カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

丸太町十二段家

2010年10月30日 | 京都
「普段使いのすゝめ。」

旅行者、観光の方、それだけで、何時もいっぱいのイメージがある、京都、丸太町通りの十二段家。

こちらのお店の、1,050円で提供される「すずしろ」というメニュー、それは、世間で言うところの、出汁巻き定食、そのものであり、出汁巻き、お漬物、ご飯、赤出汁、そして、お茶、内容は、それだけです。
お茶とご飯は、おかわり自由、そうは言っても、地味なメニューである、その事に、変わりはありません。
普通に言えば、到底ご馳走とは言い難い、普段戴く程度のお昼ご飯、それ以上でもそれ以下でもない、そんな内容。

正直、わざわざ外食で、所謂そのような、社食、学食的なメニューを戴こうという気には、なかなかなりません。
その上、観光客で何時もいっぱいという事になると、まずその気になれないというのが、この場所ならばいつでも行ける、そういう処に住まう者の実際でした。

前を通りながら、ああ、また少し人が待ってる感じだなぁ、と思いつつ、いつも通り過ぎていたのですが、先日、申込みの通った御所見学のついでに、ついに立ち寄ってみました。

運良くタイミングが合ったようで、空いていた一席に待たずに通され、とても幸先が良い。
給仕の若い男性は、こちらが恐縮してしまう程の低姿勢で、おそらく何があっても許せてしまうだろう、入店当初からそう思わせる謙虚さです。

先ずは、赤出汁、流石です。
非常に程良い、全く過ぎたところがありません。

ご飯は、お櫃に装われていて、実質、茶碗二杯半程度の盛りでしょうか。
自分の手で茶碗に装った感じ、少し柔らかめかと思えたのですが、実際口に含んでみると、一粒一粒が瑞々しいながらも独立していて、型崩れし、塊になってしまったりと、そのような事はありません。
ご飯が好きだと公言する人の多くの好みは、硬めである、その事実を思うと、柔らかい、なのに、旨いとしか言い様がないであろう、こちらのご飯、それは案外、特殊であるような、そんな気さえいたします。

お漬物は数種、例えばこれと同じだけの品数を、錦市場で揃えて、戴こう、そう思うのならば、ちょっとした金額になるのは必然で、この各々の味わいを、一度の食事で戴ける、それは意外と、外食であっても、ありそうでない、そんな内容なのかもしれません。
ただ、お漬物とはいえ、そのどれもが予想外に癖がなく、あっさりしたもので、如何にも深く漬かった、ある種の異臭を放つ代物を期待される、そのような方には、少々物足りない風味であるのかも知れません。

そして、出汁巻きは、始めは一切れ、何もかけずに戴きます。
正にこれこそ、何も言う事はありません、勿論、良い意味で。
さらに一切れ、少し醤油を滴らし、戴きます。
これも良いですな、醤油がよく馴染みます。
そしてまた、何もかけずに戴きます。
やはり、醤油がなくとも、良いですな。
では、お漬物と一緒に、戴きます。
お漬物と出汁巻きの味がしますな。
と、その内に無くなります。

さて、いよいよお茶漬けです。
ご飯の上に、少しお漬物を載せて、お茶をかけます。
お漬物を中心に、ざっとご飯をかき込みますと、少々お漬物の風味が中途半端になって、ぼやけてしまっているようです。
こちらのお茶漬け、どうやら、お茶とご飯だけで味わう、それがよろしいようです。
お茶漬けは少しにして、やはり普通に、ご飯をお供で戴く、そういう事にしましょう。

ご飯が美味しくて、お供は少しで済んでしまうので、必然的にご飯をたくさん食べてしまいます。
おかわり自由なんですが、お腹の容量は無限ではありません、限界は必然的にやってきます。
物分り良く、ふたりでお櫃に一杯だけ、おかわりを戴きました。

