カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ポルタロッサ

2011年07月30日 | 京都
「お気遣いなく。」

その料理人が誠実であればあるほどに、料理に現れるのは人柄で、そこに傷つき易い繊細な部分が見え隠れする、そんな印象があったりすると、どうしても気を遣って、こちらが遠慮してしまう。
自然、見栄えの好い細かな料理に、不器用にナイフを入れることも、心なし躊躇われるし、たとえ、残すという選択肢は自分の中にはなかったとしても、何があっても絶対に残してはいけないという強迫観念に、内心、囚われることは、免れ得ない。
そしてそれは、当然、不快なことであるが、しかし勿論、独り善がりな妄想による、自業自得でもある。

少々予約が取り難く、個人的な都合としては、取り立てて便利な立地でもない、そんな御店に、何度か伺いながらも、その事について語るのは気が引けるような気がしていたのは、やはりそういうことだったのであろうかと、初耳の、鈍感力という言葉を、最近、聞かされ、思い至った。
鈍感であれれば、遠慮しなくて済む、そうなのだ、何であれ。

人であれ、料理であれ、繊細さが過ぎると、付き合い難い、それは、その繊細さを尊重したいと思うのならば、尚更のこと。
好ましくも侵害しがちなその領域には、おそらくは、近づかないのが無難だと、関わりを持つのを避けてしまう、そんなことを続けている内に、当初の好ましさは、反射的な疎ましさに変化して行き、何ひとつ、得るものすらなくなる、それは、まさに本末転倒である。

この御店の正直な誠実さは、料金にも現れていて、何かにつけ、小まめに追加料金が発生する。
つまり、最低限のサービスを望むのであれば、非常に安く、所々、和のテイストすら感じさせる、そんな手の込んだ繊細な料理を戴けるということでもある。
基本のセットを、可能な限り安い価格で提供しているのだから、それ以外に要る物がある場合は、残念ながら、無償では無理であると、正直に申告していると、そういうことであろう。

おそらくは御夫婦であろう、この御店のおふたりは、非常に腰も低く、客に掛ける言葉も少々遠慮がちで、それにつけ込む、むやみに押しの強い客など来店しないこと、同じく客の立場であるこちらが、天にお願いしたくなるほどである。
避けようのない、無神経にあれこれと要求する、そんなような素振りの厚かましい客になど、どう対応するのであろうかと想像させる、その線の細さは、そんな場面を思うだけで、痛ましい。

例えば、出町柳のイタリアンのように、同じく繊細な料理でありながらも、薄暗いイメージ、その圧迫感もなく、物理的にも非常に開かれた空間であることを印象付けるこの御店、それ故に、むしろ、剥き出しになったその繊細さが、少々痛々しい。
だから、気を遣わず、遠慮なく、ざっくばらんに美味しいものが食べたい、そんな時には、ごく近所にあるピザの御店に行こうかという、比較的、気楽な選択肢を採用してしまう、そんなことも少なくないのが、正直なところではある。

ポルタロッサ イタリアン / 樟葉駅
昼総合点★★★★ 4.0


シエル

2011年07月23日 | 京都
「Are You Ready?」

昼間、遠路遥々足を延ばし、あっぱれという名のラーメン屋で、ちょっと珍しいラーメンを戴き、ひとつのミッションを完了した我々夫婦は、その後、程々に所用など済ませ、ふと気が付いてみると、時間はもう、夕方近くになっていた。
あまり足を運ぶことのないこの地域で、ついでならば夕食も済ませてしまおうかと思いを巡らしてはみるものの、これといって、心当たりには思い至らない。

車を走らせながら、助手席の妻に、以前、適当にプリントアウトしていた、食事処の地図の中から、手頃な店をピックアップしてもらう。
と、シエルいう洋食屋さんが、宇治にあるみたいよ、と。

シエル、シエル、聞いたことは、あるような・・・というか、地図をプリントアウトしてるのは自分なのだから、聞いたことは、あるに決まっている。
さて、どんな店だったか、シエル、シエル・・・やはり、よく思い出せない。
何となく思うには、喫茶店風の、軽くそこそこの洋食を食べさせる小さな御店、そんな漠然としたイメージだ。
何がお勧めのメニューであったのか、それさえも思い出せない。

