではない、むしろ、調理姿勢としては、謙虚で前向きであるとさえ言い得るのかも知れない、だがしかし、其れならば、やはりきっちり其の顔を確認して、男性客に対しては、男性客の好むような傾向の味付けをしてもらえれば、其れであらゆる客層の納得が得られるのであり、勿論のこと、全てが丸く収まる訳である。

と、其のようなことを考えつつ、此の濃厚にしてボリュームのある、しかし何処か淡いパスタを戴いていた、男性客であるワタクシではあるのだけれど、此のような妄想は、果たして、まったくの勘違いであるのか、否か。

トラットリア レプレイタリアン / 樟葉駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5


トラットリア ダ ジャコモ

2013年07月25日 | 大阪
「美味しさで、お腹いっぱい。」

其の店にとっても其の客にとっても、其れは実際のところ喜ばしいことであるのかどうなのか、むしろもうそんなことは既に取り立てて必要ないくらいの人気店だと知らされていた其の店は、実は数日前に、とあるテレビ番組で宣伝されたとか何とかで、思いも寄らぬことにまさに其の日、普段以上の入りであったらしく、残念ながら所望したラザニアの含まれるランチ・コースは食材切れで提供できないということであった。

さらにはアラカルトでの他の料理の提供すら全て無理であるとのことで、選択の余地もなく、最もリーズナブルなパスタ・ランチを戴くことになったのであるけれど、聞けばパスタの大盛りが並みの盛りと同価格、つまり無料であるとのことらしく、其れでは折角なのでと、ふたりは是非にと二人前、共に大盛りを所望したのであった。

何れのパスタの風味も絶妙の塩梅で、殊更に上品過ぎるというのではないけれど、奥行きのある繊細さが感じられ、此の内容にして大盛りであるということ其れ自体が幾分かミスマッチですらあるというような、喜ばしいことではありながらも、此れでいいのだろうかとも思わせる、そんな過剰なまでの大盤振舞い、其れ程のサービスである。

恥ずかしながら、しばしばないことでもない、そんなことなのではあるけれど、注文を欲張り過ぎて、其の食事半ばにして満腹中枢のリミットが過ぎてしまうと思われる、そんな場合、味わうということをあえて無視し、途中から其の心積もりのスイッチをあえて切り替えて食事に挑む、そんな場面も実際偶にあるのだけれど、此の店のパスタに関しては、そんなつもりであったとしても、其の風味は無視することのできない旨さであり、絶妙に味覚の隙間に入り込んでくる、やはり嚥下する前にじっくり味わってしまわずにはおられない、そんな有り難くも困惑させられる代物であった。

やはり、美味しいものであればある程に、尚更に其の料理を程好い程度に戴くというのがベストである、其れは間違いのないところであるということを、まさに体感させられた、そんな贅沢に過ぎる食事であった。

トラットリア ダ ジャコモイタリアン / 福島駅新福島駅中之島駅
昼総合点★★★★ 4.0


il luogo di TAKEUCHI

2013年07月15日 | 大阪
「其れが何でも、かまわない。」

此れまでの人生において、パンナコッタというものについて、そう深く考えたことがあるという訳ではなかった、プリンとゼリーの間、其の程度の曖昧な認識に過ぎなかった、浅墓ながら其れが正直なところである。

だがしかし、此れこそが本当のパンナコッタなんですよ、そう諭されたかの如くに本格的な風情漂う其のデザートを眼の前にして、改めて、此れこそが本当のパンナコッタなのかと、素直に認識を改めんとしている己が其処に居る、其のくらいに説得力のある、カラフル、且つ、混沌とした、其のドルチェであった。

かといって、何を以って、其れがパンナコッタであると世間的に認定されるのか、そのようなことには、実はさらさら興味など抱いてはいないというのも、正直なところである。

所謂昭和世代などという時代遅れでしかない者にとって、パンナコッタやティラミスといったような、幼少の頃には聞いたことも見たこともない、そんな未知のスイーツというのは、実は幾つになっても未知のまま、此れこそが、まさにそうであるという認識すらも形成し得ない其のままに、ただ、微かな憧れと、小さな驚きとともに、おそらくは其の人生の終わりまで受け入れられることになる、其れでいいのだ。