給仕の男性は、非常に良いタイミングで、差し出がましくなく、おかわりを促してくれます。
なんと感じの良い方でしょうか。
途中、電話があって、無理な予約を入れようとするその客にも、準備の必要な「しゃぶしゃぶ」以外のメニューでは、予約は受けられない旨を、実に丁寧に、優しく諭しておられます。
店主に代われと電話口で言ったのであろうその客は、はたして無礼な予約を勝ち得たのでしょうか。
最終的にどのような結論であったのか、それは定かではありませんが、是非とも却下されている事を望みます。

そして、このような誠実を絵に描いたような実質的なお店では、例えば、連れてきた子供が泣き止まない、そのような事があるならば、夫婦の内のひとりが、一旦外に連れ出す、そのくらいのマナーは、心得ていてもらいたいものです。
いくら誠実で気の付く給仕さんでも、そこまでは面倒見切れません。

最後、お会計を済ませ、お店の扉をくぐるその時には、正直、経験したことがない、そのくらいの誠実さで、お礼の土下座をしていただけます。
あまりの低姿勢に、こちらまで土下座したい、そのような気持ちになる、それ程の土下座です。
引き合いに出すならば、三条京阪駅前に有る「土下座像」、一見したところ、お侍ゆえか、ここ十二段家の給仕さんに比べれば、まだまだ頭が高い。
勿論、お礼の意味での土下座なので、そんな風情は無くて然りなのではありますが、人間、卑屈にならずして、ここまで心から人に頭を下げられるものなのでしょうか。
例えば、外回り営業で少々嫌な思いをしたその時でも、少し時間を取ってこちらで食事を戴き、その給仕さんの、あまりの礼儀正しさに接すれば、色んな意味で、たちどころに心が晴れる、そんなような事も、無きにしも非ず。
人間、そのような示唆が本当に必要な状況というのは、偶の旅行で浮かれてるような、そんな特別な時ではなく、日常的な、そのような場合であるようにも思えます。

最後に、現金な話で何なんですが、千円程度のお代金でここまでしてもらう、それは、本当に恐縮してしまう出来事です、こちらとしても。
たとえ料理抜きにして、その土下座、それだけでも、充分に千円の値打ちがあります。
常日頃からそのような接待を望んでいるという訳では勿論なく、人の土下座を金で買うような物言いになり、大変心苦しいのですが、実際、どのような仕組みによって、然したる対価もなく、しかしそれでも人が卑屈にならずに、ここまで美しく謙虚で在れるのか、自分の心の内に問うてみても、非常に興味の湧くところではあります。

全国から観光客が大挙して訪れる、ある意味、権威であるこの十二段家、しかしその権威というものが、いかにして、敬意、それをも含んだ名声と成り得たのか。
それは、行けばわかる、言うまでもなく、お料理、それだけの事ではありますまい。
そして、現在進行形で、権威であり続ける今も、変わらぬのであろうその低姿勢、おそらく人に敬意を持たれ、同時に親しまれ続ける、そう在るためのヒント、それが、このお店の在り方には、存分にある。
そのように思う次第であります。

とはいえ、実際には、お店によっては、そのような類の事、それすらも、何万円かのお代に含まれている、そうなのだろうとは思いますが、本当のところ。

松阪牛麺 大龍軒

2010年10月27日 | 大阪
「野望達成。」

言うまでもなく、先ずは松阪牛麺、そのメニューを食していただきたい、こちら。

ただ、このお店の本領は、麺と出汁、そして、カス、それだけでも充分に発揮されている、何度か通うその内に、そのように個人的には感じておる次第で、麺、出汁、カス、それで充分に、100%満足する、そこに松阪牛が載ると、それが120%になってしまう、そのような印象でしょうか。
実際のところ、ラーメンで、毎回毎回、120%というのは、ちょっとシンドイ、料理内容的にもお値段的にも。

そこで抱いた野望、最もお得に、そして美味しくこのお店の味を余す所なく堪能する方法、それを計算高く思案、選択した個人的結果、それが、カス麺のセットでした。

先ずは、スープを啜りつつ、集中的に麺を戴く、そして中程で、ご飯に温玉、そして、カスを載せ、出汁をかける。
そして、少々玉子の黄身を溶き、カスに絡ませ、出汁を含んで粥状になったご飯と一緒に、戴く。
至福です。