いずれにせよ、他にこれといって選択肢もない。
一旦は自分が興味を持った御店だ、何か特別なものがあるのだろう、行って無駄足だったというような事には、おそらくなるまい。
その時は、そんな軽い気持ちであった・・・。

到着した御店は、大きめの交差点の角地にある、こじんまりとした、やはり喫茶店風の、ちょっとセンスの良い緑のテントの佇まい。
何となくイメージしていた、その通りの御店であった・・・中に入るまでは。

扉を押して中を覗くと、入口に一番近い席に、先客が一名、彼が食べているものは・・・何なんであろうか!これは?
巨大な揚げ物、それを眼にして、妻の顔色が変わる。
これは、何だったか・・・思い出した!あの京都市役所西側の名物店、アローンに匹敵するといわれる、巨大クリーム・コロッケである!
店内に、他に客は居ない、給仕のおばあちゃんは、既に、いらっしゃいと、言ってしまった、もう引き下がることは、出来ない。

ふたりは覚悟を決め、奥の席に着く。
そう!ひとりは軽めのメニューにすればいいのだ、何なら、コーヒーだけでもいい。
そう思ったのだが、開いたメニュー表には、コーヒーは、ない。
何と、此処は、喫茶店ではないのだ!料理しか、ない!

ふたりはもう一度、心を静め、再び決心を改め、クリーム・コロッケと、ハンバーグのランチを注文する。
あぁ、夜なのに、ランチ・セット、それしかないのだ!此処には。

そして、遠慮がちに、ライスは小盛りでと、お願いしてみる。
と、おばあちゃんは、鼻で笑ったようだ。
女の人は少なめなんですー、とは言うが、その返答は、こちらの提案とは無関係のようですらある。

そしてやってきたライスは、案の定、とてもじゃないが、小盛りには、見えない。
そして、両方とも、同じ量にしか見えない・・・何故?
やはり強引にでも、こちらの注文を、おばあちゃんに復唱してもらうべきであったのか?
いや、そんな注文は、この店では許されない、そういうことなのであろうか。

そしていよいよやって来た、コロッケ、そして、ハンバーグを、実際に目の当たりにして、心の中のスイッチを切り換えた、いや、自然と、切り換わった。
味わって食べようなどという思いは、おこがましい、とりあえず、完食を目指すべきである!それが、この御店のミッションである!と、そう理解した。

両方の品を、お互いに、半分づつに分ける。
妻が切り分けるコロッケは、心持ち大きさが異なるようだ、自分の分を小さくしている、それは、気のせいであろうか、いや、そう、おそらくは、気のせいなのであろう、いずれにせよ、この状況では、その料理、ひと口ふた口の差が、一体、何だというのであろうか。
無心に、機械のように咀嚼し、飲み込む、その作業を延々と繰り返すが、道程は長い。
顎の疲れを感じながら、満腹中枢を意識的に無視しつつ、この御店のメニューが、何故こんなに巨大化したのか、その理由に思いを巡らせる。

ごく近くにあるのは、立教大か・・・しかし、女子大ではなかったか?
いや、それは勘違いか・・・。
というか、女子だって、食べればいいではないか、入るなら、いくらでも。
そんなやけっぱちで、どうでもいい思考が、脳内を埋める。
だがしかし、この先、こんな思いが、いつまで記憶に残っていることであろう。
そして、その記憶が失われた頃、何気なく、京都と奈良の県境に出掛け、再度、適当な食事処を求め、此処を訪れること・・・そんなことが、再びあるのだろうか?

胡 YEBISU

2011年07月20日 | 京都
「タラコに、よろめいた、そんな夜。」

その機会があるとすれば、明日かもしれない、そんなタイムリーなタイミングで、とある律儀なお知らせを戴いたからには、その意気に応えるのが務めと、当日、個人的に幾分都合の好い、山科本店へと赴きました。

季節限定の冷やし担担麺、此処、胡が、担担麺の専門店であるからには、やはり、夏の基本はそのメニューであると、そう言えるでしょう。
しかし、この季節、年に一度は訪れるのが恒例となった、そのような感もあるこの御店、実は此処には、夏季限定商品が、もう一品、あるのです。
それが、冷やしタラコ麺、しかし、これは勿論、担担麺の類ではなく、謂わばラーメンの類ですらない、そう言い得る、そんな麺類なのかもしれません。