其れが、此のパンナコッタように、奥深く、原初的で、不可解に興味深いものであるならば、其の喜びというのは、ひとしおのことである。

il luogo di TAKEUCHIイタリアン / 福島駅新福島駅西梅田駅

昼総合点★★★☆☆ 3.5


堂島精肉店

2013年04月24日 | 大阪
「場違いな、人々。」

何故?どうしてワレワレは、そろそろ日付も変わろうかというこんな時間に、ネオン輝くこんな場処で、不可解にも、たらふく肉を喰らっているのだろうか?そんな気にさせられる、奇妙な状況ではある。

何故?どうして精肉店の台所、其のまな板の上で、ワレワレはチープな発泡スチロールのトレイに載せられた高級牛肉、シャトーブリアンを食しているのか?其の事実に関してまったく否定的な心持ちなど抱いてはいないものの、それでもやはり、其の風情は信じ難い。

諸々の所要を抱え、久し振りに出掛けて来た堂島界隈からの帰り道、期待せず、通り掛かりに覗いてみた此の人気店で、今なら何とか席が確保できると其の店員に告げられたのなら、其れはやはり、こんな時だからこそ思い切り食べておけという何処かからのお告げに違いない、そう考えて、ちょっと思い切りよく通した注文は、きっと少々舞い上がっていたのだろう、到底二人前とは言い難い、そんな容赦ない量の肉塊であり、しかも、其れ以外の料理、其の焼きソバとフライド・ポテトのボリュームというのも、実際のところ少々割高なのだろうと高を括っていた其の価格に実は見合ったもので、正直、半端ない。

何やら得体の知れぬ中近東辺りのポップ・ソングの流れる其の厨房で、何事があったのか、真っ赤な顔で泣き腫らしたうら若き女性、三人組を隣にして、ワレワレは自らの注文にケリをつけようと、必死に其の肉塊を胃袋に掻き込むことに集中する。

何とか其のおおよそを平らげ、辺りの状況をやっと落ち着いて確認してみると、得体が知れないと思われた其の音楽というのは、実際のところ、無難に流れるありふれたヒップ・ホップのBGMと、店内に設置されたテレビで放送中であった懐メロ演歌の合成された音響であった。

件の泣き腫らした三人組の会話というのは、帰り道、後々聞くところによると、やはり恋愛に関するものであったらしい、其れを、流石に北新地らしいなどと安易に納得してしまうのは、やはり何か、あまりに偏った個人的見識に過ぎないのだろうか。

いや、きっと、そんなことはない、此処は実際、テント張りの立ち飲みのようではあるけれど、其れでも其の立地は紛れもなく北新地なのであって、滅多矢鱈とたらふく肉を喰らいに来るようなところなどでは勿論なく、件の彼女らのように、泣きながら、笑いながら、恋愛に関する打ち明け話をしに来るべきところであるに違いない、おそらくは、そうなのだろう。

堂島精肉店居酒屋 / 北新地駅西梅田駅東梅田駅
夜総合点★★★★ 4.0


大西亭

2012年12月29日 | 大阪
「形而上的、男の料理」

原価というリスクを顧みず、己の良かれと思うものを己の能力のまま、食べる人のことなどおよそ想いも遣らずに作った料理、所謂、男の料理というのは其の程度のものであるだろう、少なくとも素人の場合。

そしてしかし、この大西亭にて提供される料理というのはおよそ其のような類のものではない手の込み様ではあるものの、それでも其れらは、イメージ、男の料理だったのである。

其れが顕著であったメインの料理、当初、いったい其れが何なのか、素材も味もおよそ想像も付かないと思わされた其の一品、切り分けてみると其れはパン生地に包まれた極太のソーセージであった訳であるが、勿論のこと其の調理に大雑把であるというような印象などおよそなく、全体を俯瞰してみればむしろ和風のテイストさえ感じさせる風味を漂わせ、ある種の繊細な一面さえ其処に存在する、微妙に凝った其のひと皿なのである。

では、何がいったい其処に男の料理というものを感じさせるのか、其れはきっと、何より人に驚きを与えたいという作り手の思惑、其のようなものが、そこはかとなく其の料理全体に現れているから、きっと其れ故なのだろう。