一杯のラーメンとしては、個人的に少々荷が重い、だがしかし、それでも余さず味わいたい、そう感じていた、こちらの一杯。

味の好みは千差万別、提供されたそのままがベストである、そう仰る方も、勿論ありましょう。
ただ、もし、ラーメンとしては、こちら色んな意味で、過ぎたラーメンである、多少なりともそのように感じていた方がおられるとしたら、お店の基本メニューを利用して、このような自分勝手なメニューに仕立て上げてしまうのも、ひとつ、一興であり、もしかすると、ベストな戴き方であると納得していただける、そのような事も、場合によっては、あり得るのではないか、そのように存じます。

いかがでしょうか、いかがでしょうか、そして、いかがでしょうか。

拓朗亭

2010年10月21日 | 京都
「和解。」

同じ街の違う場所にこの店があった頃、カゲロウは、一度だけそこを訪れたことがあった。
一戸建ての密集した急な坂の途中にある一軒、それがその頃のこの店の立地で、外観にしても、よくある普通の大きさの一戸建て住宅を少し改良しただけ、そのように見えたものだった。

路上もひっそりとした、ある冬の晩、ひと気のなくなったその住宅街で、寒々とした雰囲気、そして実際にも冷えた空気の中、後に妻となる人と一緒に、ひとつは冷たい蕎麦、もうひとつは温かい蕎麦を、いつも行く蕎麦屋でそうするように、ひとつずつ注文し、そしてふたりで分けようと相談しつつ、初めて入ったその蕎麦屋であったが、思いがけずも、そのささやかな望みは、終ぞ遂げられることはなかった。

その店に、温かい出汁で客に出すための蕎麦、それが用意されていなかった、そういう訳ではない。
当時から、そこそこに名の知れた、こだわりの蕎麦屋らしく、お品書きには滔々と薀蓄が記されている。
あまりにそれがくどくて、結局どういう種類の蕎麦が提供できるのか、ちょっとわかりにくい、そういう本末転倒な不手際は、この手の店にはありがちなことではある。
ただ、その事はまだしも、本当に問題であったのは、そこに記されていた、その冊子の中で一際に無情な一文、温かい蕎麦、それは、初めて来店の客には提供しないとの旨、そのような意味合いの通告であった。

公然たる依怙贔屓、あるまじき作り手本位なその我儘、呆気にとられる。
常連に対する贔屓、それは、あっても仕方のない事ではあるが、それをルールとして明記するとは、客商売として、ちょっと勘違いが過ぎるのではなかろうか。

二十歳そこそこの若いカゲロウが、いくらか傲慢な性格であったとしても、そこは積み重ねられた知識、経験に裏付けされた確固とした自信がある、そういう訳ではなく、本格派と謳われる蕎麦屋の述べるその薀蓄に、迂闊に口を挿み、温かい蕎麦を所望し、一喝される危険をあえて冒す事などできる筈もなく、寒い夜に、冷たく量も少ないざる蕎麦を、ふたりさめざめと啜って、言葉もなく席を立ち、家路につく、そうするしか他はなかった。
別に客もおらず、かといって店主は、おとなしいが、どことなく不満気なふたりにかける言葉も見つからず、巡る季節も店内の雰囲気も、そのような寒々とした状況での食事。
戸外に佇む闇の深さを感じつつ、望みとは違う冷たい蕎麦、その質の良し悪しなど、言うまでもなく、わかるはずもない。

遠い昔、そんな事があったのを、カゲロウは蕎麦を食べるその時には、頭の片隅で、今でも時々思い出す。

勿論そんな思いをしてまで食べたい蕎麦など、この世に存在する訳もなく、その後、再びその場所に足を運ぶこともなかったのは、当然の事である。
その蕎麦屋が少し離れた場所に移転し、その界隈では一等地であろう、国道沿いのラーメン・チェーンの居抜きで入ったその時にも、未だ怒り心頭という訳ではなかったにしろ、あの頃の高飛車な姿勢は何だったのか、わざわざ目立つ地所に店を構えるその在り方、浅はかにして軽薄だとせせら笑う自分がどこかに居て、所謂わだかまりというものが、人の心から長く消え去るものではないその事を、誰に問われるまでもなく自ずから知ったものであった。