近頃、つけ麺に使用される麺、それを筆頭に、既に、饂飩とも蕎麦ともパスタともつかない、そう言い得る麺が、世間に台頭する昨今、このタラコ麺に使われている麺は、その手の麺と比較すると、非常に細い。
例えば別の場所で、パスタと称し、提供されたところで、誰も文句を言う者はない、おそらく、そうでしょう。
その極細麺に、生卵と生タラコが、これでもかと、たっぷり絡み、ひと口づつ戴くために麺を引き出すその作業も、また、ひと苦労と言える、それ程の粘着力を発揮しています。
厳密には、カルボナーラ・生タラコ・スパゲティとでも名付けたい、そんな風情ではありますが、実際、風味としては、洋風というよりは和風で、無造作に散らされた海苔と、おそらくは、白葱の茎に近い部分の微塵切り、その風味が、かなり効いています。

それが、単に偶然の賜物なのか、試行錯誤、研磨研鑚、取捨選択の末の結果なのか、勿論それは、後者なのでありましょうが、いずれにせよ、結果的にはこの組み合わせ、なかなかに絶妙の配合を見せています。
外観の上品さとは、好い意味でミス・マッチとも言い得る、そんな荒削りな食感、風味の魅力が、個人的には、非常に好ましい。

ふと思えば、軽薄にして節操のない、そんなファミリーレストラン的メニューの面影さえ窺わせるこの一品、しかし、そこに在って然るべき、その一線を画すのは、味覚的に練りに練られ、当たり障りなく、大人にとっても子供にとっても、老若男女、全く角のない万人受けを狙った、そんな強欲な思惑が、此処には存在しない、その一点であり、わかる人だけが食べればよい、それこそが、ラーメン専門店の持つべき矜持とも言い得る、そのような、一見、眼に見えない気位のようなもの、それが、実はこの料理にも現れている、そう言っても過言ではないと、個人的には思える次第であります。

かね正

2011年07月15日 | 京都
「やさしいうなぎ。」

鰻と聞いて、ある種の性的な逸話を連想しない、
それは言うまでもなく、オトナとしては認識不足である、
という訳でもなかろうが、そんな類の連想は、
食い気と同様に、色気を重んじる社会人であれば、
誰しも脳裏をかすめるであろう事に、疑いはない。

つまり、もし、鰻と聞いて、食い気しか催さない、
そうなのであれば、それは偏に、人間が、食い気に支配されている、
そういうことである。

・・・そうなのであろうか?

いずれにせよ、それは、
わざわざ言いたてるべきことではないのかも知れない、
だが、あえて否定すべきことでもない。
そもそも、生命力と精力は同義であり、その「精」と「性」も、
現実的に、表に顕れれば、同じことなのである。

実際、捌きたての鰻を戴き、
これまさに、生命を譲り受けているのだと体感した、
そんな先日の体験が、まざまざと印象に残る昨今、
その記憶の新しいままに訪れた、此処かね正は、
黙々と調理に集中する、その職人の姿に象徴されるかのように、
意外と、音もなく、どこか殺伐とした、漲るもののない、
そんな雰囲気の店内であるようにすら、個人的には感じられた。

先日と同じく、眼の前で捌き、焼き上げられる鰻は、見る間に縮み、
微かに水分の蒸発する音と共に、香ばしい芳香を放つ。

器いっぱいに、これでもかと、たっぷりに装われた、
眼に鮮やかな、柔らかい黄色の錦糸卵の下、
予めタレを絡めたご飯との間、そこに漂う鰻の身は、確かに旨い。
だが、期待するともなく、期待していたと、後から思えばそう言ってもいい、
漲る生命感、その強烈な印象というのは、正直、希薄である。
先日のうりずん。では、戴いている、その真っ最中から、
ある種の、命のやり取りを、掛け値なく身体全身で体感したものであるが、
此処かね正のうなぎは、実感として、そうでもない。