大西亭フレンチ / 野田駅(阪神)野田阪神駅海老江駅

昼総合点★★★★ 4.0


スクニッツォ・ダ・シゲオ

2012年12月08日 | 大阪
「悠々、自適。」

こと客商売の場においては、どうやらケロッとした接遇が好みのタイプなのだと此処最近になって漸く気付いたような、そんな次第である。

勿論のこと威圧的な待遇など論外ではあるものの、かといって逆にあまりにも下手に出られたりしてしまうと、其処はきっとぞんざいなまでの態度で以って客としての立場を演じ切るるのが、実はその場の処遇として現実相応しくさえあったりもするのではあろうけれど、そのように面倒な薄っぺらい芝居染みたやり取りにわざわざ付き合うような類の優しさは持ち合わせておらず、もちろんその気もなく、実は其れはそんな自分で在りたくないという身も蓋もないひたすらに自分本位でしかない我侭がとことんの本音でしかないのではあるけれど、結局はそんな低姿勢に負けることのないようにと同じ土俵にまで降り、同じくらいにこうべを垂れて、場合によっては客としての立場を弁えない人物だと興醒めした商売人が鼻白む、そんなことも少なくないこの世間での在り様の中、程好くケロッとした接客に出会えたその時程に心穏やかに和める瞬間というのも実際そうはない。

本日は予約で満席です、との看板越しにちょっと覗いてみて、行けますか?あ、いいですよ、と、気軽にそんな返事がもらえたのは勿論幸運なことではあるけれど、もし其れが無理だったところで平謝りされてこちらが気まずい思いをさせられるような惨状は、きっとこの店ではなかったことだろうと思わせられる、そんなケロッとした様子、その調子、その風情だけで、此処は彼のひとり舞台なのであって、彼は誰に気兼ねすることもなく、だからその客も誰にも気兼ねする必要もない、きっと此処はそんな和やかな空間で、おそらくは在るがままに美味しく食事を全うすることができる処なのだろうと、その期待が膨らむ。

途切れることなく引き合いがあるからといって狭いスペースに無理に客を詰め込むようなことはせず、むしろ自分のペースで仕事が出来ない程に混むようならば、逆に営業時間を短縮し、その客数すら削ってしまう、あまりにも在るがまま、臨機応変で融通の利いたそんな在り方、其れを理想と呼ばずして何と言えばいいのだろう。

客が多いから時間を延ばす、求められるから従業員を増やす、そんなことはこの店、そしてこのシェフの在り方としては本末転倒なのがおそらくは真実で、何事も欲張らず、ひとりで出来る分だけ、ひとりでやりたいようにやる、其れこそが、何事によらずそうあるべき人としての在り方に違いない、たぶんきっと。

スクニッツォ・ダ・シゲオピザ / 天神橋筋六丁目駅中崎町駅中津駅(大阪市営)
夜総合点★★★★ 4.0


ダン ル シエル

2012年12月05日 | 大阪
「ひとり、戦う。」

陽も落ちた夕刻、再び前を通りかかると、既に開店予定の時刻は過ぎているであろうその店内に、しかし明りは灯っていない。

その日の昼間、覗いてみると、意外にもめずらしく、この人気店ですんなりと昼食を摂れそうな、そんなタイミングだったようで、それではと入店し、しかしその後は次々と表の列に連なる客の姿が、メニュウ看板の仕舞われてしまうまで途切れることのなかった、そんな風景とはおよそかけ離れた、その夜の静けさ。

当店のディナー・システムというのが、いくら完全予約制であるとはいえ、ひとりの客もいない、その陰気としか言い様のない風情は、昼間の賑わいを思うとやはり寂しいものだ。

今は薄暗い店内の奥、独りその厨房で明日のランチ、その仕込みを黙々とこなしているのであろうシェフの心持ち、それは決して晴れやかなものではないだろう。

その本領を発揮する場である筈のディナー、その営業時間帯に明日の昼に提供することになる25食程度×850円の下拵えをする。

実際そのランチにおける味わいの濃さ、そして塩の利き具合、その辺りに現れている何事かに、その料理人の内心抱く自信、そして言い様のない鬱憤を感じてしまう、それは果たして気のせいなのだろうか。

毎日々々サービス価格で提供されているそのメニュウ、同じ調理の繰り返しで、きっと本当に作りたいと思っている料理、やりたい仕事とはかけ離れた作業をその料理人は日々強いられていることだろう。

