カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ランデヴー・デ・ザミ

2010年12月29日 | 大阪
「その名は我に・・・。」

強烈に、支持を自認する者、そして、外部に強力な協力者を持つこのお店。
つまり、もうこれ以上の賞賛は、必要あるまい、このお店・・・。

ラスト・オーダー、それも終わろうかという時間、にもかかわらず、ほとんど満席の店内、人気の程が窺い知れる。
ランチとはいえ、休日用の安くはないメニューで、この状態というのは、ある程度予想していたとはいえ、やはり驚きである。

お店は清潔で、隙がなく、接客も丁寧で、失礼さの欠片もない。

迎えてくれた女給さんは、忙しい故に少しお疲れなのか、どこか笑顔に陰りが見えるような、そんな気がする。
ただ、それだけではない何かが、席に着いて、暫く様子を見ていると、徐々に分かってくる、そのような気も、してくる。

お料理のサーブが、少々遅い、それは、個人的には事実であるように思えはしたけれど、それに対するフォローが一言あるところが、またお店に対して好感を増す作用を生んでいる、そのようにさえ思える、卒のなさ、非常に感じが良い。

お客は上限以上は入れない、調理はじっくりと遅めで、満席ながらも、サーブにあくせくしているという程には見えない。
つまり、本当に卒なく、良いとされる接客をこなしつつ、それでも、おそらく疲れている、それは、物理的作業は兎も角、接客に関する精神的な面での負担であろう、そう思えてくる。

店内に入った瞬間に感じた硬い空気、ある種の緊張感、それは、お店のせいではなく、客のせいである。
評判のお店に来る、ある種の審査員ででもあるかのような、根拠なく気位の高い客、いったい何様なのであろうか。
客同士までが、お互いに顔色を窺い合うその雰囲気、同じ客として、お店に対して申し訳ないような気になる。

美味しい料理を、精一杯努力して、楽しんで食べてもらおうと調理し、サーブする人たち。
それを、美味しく、じっくり楽しみ、感謝する、そのような純粋な姿勢と、良ければそれで当たり前、もしかすると、そうでない部分がないかどうか、それを粗探しするような食べ方、それは、同じ金額を支払い、残さず料理を平らげていたとしても、全く別のものである。

一緒に来た人間とは談笑しつつも、料理に向かうその時には、眉間に皺を寄せているかのようなその雰囲気、それは、ある種のお店に訪れた時、少なからず感じる、空間を支配する、澱みと静けさ、シビアさ、ひとつ間違えば、直ぐにでも悪意へと変貌する傲慢さ、もしくは、そんな空間に同席する、気まずさ、居心地の悪さ、そのようなものである。
店内に居る客の、複数の背中から、そんなダークなオーラが立ち昇ってる、そのように感じるのは、気のせいなのであろうか・・・。

考え、人に審判させる雰囲気を持つ、手の込んだ料理、それを提供するお店に、そうするからには負わざるを得ない責任が、全くないとは言わない、だが、食べる側が、予めそのような心積もりである必要は、全くない。
楽しく、美味しく戴ければ、それでよいのである、そこに何も考える余地などない。
楽しく話し、一所懸命、食べればよい、それだけである。
そういう大らかさが、少なくとも、今、此処にはない。

少し話を変えよう。
そう、あえて言うような、そんな事でもないけれど、人間の認識、そして勿論、それに基づいて書く文章が、絶対的客観性を持つなどという事は、金輪際、あり得ない。
実際、あらゆる事実というものが、実は、人それぞれであるという、その事の、理解出来ている人と出来ない人、残念ながら、出来ない人ほど、その自覚は、ない。

だから例えば、多くの人が絶賛するこのお店の料理に対して、残念ながら、比較的、個人的に好みではなかったと言ったところで、それがまるで客観的、絶対的な価値観によるものであるなどとは、ゆめゆめ捉えないでもらいたい、そういう事でもある。