見栄えにせよ、出来栄えにせよ、
非常に凡庸な形容ではあるが、
やはり、上品と言うに相応しい、そんな鰻。

もし、料理の種類に性別があって、
性的なニュアンスで、それを例えるならば、
たおやかで、やわらかで、あるべき以上に、やさしい、
此処かね正において、特に人気の錦糸丼というのは、
当然のこと、普通の男性なのだと思い込んでいたら、
実は、非常に女性的な、まるで女形のような存在であったと、
そんな風に言えるのかも知れない。

みつばち

2011年07月10日 | 京都
「柔らかな、白い玉。」

その昔、幼少の頃、既製品の蜜豆に、唯ひとつ、もしくは、もうひとつ、そんな数だけ入っている白玉というのは、ひとまとめにされた器の中で、寒天や大粒の小豆などと比べて、どこか特別な雰囲気を醸し出していたものであった。
ゼラチン質の、色とりどりの宝石のような、派手な輝きの中、地味に埋もれ、しかし、その真っ白な柔らかい食べ物は、他の何よりも、噛み応えがあり、味わい深いものであったように思う。

しかし成り行き、子供の浅はかさは、少ないからこそ、希少価値のあるその食べ物を、どうにかして、思う存分食べてみたいという、身の程知らずな、風情の欠片もない欲望を、心の内に芽生えさせる。

そして子供は、ある時、食料品店の棚の片隅に、あろうことか、白玉粉の袋を発見してしまう。
片栗粉などと同じく、細長い、白い袋に、魅入られてしまう。
そんなようけ、食べれるわけないと言われつつ、どうしても欲しいと懇願し、おそらく、思う存分、鍋に浮かべた白い玉を、心置きなく食べ放題に食べたのであろう、その時は。
だがしかし、その後、取り立てて白玉を食べた記憶というものが、ここ最近になるまで、ない。

その袋の、どのくらいの割り合いを、心から美味しいと思いながら消費できたのか、それすらも定かではないが、もう白玉に対する想いというのは、その時点で、何十年分も達成されてしまったのであろう、見境のない己の欲に従うことが、如何に愚かしいことか、幼少の頃に思い知ったはず、それなのに、これまでの人生、白玉に限らず、これに似た愚行、そんな類の行いが、何度繰り返されてきたことであろうか。

そして、その白玉の呪いも解けてきたかのようにも思える今日この頃、再び、雰囲気のある和菓子屋などに行けば、それなりに白玉の魅力になど、今また気付くように成れたと見えて、時折戴いてみたりもするようになったという次第。

このみつばちに立ち寄る機会を得て、然程の強烈な欲求に見舞われることもなく、それなりに、冷静に戴く白玉は、昨今、寄せて戴いた、老舗の和菓子屋、中村軒や走井餅と、変わらぬ白さ、やさしさ、そして、粘りであると思う。
それつまり、最上級というに相応しい、そんな白玉であろうこと、間違いなしである。

hikari-yurari (ヒカリ ユラリ)

2011年07月07日 | 京都
「打ちのめされたい、美味しさに。」

極端に席数が少ない、そのことが特に印象深い、静かな薄暗い店内で、先ずは前菜、タコと初夏の野菜のサラダ仕立てを戴いて、グラリと来た。
だがその振動は、カゲロウにとって好い意味での揺れとは言い切れず、この先の料理が、期待していた風味とは少々違う角度の方向性であるのかもしれない、直感的にそう思えるせいであったかも知れない。

少量ながらも、大胆でカラフルな盛り付けに、自分にとって都合よく運んでも、もしくは運悪く、好みと外れて転んだとしても、いずれにせよ、大きなインパクトのある、ガツンとした風味を予想したにもかかわらず、あまりにも角のない、良くも悪くも万人受けしそうな、そのやさしい味で、自らの内の何事かをたしなめられたかのような、そんな気がして、ある意味、肩透かしを食らったかのように、この食事において、今から何を期待し、何を期待するべきではないのか、心の準備を促された、実際、そのように思えた。

その覚悟、それ故なのか、むしろ、次に出て来た、トマトとジャガイモの冷製スープは、意外と、好き嫌いが分かれそうな、そんな味覚的特徴が、なくもない。
そしてその偏りが、好みの味であろうとなかろうと、姿勢としては好ましい、そうカゲロウには思える。