思うに、このままでいい筈はない。

一度訪れただけでそんなことを言うのもおこがましいのではあるけれど、だがあえて言いたい、このシェフは世間との戦い方をそろそろ考え直すべき時だと思う。

いつか、その努力が報われますように。

ダン ル シエルフレンチ / 大阪城北詰駅大阪ビジネスパーク駅天満橋駅
昼総合点★★★★ 4.0


ビストロ ダ アンジュ

2012年12月02日 | 大阪
「愛され続ける、其の理由。」

安易な話、ただ受け入れて貰いたいというだけなら、徹底的に自分を殺してその人に尽くせば、其れで大概は事足りてしまう、其れが実際である。

ひたすら自分の為に何かをしてくれるというような稀有な人物を、其れでもあえて距離を置いて遠ざけようという人など世の中にはおよそおらず、だがしかし、そう言いながらも追々自己を押し付けようとする気配が感じられるような場合には、やはり徐々にその親切が少々疎ましく感じられてくることになる、其れがよくある成り行きであり、其れは人情であり、例えばその末に痴情のもつれがあったりもするのだろう。

で、其れがいったい何の話なのかといえば、そういう押し付けがましい自己というものをおよそ感じさせない、其れがこのアンジュという老舗ビストロであったという話なのである。

其れは、その料理に限らず、店内に漂う雰囲気に限らず、店員の接遇に限らず、其処に在る何もかもに気に障るようなところがおよそない、この店の長い歴史を思えば、其の不在にちょっと気味が悪くなる、其れくらいに、在って然りである筈の押し付けがましさがまるで感じられないのである。

手間隙かかった凝った料理、その風味というのは、口に運んで実際咀嚼してみると意外な程にストンとしていて、勿論ある面においては充分に満足させられはするのだけれど、其れでも何処か心の片隅では拍子抜けさせられてしまっているような自分を確かに感じる。

繁華街の地下にある穴蔵のようなその店内には、多くは若い女性がみっしりと詰め込まれ、立って手洗いに行く隙間すらないその席で、しかし、ゆっくりじっくりと料理を味わい、其れらしく、大人しく会話を交わしている、そんな風情である。

そんな彼女らの肥えた舌に見合うクオリティはしっかりと内包しつつ、しかしその料理とはおよそ関係のない会話を微塵も邪魔するようなことはない、そんな味わい、勿論彼女らは其れこそを求め、行列を厭わず足繁く此処に通うのであろうけれども、長い長い年月、只ひたすらにどのような自己をも主張せず、これらの料理が彼女らの味覚に尽くしてきたのであろうことに思いを馳せると、正直、何だか少し寂しい、そんなような気がするのは、その日その時、偶々自分が数少ない男性客であったから、もしかすると其のせいだったのだろうか。

ビストロ ダ アンジュフレンチ / 大阪難波駅心斎橋駅なんば駅(大阪市営)
昼総合点★★★★ 4.0


純喫茶 アメリカン

2012年11月25日 | 大阪
「レトロは、うねる。」

席に着いて店内を見回し、何か違和感を感じてもう一度よく見返してみると、その豪奢な天井の電飾と造形は勿論のこと、しかしやはり其れは気のせいではなかった、波打つレトロな壁面に眼を奪われることになる。

その木目のうねる壁面に埋め込まれた玉というのは、波間に浮かぶ水泡なのだろうか、半透明のその表面にはカラフルな色彩が不規則に現れ、その模様は人外の瞳のように見えるものもあれば、夢の中で見る富嶽百景の一部を切り取ったもののように思えなくもない。

統一感があるのかないのか凡人には断言することの躊躇されるその装飾の数々は、しかしそれでもそのひとつひとつがこの迷宮を彩るに相応しい淫靡な深みを湛えている。
ひとつとしてありきたりなものはなく、その意味をはっきりと理解することはできず、かといって全くに前衛的な意味不明の物体、造形であるというのでもない。

評判のホット・ケーキも其の珈琲も、其れを味わう以上に其の空間、其の風情に心を奪われる。

時、既に夕暮れ時であった為か、場処柄そこそこの身なりをした初老の男性と、まるで其れはコスチューム・プレイであるかのような、あまりに短い丈のワンピースを着た若い女性のカップルが一際に眼を引く。
所謂、同伴と呼ばれる組み合わせであろうその男女関係、彼女は其処から何かを得ることが出来るのであろうか、人生の先輩である彼は、客であるという立場を超えて、年若い彼女に金銭以外の何ものかを、その夜きっちりと与えることが出来るのだろうか。