ただ、近隣の外食事情全般に思いを巡らすのであれば、この地域、そう言っては気の毒な対象も、もしかしたらあるのかもしれない、だが実際のところ、満足できる料理店、いささか不毛の土地ではある。
ある意味、魔の交差点とでも言うべきその地点に程近い、一見、好立地に見えるその一角も、何度も入れ替わり立ち代り大手飲食チェーンが居抜きでオープンしてはみるものの、結果、最終的に、ケンタッキー・フライドチキンが撤退したその後は更地になってしまい、もう誰も手をつけない、そのような土地柄であるのは、事実である。
そこから幾らかしか離れていないその場所に、この蕎麦屋は、何を思ったか、移転してきた。

あえて大通りに出て、マイナーだが気位の高い、そういう蕎麦屋としてではなく、あらゆる飲食店と同じ土俵に上がり、商売として、本気で勝負しようという心意気、そのようなものは、多少の反感は抱けども、否が応でも感じずにはいられない。
しかし、お互いの強情から疎遠になっていたその関係上、前を通れば必ず目に付く看板ではあるものの、すんなり入店しようという気にはなれないのも、実際である。
十年以上も経ち、移転してさえそのように言われるのは、ある面、お店にとって気の毒な事であるのかもしれない。
だが、おおよそ人の記憶、そして心というものは、そういうものであり、それは、今現在為している事柄、それも事によっては十年、それ以上経っても、そう都合良く周りの人々に忘れ去ってもらえるものではない、その事は、誰しもが肝に銘じておかなければならない。
おそらくそれは、間違いのない現実である。

それはともかく、驚いた事に、更には何を思ったか、この店舗に移ってから、歴とした蕎麦屋の看板を上げつつ、蕎麦屋として変わらぬ評判があるにもかかわらず、ちょっとあり得ない話ではあるが、カレーを提供しているという噂も聞く、この拓朗亭。
蕎麦とカレー、組み合わせとして、完全な邪道であるという印象は抱きつつも、嘗てあのこだわりで売った蕎麦屋が、如何にしてどのような心境の変化により、そのような事態になり、いや、むしろ陰険な言い方をすれば、陥ったと言っていい程の情況となり、そして、実は、それが最も大きな関心事であり、厚かましくも本心なのではあるが、その蕎麦屋で提供されるカレー、それは、実際のところ、旨いのかどうか、それが気にならないはずがない。

個人的な休みの日が、その店の定休日と被っていた、それもあって、なかなかに縁が見い出せなかったのではあるが、先日、やっとと言うべきか、営業日、近隣に別口の所用もあり、十年ぶり以上に、少々気まずかった、移転前と同じ名のこの店を、今現在は妻となった、以前と同じくその人とふたり、訪れてみようという事になった。

少々身構えつつ入ったその店内は、きちんとリフォームされ、清潔感はあるものの、チェーン店の居抜きの間取り、イメージ、そのままである。

蕎麦屋としても、どちらかと言えば、少々強気な価格設定のその中に、他の蕎麦メニューの多くよりも安い、千円以下という価格帯で、そのカレーは提供されている。
その事には、あえて意図があり、そこにはある種の覚悟を感じさせる。
例えば、家族で食事に出掛ける場合、蕎麦を食べたいお父さんがいても、大概の子供というものは、一緒にぼそぼそと、ざる蕎麦など食べたくはない。
だが、そういう時に、その同じ店に、もしカレーがあれば、何とか家族揃って来る、そんな事も、出来なくはない。
例えば、ふたり連れの内、ひとりだけが蕎麦を食べたい、そんな場合でも、もうひとりのためにカレーが用意されていると、そういう訳である。
この店に訪れてもいいと思う人、その底辺の拡大、このカレーの存在は、間違いなくそれに貢献するであろう。
そうして、何度も訪れるその内に、いつものカレーではなく蕎麦を食べてみようという年代に子供は育ち、その子もいずれ大人になる。
そして、このカレーのある変わった蕎麦屋は、蕎麦好きの大人が、まだ蕎麦の魅力に気付いていない自分の子供を連れて来る事が出来る、稀有な店、そのようになる。
それでいいのではないか。