ハモとレタスのリングイネ・ピッコレ、素材の内容をも含め、割烹的な和食と、イタリアンの間、その風味の合間を、ゆらりゆらり。
この御店の、幾分か不可解なその名前、それは実は、そういう雰囲気、意味合いを表しているのではないか、カゲロウは、ふとそう思う。
あまりにも淡いハモの風味は、それであってこそハモであるという言い回しを除けば、ハモである必然性すらない、それ程に淡い風味で、この料理に使うには少々勿体ない、そのように、感じなくもない。

そして、打って変わって真っ黒なビジュアルが印象的な、イカスミのリゾット、これに関しては、正直、調理の方針云々以前に、イカスミそのものの、クセのある風味が、料理の要素、全てを支配してしまっている。
調理が雑な訳では勿論なく、大味である、そのように言い得る訳でもない。
しかし、大局的には、この素材での料理提供それ自体が、ある面、大雑把であるように感じられてしまう。
しかも、正直、そう度々食べたいと思える風味でもない。
ただしかし、またそれ故に、此処で料理を戴く、今日、此の日が、特別なのだと、強く印象付けられる、そんな気もする。

そんな料理の、幾分ブラックな印象のせいか、店内の壁にある、放置された染み、そして、湿気による足元の黒ずみが、少々カゲロウには、気にかかり始める。
薄暗く、その手の雰囲気があるように見えつつも、この御店の細部に、徹底した美意識が存在するのかどうか、少々疑わしいと、気のせいか思えて来る。

そして最後、メインの料理、スモークした京都ポーク肩ロースのロースト、それは、期待するしないにかかわらず、その日いちばん素直に、カゲロウの味覚にヒットした料理であった。

得てして、イタリアンにせよ、フレンチにせよ、本格的であればある程に、コースのメインで提供されるローストは、腹を満たすという意味で、これでもかというボリュームと噛み応えを演出されているもので、幼い頃から日本食に慣れ親しんでいる、そんな人間からすれば、食べている途中で、少々ウンザリさせられる、そんな嫌いも、無きにしも非ずである。
だが、さすがに、当たり障りなく、万遍ない風味、それこそを目指しているかのように思える当店、それ故なのか、それが、最終的には好い方向へ転び、結果、食事全体のバランスとしては、最後、気持ち好く、腹八分目で終了するに相応しいフィナーレを、欲張り過ぎないことを知る、そんな類の万人にもたらし、それはまさに、全てが綺麗に終わったという印象なのは、確かではある。

デザートは、カタラーナ、レモンと白ワインのグラニテ添えで、非常に爽やかではあるのだが、ただ、シャーベット状のワインというのは、普段、口にすることのない類のものではあるものの、料理単体としては、特段、期待する程に驚きのある風味をもたらしてくれる、そういうものではなかった。
全体の為にある口直し、それ以上ではない。

そして、本当の最後、食後のお飲み物ということで、カゲロウ夫婦はコーヒーを選択したのだが、小さなメレンゲが、雰囲気添えにスプーンに載せられてはいたものの、市販のフレッシュそのままが、ソーサーに載ってくる、それだけは、容量的に無駄がないなど、その採用に一長一短あるのは理解できるものの、結論としては、本当に残念なことながら、少々考えものだと言わざるを得ない。

店内を見回してみると、その日は、特にそうであったのかも知れないが、おそらく客は、20代の若者ばかり。
今日、此の日、普段の食事よりも少し奮発して、お手頃なコース一本のこの御店に来た、そんな雰囲気である。
おそらくは、自分の好み云々ではなく、評判の良いこの御店ならば、提供されるお料理も間違いないはずだと、疑いもなく信じているのであろう。
そして実際、その期待を裏切る事はない、誠実で手の込んだ料理を、この御店が、このように比較的安価で提供しているその事実は、特筆に価することでもある。
一ヶ月間、通して同じメニューであることが、それを可能にしているのであろう。
ある方面に対しては、もしかして、大変に失礼な物言いなのかもしれない、だが、あえて言うと、このお店のお料理は、まったく以って、子供騙しではない、むしろ年配の、様々な料理を食してきた、好みに煩い、しかし、ガンガン食べるには、そろそろ胃腸も弱ってきた、そんな類の人間にこそ相応しい、そんな出来であるとさえ思える。
だが、この御店の、総合的な意味合いとしての軽い雰囲気、そして価格が呼び寄せるのは、比較的、若年の客であるという皮肉。
連日が予約でいっぱいだとしても、報われない何かが、そこにはあるはずだと、カゲロウはお節介にも考える。