出入口付近にある華やかなケーキのショー・ケース、そしてレジ・カウンターに向かって左斜めの上に在る、巨人の虚ろな瞳のように見える一対の造形物、その視線を日々人々はどう受け止めているのだろう。
その光が穏やかな仏の瞳に見えるか、それとも何かを咎める閻魔の眼差しに思えるか、其れはその人の心の内、きっと其れ次第なのであろう。

純喫茶 アメリカン喫茶店 / 日本橋駅近鉄日本橋駅大阪難波駅
昼総合点★★★★ 4.0


イルソーレ ロッソ

2012年08月04日 | 大阪
「憧れ、の。」

目黒に在るメッシタという料理店、そのミート・ソースのパスタというのは、珍しいことに白いのだという。
そう言うと大袈裟に過ぎるのかも知れないけれど、今年の春、東京への訪問時、残念ながら憧れていたそのパスタには、日程の都合上、とうとう会うことは出来なかった。

にもかかわらず、思いもかけず、割り合いに身近なこの場所で、偶然にも同じ類の白いミート・パスタに巡り合えたというのは、やはり何かの縁がそうさせたのだろうと、取り立てて信心深いという訳でも普段から験を担ぐ訳でもないカゲロウでさえ、そう思わずにはいられなかった。

こだわりがあるという訳でもなく、執念深いという訳でもない、しかも、然して記憶力が優れているという訳でもないので、その内、その何もかもが忘却の彼方へと去っていくのだろうと、覚悟するでもなく覚悟し、諦めるでもなく諦めていた、そんな料理に、思いがけず意外な処で巡り合えたというその幸運は、無駄に足掻いてガツガツせずに、さり気なく無欲であった、それ故の褒美のようなもので、そんな運命からのささやかなプレゼントには、やはりさり気なく小さな驚きと喜びのみで応えるべきなのであって、然も大袈裟にその邂逅を喧伝すべきではない、実際、本来はその程度の出来事なのだろう。

だから、この店のこのパスタの存在に関しては、是非とも記憶に留めず、さらりと流してもらいたい。
何しろ、そのパスタというのは、この日だけの日替わりメニュウだったのだから。

だがその事実が、だからこそ尚更に運命的ですらあると、個人的にはカゲロウに感じさせたのだった。

イルソーレ ロッソイタリアン / 心斎橋駅四ツ橋駅長堀橋駅


楽々

2012年02月02日 | 大阪
「補足的、レビュウ。」

ジョージ・ハリソンは言う、「リヴァプールの人っていうのは、みんな自分のことをコメディアンだと思ってるんだよ」と。

そして彼が自覚的であるように、リヴァプール出身であるビートルズというバンドの根幹というのは、ひたすらにユーモア、その機知なのであって、決してシリアスなものではなかったとメンバーは口を揃え、その短命に終わったバンドの曲群を振り返る。

当時のポピュラーミュージック界において、彼らの作り出す音楽というのは、あまりにも奇を衒い、曲芸的であり、古典的なロックの範疇からは完全にはみ出していて、故に彼らはチャレンジャーであり、世間の評価を怖れず、若者の憧れの的となり、結果、突破者となった。
今現在、そして今後も、その存在、そのセールスを超える者は出てこないであろう絶対的存在となり、祭り上げられてしまった彼ら、その在り様、その動機というのが、そもそもコメディアン的なジョークでしかなかったというのは、ある意味、非常に意味深いことである。

それと意味合いを同じくして、この世間に祭り上げられてしまった観のある楽々のうどんというのは、情報化の流れに乗って、いつの間にやらうどんというジャンルのトップを走るかのような存在として定義されてしまったのではあるけれど、その正体、その実体は、うどんであってうどんではない、そう言ってしまったとしても、とりたてて過言であるというわけでは決してない。

冗談であるというわけではないにせよ、そのうどんというのは決して王道ではありえず、特に関西うどんの概念が染み付いた人間からは、これはうどんじゃあないよと言われてしまう、そんな状況も実際あるであろうながら、しかしそれを怖れる風でもなく、何なら民芸調の店舗の造りをその頭から追い出して、眼を瞑ってその麺を咀嚼し、味わってみれば、やはりそれはうどんとしての範疇を明らかにはみ出している。