ただ、このカレー、やはりこだわりの人の作るカレーというべきなのであろう、一般的な普通のカレーとは、全くもって言い難い。
名前はチキン・カレー。
勿論、具材にチキンの塊が入っているので、その意味合いを除けば、名前的には、ただのカレー、それのみの表記である。
しかしながら、外見は勿論の事、食感、その風味、ちょっと他にはないカレーであるというのが実際で、味覚的な辛味は然程ないにもかかわらず、顔面からじわりと汗が染み出てくるスパイスの効き具合である。
舌触り、ザラザラとしていそうな外見とは裏腹に、小粒ながらも立体的な粗挽きの何かが、柔らかく抵抗なく咀嚼できるのが、少々意外ではある。
その粗挽きの何かが何なのか、今ひとつ理解及ばず、変わっているなと思いつつ食べ終わったその後には、次回もう一度試してみたいという欲求に駆られる事、必至である。
更にご飯に言及するならば、蕎麦の実が配合されている。
食感だけでは、ちょっと米と区別がつかない柔らかさを持つその実は、外見上は明らかに米とは別の柄である。
他で見たことのない雑穀米であり、意外と食べるのに違和感がないというのが、比較的好ましい。

そして、言うまでもなく、蕎麦は当然のこと、旨い。
何の抵抗もなく、喉を滑っていく。
ある程度以上の蕎麦の出来に、文句など付けようもなく、そこから先は、個人の好みの問題なのであって、その質に優劣などというものは存在しない。
それがあると思っているのであれば、それこそが、いただく側の傲慢とでも言うべきものであろう。

しかし、そして更にと言うべきか、これは完全に行き過ぎなのではあるが、蕎麦サラダなどというものまでもが、カレーの付け合せに提供される。
洋風のドレッシングで和えてある蕎麦、それが普通に言って、何に近い風味であるのかといえば、マヨネーズであるのは、薄味ながら絶句ものである。
何があったのか、少々壊れ気味と言っても過言ではない、蕎麦に対する価値観の変化であると思わざるを得ない。
ただ、以前の場所で営業していた、如何にも凝り固まった何かにがんじがらめになり、可愛気のなかったあの頃と比べ、破れかぶれではあるのかもしれない、けれども、ここには以前の場所にはなかったユーモアがある。
邪道はどこまで行っても邪道ではあるが、それを恥じる事はない、胸を張って邪道であると言い切れば、それでよい。
これらを食し、その有様を見て、何故か、このお店の味方ででもあるかのように、そういうふうに感じないこともないというのは、我ながら不思議ですらある。

いずれにせよ、もうここまで行くと、笑わざるを得ない。
以前の仕打ちで、少々不機嫌になっていた自分が馬鹿々々しい、そのくらいの、拘りのなさ、嘗ての頑なさ、その放棄である。
実際には、お品書きには、その昔の片鱗が見え隠れしないではないものの、なんだかんだ言いながら、錯乱しつつもサービス精神旺盛に、そこまでやってくれる、そうなのであれば、以前の事は水に流そう、でも、その蕎麦サラダだけは止めた方がいいよ、そう助言したくなる、そのくらいの大らかな気持ちにさせられてしまう。

そんなこんなで、何となく気まずかった、そんな人と、特に謝罪のやり取りや、明確な反省の意思表示があった訳でもなく、逆に小難しい対話で更に拗れるでもなく、今現在の在り方、そして内なる笑いによって、全てがうやむやの内に和解した。
そのようにして満足してしまうのは、お互いにとって、都合の良すぎる話なのであろうか。

いや、世の中、こんな成り行きも、たまにはあっていい、そうに違いない。

虎屋菓寮 京都店

2010年10月17日 | 京都
「ピラミッド、その頂。」

彼女の話→http://u.tabelog.com/000156253/r/rvwdtl/1455630/
決してそれを忘れていた訳ではない。
げに恐ろしきは、ファラオの呪い。