正直なところ、実際に戴いた今だから言える事であるが、個人的には、全体的に、もう少し強めに、しっかりと火の通った料理というのが、好みではあった。
こちらの売りであり、強みでもあろう、熱を加え過ぎず、素材を活かすというポリシー。
より生に近く、多くの人が絶妙であると感じる、しかし、個人的には微妙であると感じる、微妙な熱処理に基づいた、微妙な食感の調理、そして、スパイス、香辛料、調味料に頼らない、良く言えば、素材の風味を活かした味付け、実際に、そこに、特徴を感じた。
しかし例えば、最近戴いた別のお店、はしたてなども、同じく言葉にすれば、素材を活かすという事を、少々別の手法で追求し、昇華させた料理を提供している。
その方向性の違いを、日本料理と西洋料理の差であるとカテゴライズするのは、単純で、安易過ぎる。
では、自分は、日本料理が好みで、西洋料理は、比較的好みではないのだ、そう一刀両断してしまうのは、言うまでもなく愚かである。
実際に、生っぽいものが苦手な人間であっても、その手のもので人を唸らせる西洋料理のお店というのも、存在する。
だから、結局は、そのお店、そのお店、もっと言うのであれば、その料理人、その料理人、それは、少なくともその程度には個別に、それぞれで判断すべき事であり、それでこそ、真に平等で、多様性のある、正しい判断の方法、前提であると、言えるのではないであろうか。

実際のところ、自分の感じた、審判官の食事処ででもあるかのような、その雰囲気、そのようなものが、残念ながら、比較的好みではなかった、このお店の料理を戴いている自らの背中からも、朦朧と立ち昇っていた、おそらくは、そうなのであろう。
美味しい料理は食べたいけれど、そのような類の人間の仲間入りはしたくない、願わくば、頑張る料理人をプレッシャーで押し潰し、挫けさせるような、そのような無言の圧力が、露骨に現れてはいなかった、そうであるようにと、祈るばかりである。

いや、だが、それどころか、その場に居た、そんな類の人間などというのは、もしかすると、自分ひとりだけだった、そうなのかも・・・。

蝦蟇の油/黒澤 明

2010年12月27日 | 日記
.折に触れては古書店を覗き、捨子物語を探しています。
実際のところ、早急に手に入れようと思うのであれば、ネットで簡単に手に入るのでしょうが、
こういう本は、あえて古本屋を覗いて、手に入る約束なく、偶然に巡り会いたい、そんな気がするのです。
いつのことになるかは、わかりませんが、それでもいいのです。

その日も、京都市役所沿いの寺町通り、その通りの東側にある古本屋を、通りすがりに覗いてみると、
相変わらず捨子物語は見当たらないものの、探していたのでも何でもない一冊の本が、ふと目に付きました。

それは、映画監督、黒澤明の自伝、ハードカバーの上に、さらにカバーのついた装丁、
中身を出してみると、古本らしからぬ、まっさらな保存状態です。
ぱらぱらと捲ってみると、内容的に、実際の本人の著作であるように思えます、
文筆家ではない、しかし紛れもなく優れた作家である人物の書いた読み物、そこがとても興味深い。
美しく、流麗な文章ではないけれど、そこにあるエピソードのひとつひとつは、まさに驚きの連続で、
やはりこの人は、成るべくして映画監督になったのだなと、実感できる、そんな内容です。

今日は、高橋和巳には出会えなかったけれど、黒澤明に出会えた、これも、縁でしょう。
店番の奥さんに、これは幾らかと尋ねると、少し考えて、千円と言われたので、
そのいい加減さに呆れて笑いそうになりながら、値切らず素直に所望しました。
千円で黒澤明の経験した事、そして考えている事を知ることが出来るなら、
どう考えても、安い買い物です。

またそのうち、高橋和巳にも、出会うことは出来るでしょう。

喫茶葦島

2010年12月20日 | 京都
「見えない裸眼で、見る光。」

最近のクリスマス・ツリーというのは、凄いものです。
今年、サンタさんから送られてきた我が家のツリー、それは、おそらくは、最新式。
枝とは別に付いた電飾が、ピカピカ、などというものではなく、枝そのもの、枝と一体化した光源が、まだらにジワジワと、虹色に変化しつつ、まるである種の・・・そう、深海に棲む生き物のように、地味にひっそりと、人知れず神々しく、音もなく輝くのです。