関西風であることも、讃岐風であることも、いずれの概念をも含め、うどんのイデアというものをメタ思考的に想像したその上で、尚そう感じられる、実際そんな食感である。

それは、そもそもうどんが大好きだという人よりも、むしろ、うどんを知らない西欧人にでも味わってもらったその方が、下される評価というのは公平なものになるのかもしれない、そんな新種の麺とも言い得るこの麺は、うどんを知る日本人にとってはうどん以外の何ものでもないが、それでもやはり規格外である、少なくともそれが現状であろう。

つまり実際この御店のうどんというのは、うどん業界全体としては、まだまだ補足的なものに過ぎず、明らかに何にも属さない異端であり、しかし此処に至ってあえて個人的な好みを述べるのであれば、異端であること程に好ましい有り様というのは、そうはない。

ただ、異端であるが故に、古典的なメニュウであるきつねうどんなどには向かないうどんであるなとは、残念ながら実際戴いた感想として、個人的には思わざるをえないのではあるけれど。

兎も角、件のバンドと同じく、業界のトップを走り始めたうどん界の異端児が、件のバンドのエピソードのように、黄色い声援によってコンサートでの演奏を中止に追い込まれ、破綻して行ったその状況と同じ道を辿らぬようにと願いつつ、その成り行きを末永く見守っていきたいと、思う。

楽々うどん / 郡津駅村野駅


手打ちうどん 団平

2011年12月02日 | 大阪
「今更巡礼・・・諦めました。」

然程、料理の質に拘ることもない、そんな通りすがりのドライバーが、胃袋を満たす為だけに立ち寄る類の御店に見えなくもない、民芸調の小奇麗なその出で立ちは、黒を基調にしてはいるものの、雰囲気が暗いという訳ではなく、やはり、狙い通りに、客層を問わず、入り易い雰囲気ではある。
此処は、第4回関西讃岐うどん西国三十三ヵ所巡礼に参加中の御店で、その45番札所なんだよと教えてもらわなければ、個人的には、通りすがりに入ることなど決してなかったであろう、良くも悪くも商売に対しての貪欲さを窺わせる、その御店の在り様である。

当然の事、大箱であることは、商売に対して本気であることを明確に示し、カゲロウにとっては、提供する料理に対して本気であることと、客を沢山捌く事、その両者が両立することというのは、実際のところ、おおよそあり得ない、大きな矛盾であるように感じられ、それは例えば、あまりにも誰彼なしに人当たりがいいことと、人間的な中身の充実というものが、内的に共存することは、実際、心理構造的に不可能であるのと同様であるかのように、カゲロウには思えるのだ。
つまり、チェーン店的大箱の御店に対し、深みのある何をも期待してはいけないとの先入観が、カゲロウにとっては、先ずその存在自体を軽くしてしまっているのが、常ではある。

しかし実際、何事にも例外はあるもので、教えてもらったこの御店は、その概観に似ったメニュウ、揚げ物や御膳料理の充実は勿論、それとともに、やはり、何といっても、その本格的な、気合の入ったコシのあるうどんの提供に、その特色が見られる訳である。
ただ、それは、一般的なユーザーの視点からの話であって、実際のところ、日々何より、うどんをメインに考える、そんな類の人間からすれば、何故、このうどんを提供できる腕前なのに、専門店ではなく、しかも、こんなに大箱なのかという疑問が、脳裏に浮かばぬはずはない。

だがこの御店では、腰の曲がった御婆ちゃんが、腰の強い饂飩を食べる、そんな姿に励まされる麺好きも居るというような状況が、実際にあるという、そのくらいに、あまりにも一般的な客層、あまりにも一般的なそのメニュウによって、その存在が認知されているのである、あくまで、世間一般的には。

そしてそれは、何ら悪い事ではあり得ず、むしろ、専門店に行かなければ旨いうどんを食べる事が出来ない、そんな多くの現実よりも、むしろ、おそらく、理想というものに程近い、そういう風景が、此処にこそ現出している、そういう事なのであろう。

ちなみにこの御店では、巡礼メニュウというものが存在するのではあるが、あわよくばと思い、そのカレーうどんの類をカゲロウは所望してみたものの、残念ながら、その為のスタンプ用の台紙切れ、申し訳ありませんということで、つまり、今更の巡礼参加は不可能、そのメニュウを食べる資格すら得られないという、予想もしなかった、しかし、思い入れのない人間には、それも当然と言っていいような報いが、当のカゲロウにもたらされたのであった。