確かに、パリのルーブル美術館で、地下への入り口へと潜るその前に、そのようなものが地上にはあった。
そう思って観れば、ここ虎屋菓寮の前庭は、本当の平面では実際のところないものの、空間の広がりというか、物体の配置、所々にある構造物の微妙な高さの配分、そのようなものが平面を思わせる、それはルーブル美術館と相通じるところがあるような、ないような。

まさにファラオの呪いと言うべきか、やはり彼女の時と同じく、そのスイーツであるはずの物体は、そう簡単には刃物を寄せ付けない、何か未知の力が働いてるかのようである。
虎屋の誇るこの物体は、グルニエの誇るあの物体とは、全く別の材質にもかかわらず、切断しようと力を込めても、つるりつるりと逃げる逃げる、その有り様、いささか昆虫を思わせる反射神経的なものながらも、ある種の意思ででもあるかのようで、きっとこの物体は、人間の口に入りたくはないのであろう、そう思わざるを得ない逃げっぷりである。

何とかして、ぐにゃりとそいつを押さえ付け、更に押し潰すように千切りとって口に含むと、温度も味も、どうにもぬるいような、そんな気がする。
クールな外見からイメージしていたクールな風味とは程遠いクールさ加減であるのは、非常に残念な事である。

苦痛を感じながらされた野生動物の肉、それを使って調理をしても、美味しいジビエ料理が出来上がる事は、まずないのだと、どこかで聞いた事があるような、ないような。

嫌がって逃げるスイーツも同様であろうその事に、おそらくは相違ないのであろう。

グリル清起

2010年10月09日 | 大阪
「浸していただくハンバーグ。」

ミナミにおいてはかなりの老舗であろう、このお店のハンバーグ、それは、昔懐かしい、古典的、基本的な旧き良きハンバーグ、そうなのだろうと思いきや、実際のところ、意外にも、一種独特です。

良くも悪くも、その風味に、非常に肉臭さのあるこのハンバーグ、ジビエやテリーヌに類するその独特の風味、サーブされて先ず抱く印象、それは、とにかく大きい。
そしてそれは、ある面親切にも、鉄板の器に載せられサーブされるので、始めじゅうじゅうと、少々油が飛び散ります。

その色から察するに、おそらくは合い挽きかと思われますが、つなぎは少ないようで、形は歪、元来分解しやすそうな形状、なのに、さらにど真ん中に玉子が落とされ、焼かれ蒸らされ、料理がカウンターに来たその時には、その一個であるはずのハンバーグ、既に二分されていると言ってもいい、そのような状態です。

調理の風景を見ていると、焼く途中に多くの水分を投入し、かなり蒸されてはいるのですが、粗挽きのためか、然程水分は残っていません。
出来上がり、ふっくらしている訳でもなく、ジューシーという訳でもない。
デミ・ソースが多少滴らせてはありますが、本体の分量には到底比例していません。

そこで、特筆すべき脇役の出番となります。
別皿で用意される、たっぷりの醤油風味の和風ダレ、そして、カラシです。
その、さらりとした、欠片も粘りのないタレに、不規則に分解されたハンバーグの破片を、どっぷりと浸け、心持ち多く、カラシを付ける。
すると、当然であると言えば当然なのですが、濃い醤油出汁風味のお陰で、当初、前面に出ていた肉臭さは影を潜め、後ろに回って、重層的な、味の深みの一部となる。
これは、ある面では、成り行き上の苦肉の策なのかもしれませんが、結果的には、このハンバーグを、他の料理を押し退け、このお店の看板メニューにしている所以、大きな要素ともなっている、そのように思います。

いつから此処に在ったとも知れない風情、それがもし通りすがりであれば、たばこ屋と見紛わない、そういう人の方が珍しいであろうこのお店、当初からこのハンバーグが看板メニューであったのかどうか、そこのところは定かではないけれど、今回いただいた料理が、そのような想像膨らむ一品であったその事は、近辺でたまたま用事のあった、その事のついでに、無個性でもそこそこ程度の洋食、謙虚にそれを期待していただけの者にとっては、少々の驚きと、期待以上の喜びを味わわせてくれた、あまりお目にかかる事のない、稀な一品かと思われました、ご馳走さまでした。