科学の進歩とは凄いもので、例えばどんなに偉いとされる人々、貴族だろうが天皇だろうが、殿さまであろうが何であろうが、ほんの百年ほど前であれば、夏場、暑くて暑くて、どうにも気も狂いそうで、少しでも涼しくしようと、そのために、いくらお金を積んだところで、更には、どこに圧力をかけたところで、今は当たり前にある、クーラーの恩恵に与ること、それすら叶わなかった。
それを、現代に生きる人間というのは、まったく金持ちと呼ばれる階層でなくとも、当然のように、しかも、公共の場であれば、ほとんど只で享受できる、そういう訳です。

それと同じような事が、このクリスマス・ツリーにも言える訳で、かつて人類というのは、このような類の美しい光、それを、間近に目にする事、それすらなかった訳です。
それに近い輝きを放つ、宝石やオーロラ、虹などは、人類が誕生するそれ以前からあるけれど、この光の美しさとお手軽さ、それは、以前の地球上には、決して存在しなかった、そういうことです。

そして、このクリスマス・ツリーの光を見るにあたって、最適の見方というのが、実はあって、それは実際、限られた人だけの特権ではあるのですが、眼鏡をかけずに見る事、そうなのです。
そう、始めから眼鏡、もしくはコンタクトをしていない人、つまり、おおよそ車を運転するため、その程度には、視力に問題のない人というのは、残念ながら、その美しさを体感する事は、出来ません。
近視に乱視など入っていれば、もうこれは絶好です、暗闇に浮かぶその光の数、実際の5倍程度には見えますね、この世のものとは思えぬその輝き、美しいこと、この上なし。

ところでこのお店、葦島に伺ったその時は、いつもの如く、昼間半日、京都の街を練り歩き廻り、足も疲れたが眼も疲れた、そのような状態であったため、店内に入って以来、ほとんど眼鏡をせずに寛がせていただいた、それが、非常に良かった。

キューブリックの映画を想わせる、薄暗く、しかし、光に充ちた印象を受ける、この店内。
日も暮れて、大きな一枚ガラスから入る自然光にも影響されず、人間の心象風景にのみ基づいてコントロールされた、そんな光源からの輝きだけで満たされた、ぼんやりと発光する壁面、空間。

タイミングも良かったのでしょう、そこに居るのは、マスターと給仕さん、そしてワレワレふたりだけ。
この、実際には閉じられた、しかしそれでいて、内面的に開かれた、そんな印象を受ける空間、それを、思う存分、満喫することができます。
例えばこんな贅沢な空間設備を、自費で賄い用意しようと思えば、いったい、いくらのお金が要ることでしょうか。
誰かが意図し、費用を賄い、用意しなければ、絶対に存在しない空間、それをワレワレは、珈琲一杯のお値段で享受できる、その事の有難味、それを意識できない人には、この幸せを味わう資格、それは、ハッキリ言って、ないでしょう。

上着を脱いで、眼鏡も外し、柔らかなソファに深々と腰を下ろして寛いでいる、その間およそ30分、エレベーターの扉が開いて、ひとりの客が珈琲豆を買い求め、間もなく退席、そして、ワレワレが帰る頃に、別のお客がひとり、来店。
もしかすると、お店の経営的には楽観できない状態であるのかもしれませんが、個人的な都合で言わせてもらえば、何と理想的な客足。
しかしいずれにせよ、金儲けを第一義に考える人が、このようなお店を維持する事など、出来る訳はありません、それは間違いなく、情熱の為せる業、おそらくそこに、遠慮はいらない。

ただ、お店の自慢であろう珈琲の味わい、それに関しては、充分に美味しく戴き、寛がせていただいたにもかかわらず、ふたりして、旨いか不味いか、その程度にしかわからない味覚の持ち主であるその事が、少々申し訳ない。

それにしても、何よりこの空間です。
例えばそれは、細部を見れば、自然の支配下にある現実を意識せずにはおれない、それは事実ではあるけれど、あえて眼を凝らさず、漠然と眺め、感じる事、それができれば、完璧な美と調和を感じる、そこはかとなく、それが許される。