手打ちうどん 団平うどん / 御殿山駅
夜総合点★★★★ 4.0


中国菜 オイル

2011年11月27日 | 大阪
「応用中華自己化学。」

大阪駅の北側、陽も暮れて、極端に人の気配の少ないその倉庫街、薄暗闇の夜道を歩きながら、さっきの料理は何だったんだろうかと、カゲロウは想いを巡らせる。
普通では、決してない。
言うまでもなく、安っぽい中華などでは勿論なく、かと言って、伝統的広東料理として、王道であるとも思えない。
あの、堅くコッテリとした食感、いや、そういう風に言うよりも、料理としての印象は、やはり、独特のものだと、カゲロウには思える。

グルメでもマニアでもない、そう成りたいとも思っていない、そんなカゲロウは、常日頃、あらゆる料理を同じ土俵で測ることを旨としている、そんなフシがある。
つまり、広東料理とジャンル分けされたものが、何を以ってそう判断されるのか、そういうことに重きを置きたくはないのではあるが、それでも、何となくは、そういう世間の基準というものが、自分がそうあるべきと思う認識を、否応なく侵犯して行くことは、生きていて避けようのないことではある。

いずれにせよ、意外な組み合わせと、コッテリとした深みのある味付けであった今夜のディナーは、一概に好みと合致したとは、正直その時は思わなかった部分もあるものの、食後、考えれば考えるほどに、良く出来た、評価すべき料理だと思えてくる、そんな印象深さがある。

だがしかし、それはあくまで、その料理、一品一品に対する評価であって、だから一概に、広東料理が優れているのだというような認識は、ひたすら浅墓な決め付けであると、やはり、静かに、カゲロウは思索する。

例えば、ある音楽を聴いていて、なるほど、好い曲だと思い、自分でその曲を楽器で弾いてみると、ただ聴いているだけでは聴こえていなかった、そんな音が聴こえて来る、そういうことが、ままある。
それは、自分で弾いてみれば、より深く曲を理解できるからだというような見解は、おおよそ大雑把で無責任な言い様で、そんな漠然とした感覚ではなく、下手なりに自分でその曲を演奏してみると、その曲の荒削りな、手触りの感触とでもいうものが、実際の経験として、自らのものになる、そういう感覚があるものなのだ。

カテゴライズされ、一般化されたそれらというのは、その荒削りな部分を削れるだけ削り、出来得る限り大衆に受け入れられるよう、ソフィスティケイトされてしまっている。
それが巷に溢れる音楽であり、料理であるのだが、大衆はそれが当たり前だと、常々思い込まされている。
だが、そんなものに、実際に人が作った、手触りの感触などというものが、存在するはずがない。
聴き易く、食べ易いかもしれない、だがそこには、血が通っているとは到底言えない、白けた感覚が在るばかりである。

本当に、人が自分の手で作ったものというのは、耳障りであったり、少々荒削りであったりするのは当然のことで、そこにこそ、その作り手の人間性が現れる、そういうものなのだ。

音楽であれ、料理であれ、優れた作り手にとって、杓子定規に過ぎないジャンルなどというものは、実は自己表現の為の方便に過ぎず、その為に利用されるものに過ぎず、結局その料理というのは、彼そのものでしかない、そういう料理こそが本物であり、此処、オイルの料理というのは、まさにそのようなものであったように、カゲロウには思えたのだった。

中国菜 オイル四川料理 / 福島駅西梅田駅大阪駅
夜総合点★★★★ 4.0


中華料理 秀林

2011年11月19日 | 大阪
「味わいの、隙間に在る水。」

言葉の綾であることを重々承知の上で、それでもその言葉を使いたくなる、それ程に、本国の人であろう料理人たちが作る中華料理というのは、微かな味わいの節々に、どこか瑞々しさを感じさせると、カゲロウはいつも感心するのだ。

一品の料理の中には、それぞれの素材は勿論、おおよそ様々な調味料における、各々の風味が混在していて、しかし、良い意味でそれらの風味が、口中にて別々に感じられるような、文章でいうところの、行間が存在するというか、全てを無理にでもつなげて扁平にしてしまう、それ以前の在りのままの姿が、彼らの料理には感じられるような、そんな気がするのである。