イノダコーヒ 三条支店

2010年10月05日 | 京都
「ラムロック。」

漫画「うる星やつら」のラム(※1)、そして、ロックン・ロール(※2)、一部熱狂的ファンを擁する、この両者が組み合わされた、堂々たる名を冠する、この「ラムロック」というスイーツ、特にその由来という訳ではなかろうが、その両者を連想しない訳にはいかない、この罠。

ロック、それは、岩、そうとしか見えぬ外見、濃い褐色のチョコレートにより分厚くコーティングの成された、その外皮。
先ずは呼吸を整え、間を見計らい、慎重に苦心して、その岩肌にひび割れを作り、微かな隙間に硬い鋼鉄のフォークを突き刺し、勢いでその全てが弾け飛んでしまわぬよう、恐る恐る、更に慎重に慎重を重ね、チカラを込める。
化石の発掘ででもあるかの如く、細心の注意を払い、やっとの事で砕いた岩の割れ目、その中には、仄かに香るラム酒の沁み込んだ、薄い褐色のスポンジ状の生地が、ほんのりと顔を覗かせる。
ただ、この生地、ちょっと普通ではない。
どうやら、ひと手間加えられていて、おそらくは焼き上がったその生地を、あえて一旦崩し、再度練り固めた、そのような状態に、素人目には見える。
例えれば、それは、地面を掘った、まさに土壌のような肌理である。
畏れ多くも「ラムロック」の名を冠する、其の為には、あらゆる面で、そこまで擬似的に地質学的でなければならない、そうなのか。

こちらのスイーツ、少々早い時間に品切れになる、そんな事も、多々ある様子。
此処、三条店に無ければ、直ぐ先の角を曲がった本店へ。
先に本店を覗いて、もし無ければ、此処、三条店を、覗いてみるが好し。

(※1)漫画「うる星やつら」のラム
ご存知、虎柄のビキニを着た宇宙人、日本古来に認知される人種としては、「鬼」である。
彼女の普段着は、常にビキニであるため、稀に普通の洋服を着ると、寧ろ色気が増す不思議。
慣れとはそのようなものであると、彼女は身をもって、読者に知らしめてくれる。
人格的には、善人でも悪人でもなく、自分の関心外の事柄には全くの無関心で、許婚である「諸星あたる」と一緒に居られれば、それで万事満足なようである。
ただそれは、彼の個性に惹かれてというよりは、自分の決定に忠実であるという側面が大きく、周りの人間は勿論、許婚の彼そのものの迷惑をも顧みない行動が、殆どである。
得てして強固な恋愛関係というのは、そのようなものである場合が実際であり、真実であるためか、彼女は多くの人々から健気であると評され、大きな支持を得ている、それが現実である。

(※2)ロックン・ロール
ロックとは、反権力主義的、反体制主義的音楽、空気、雰囲気、姿勢、主義などの事を言う。
それは、心地良さを逆撫でし、常に坂道でギアを一段落として加速し続けるようなリズムで掻き鳴らされる、そのような音楽でもある。
しかし慣れとは恐ろしいもので、そのようなリズムであっても、いつしか単調になり、心地良くロールし始める。
それは、志が腐り始める瞬間である。
革命は、心地良い権力となり、反逆は、他者に対する抑圧と成り下がる。
気持ち良くなってきたと感じたその時、あなたは必ず誰かの何かを踏みにじっている。
嘗ての弱者は強者となり、メジャーはマイナーとなる。
腐り出す権力を打倒する為に、再びロックが必要となり、それはロールし始めるまで、その機能を果たす。
社会とは、その繰り返しであって、右であろうが左であろうが、あらゆる主義主張に、絶対的な正邪など在り得ない。
全ては腐敗する、それだけが真実であり、その浄化の為に、常にロックは必要不可欠なのである。