この御店に、もし足りないものがあるとしたら、それは何なのか。
おそらくそれは、料理に対する攻めの姿勢、そう言われるものであり、それつまり、シェフ個人の我が儘の発露なのであろうと、カゲロウは思う。
それが見えないことには、人であれ御店であれ、核心が見えたような気がしない、それは、偏にカゲロウの好みでしかないと、言い切れる問題なのであろうか。
いや、それなくして、経済的には兎も角、先々、心の部分での、破綻の回避はありえない、それは、個人的なことであれ、経営的なことであれ、同じである。

そして、もし、至高の普遍性というものがあるとしたら、それは、万遍ない大衆性の中にではなく、突き詰めた個人の志の中にある、その考えは、普遍性という言葉に反するようではあるが、少なくともカゲロウは、そう確信している。
社会に認められようと努力すること、それは、当初は人気を集めたとしても、様々の面で、最期には虚しい結末を迎え、逆に、最後まで苦しい戦いを強いられたとしても、自分の信念に正直でさえあれば、大衆的な人気など得られなくとも、満足して死ねる。
おそらく、そうなのだ。

このお店のシェフが、誠実に、そして真面目に、自分に課したことを日々こなしている姿勢、それは、疑いもなく、素晴らしい。
だが、自分に正直であるかどうか、それはまた、別問題である。

それ自体が、もしかすると、気のせいなのかもしれない、だが、多く世間の好みに迎合している、もしくは、時流に合わせているかのようにさえ思える、そのやさしい雰囲気の料理を、少しづつ、少しづつ、気を使いながら戴いていると、もっともっと、イタリアンというジャンルを選んで料理人に成った、本当のあなたが目指すべきもの、それを実感として感じたい、カゲロウは内心、そのような穏当とは言い難い、あるべからざる欲望が渦巻いて来るのを、抑え切れない。

チーロ (CiRO)

2011年07月01日 | 兵庫
「ウ・メス・ウ・ファン・トレス。」

1+1=3(ウ・メス・ウ・ファン・トレス)、近頃見かけるこの記号の正しい謂れ、
そんなものが、あるのかどうか、それは知らない。
だが、それを知らない、それが故に、カゲロウは様々な物事に、
その記号が内包するように思える、そんな意味合いを反映し、
想像を羽ばたかせることも、出来る。

随分と以前、全盛期の頃、マドンナのインタビューとして眼にした記事に、
とても興味深い告白があった。
彼女自身、自覚するに、自分は最高のシンガーでもなければ、最高のダンサーでもない、
しかしそれでも、自分は現代における最高のエンターティナーのひとりであると、自負していると、
そういう内容であったように思う。
同時期には、ダンスにも歌にも、怪物的なキレを見せる、マイケル・ジャクソンや、
妖怪じみた芸術的深遠さを誇る作品を、これでもかと連発するプリンスなどが、
同じくエンターテイメントの土俵に居たワケで、
彼女の、己の限界を知りつつ、それでも前向きに在ろうとする、
ある意味、自虐的なそのコメントは、非常に感慨深いものであった。

そして、重要なのは、そんな内面的葛藤を前提に、それでも努力を惜しまない、
そんな彼女を知るかのように、広く世間も、彼女を評価していた、その事実である。
そこには、彼女の歌、そして、彼女の踊り、そのふたつを足した、それ以上の何かが、
相乗効果として、彼女の存在そのものに在った、それは真実なのであろう、
一足す一は、二ではない、それ以上なのである。

例えば、繊細さで言えば、最高の料理とは言えないかもしれない、
利便的に見て、最高の立地ではない、礼儀正しい最高のホスピタリティでもないかもしれない、
しかし、それらの差し引きなどという、小賢しい評価などではなく、
トータルとして、最高といえる料理店のひとつで在り得る何か、
それが、そこに確かに存在する、そういう御店も、世の中には在るのである。

そして、そのひとつが、まさに、このチーロなのであろう。