勿論、その味わいを作り上げるには、サーカスの綱渡りのようなバランス感覚が必要で、一歩間違えば、そこは奈落の底、とんでもなくバラバラの、無残な味わいしか持たない、料理とも言えない料理が出来上がってしまうわけで、そのような誰にも望まれない存在を生み出す料理人など、当然のこと、料理人を名乗る資格など毛頭ない。

そのバランス感覚というのが、天性のものに限られるのか、後天的に、努力によって手に入れられるものなのか、そこのところは定かではないにせよ、中国における料理人としてのランキング制度というものは、おそらく日本のような、全ての上下があやふやな社会とは、ひと味違った厳しさがあるのだろうなと、カゲロウはその背景を、多少思い遣らずにはいられない。

そして、料理といえば、頭から離れず、考えずにはおれない魔法の粉の存在、それは果たして、国外にもその魔的な触手を伸ばしているのか、あるいはひたすら、日本独特のものなのであろうか、と。

卑怯な程にあまりにも容易く、味と味の間をつないでしまうその粉は、あらゆる料理に、その擬似バランス感覚を安易にもたらし、その素材や調味料本来の持つ、独特の角を削ってしまう。
あらゆる味を扁平にする、その効果の程は、まさに魔法の粉と呼ぶに相応しい、そんな存在であり、多くのラーメン屋がその粉に頼り、出来得る限りは、自分の味をと心掛けている料理人でさえ、開店時間間際、苦心したスープの味の調わないその時には、止むを得ず、その粉に頼ることに、なるとかならないとか。

そしてその内、易きに流れる人間の性で、その手法が常態化し、残念なことに、その味わいが、その店の味となってしまい、あらゆる料理店から、味の個性というものが消え失せる。

本場中国の料理人のプライドが、この国において、何卒、末永く、その魔法の粉の誘惑に負けてはしまわないよう、切に祈るばかりである。

中華料理 秀林 中華料理 / 桜井駅
夜総合点★★★★ 4.0


まねきそば

2011年11月14日 | 大阪
「舟、漕ぐ男。」

ヨル11時過ぎ、ぶらり横丁の一角で隣に立つその男は、小さくはない器を2つ空にして、まだその場を立ち去る気配はない。
その男が物事の順序通り、この場を潔く立ち去ってくれさえすれば、その向こうにある冷水機から、プラスチックのコップに冷たい水をタップリ注ぎ、そばの汁で火照った、このじわりと汗の滲む身体を、さっぱりと冷ますことが出来るのだが。

この200円という価格からすれば、充分に納得の行く内容の福蕎麦は、その静かな出汁の風味は人に優しく、その量も胃袋を満たすにナカナカのものである。
にもかかわらず、隣の男はそれに飽き足らず、どうやら更に、同じ大きさの器で提供されるカレーをも平らげ、しかも蕎麦の汁、一滴すら残してもいない。

しかしそれにしても、何故この男は、早々にこの場を立ち去ってくれないのか?

顔の角度は変えず、視線は合わさず、それとなく横の気配を窺っていると、何やらふいに男の体が、前後に揺れ始める。
咄嗟に危険を察知して、委細構わず男の顔を覗き込んでみると、案の定、おおよそ、その瞼は閉じている。
時折開こうと努力するその瞼は、だがしかし完全に持ち上がることはなく、薄く白目を窺わせるばかりの赤ら顔で、その風情を見ると、先程までは感じなかったアルコール臭が、心なしか漂ってくるようにも感じられる。
この夜更けに、ポッカリと空になった大きな器は、アルコールによって満腹中枢を破壊された者のみが発揮することの出来る力、その成果なのであろう。

そして、途端、ガクリと男の膝が崩れ落ちようとする、しかし、何故か不思議と、人間、こういう場面では、持ち堪えるものなのだ。
だが、それも二度三度とは、期待出来ない。
この男の漕ぐ舟が、沈没間近なのは明らかだ。
この男の向こう側にある冷たい水など、期待している場合ではない。
とばっちりを喰わない内に、退散するに限る。
此処の支払が、食券での先払いで、本当によかった。

さて、この男の漕ぐ舟は、沈没せずに、明日は何処かに向かうことが出来るのか、知る由もない。

まねきそば うどん / 梅田駅(阪神)大阪駅梅田駅(大阪市営)
夜総合点★★★☆☆ 3.5