見えている世界と、見えていない世界、そして、ぼんやりと見えている世界、別の視力を持つ者、さらに言うなら、別の視覚方法を持つ生き物、それらには、それぞれの世界観があって、当然のこと、各々は同じではない。
そしてそれらは、実は、いずれも主観的な真実の姿であって、どれかが間違いであるというようなことなど、決してない。

己の人間としての能力の限界まで、どうしても見たい、知りたい、それが是である、そう望む類の人物は、全てを極限まで見ればよい。
しかし、世の中は、見えない方が良いような、知らない方が幸せなような、目を背けたくなるような、顔を覆いたくなるような、そんなものが溢れていて、それを見なくて済むならば、もしくは、そういうものも含めて、ぼんやりと眺めることが出来て初めて、その美しさ、魅力を存分に発揮する、そのような存在というのも、間違いなくある。

詳細を見るのではなく、語るのでもなく、もしかしたら、存在の美を、完璧なものと認識できる、それは、そういう見方によってのみ、それでしか得られない、そうなのかも知れません。

そして人は、例えばここ、葦島のような、そういう空間を、心の何処かで求めている、そういうところは、無意識的であったとしても、誰しもあるんではないでしょうか。

りほう

2010年12月12日 | 京都
「七月の、疎水沿い。」

いま思い出せること。

それは、メダカの水槽がとてもきれいで、思わずそうつぶやき合っていたふたりに、くわしく丁寧に、さらにはユーモアたっぷりに、メダカの話、藻の話、そして水槽の手入れについて話してくれた、マスターのこと。

昨今よくある、すわり心地の良過ぎるソファ、そんなカフェとは、まったく逆の、かたく冷たい椅子に腰かけ、身体が寛ぐ、そういうわけではないけれど、自然と、静かにしていたい、自ずからそんな気持ちがわいてくるような、それでいて、心なしお店の雰囲気に気圧される、そういう圧迫感を覚えることもない、こころ落ち着く空間。

そして帰り際、ふと振り仰ぎ、外から建物を見上げると、何故か入口の更に上にある、微笑ましくも理解不能な謎の扉、そこから西洋人のご婦人が、にっこり微笑んでくれたこと。

そうか、あの扉は、夜な夜な彼女が子供たちに夢を配りに出かける、そのための出入口に違いない。

猛暑であったと言われる今年の夏、その時も例外なく、容赦ない暑さであったのか、そうでもなかったのか、今はもう、よく思い出せない。

北白川の疎水沿いの、何ということもない一般的な住宅の並び、其処にある、ちょっと不思議な外観のその建物は、それがどこだか思い出せないまま、ある時、忽然と夢に現れそうな、まるで童話の中のような佇まいだった、そんなような気がします。

嘔吐/J‐P・サルトル

2010年12月10日 | 日記
「嘔吐」と書いて、「はきけ」と読ませたい。
訳者としては、本来的には、「おうと」と読ませたいのではない、そのつもりらしいこの小説、1938年、サルトルの作品である。

サルトル、哲学者の作品などというと、シリアスで、ひたすら難解、小説としては、かなり小難しいなどのイメージが、巷にはあるのかもしれない。
だが、実際のところ、本作は、ユーモアの塊のような小説である。

尋常ではない密度で描かれる、狂人のものと言っていい、それ程の心理描写。
同じく、気違いの視点で描かれる小説に、魯迅の「阿Q正伝」などもあるが、そちらが比較的、社会風刺的であるのに対し、こちらは徹底して個人の在り方、彼に見える実存を描いているという点で、また別の類のものではある。

実際のところ、本作は、その手の雰囲気だけを追いかけるために、まるで的を得ない描写を重ねるような、ありきたりな偽物的作品とは異なり、とことん徹底的でありながら、的確で共感を抱かざるを得ない、その要所々々の詳細、誰しもが、どこか身に憶えのある感覚、それらは文句なく驚嘆に値するのではあるが、如何せん、それらのエピソードが、成るべくして繋がっていかない、そんな印象を受ける。

それはそれで、クールである、そう言えるのかもしれない。
だがしかし、もしかすると、そのような描き方そのものが、作家の照れ隠しのような気もする。

哲学というものは、宗教を排除する事、それを大前提として、成り立っている、そういう空気はあるものの、それは実は、謙虚に過ぎる定義であって、実際のところ、どれ程メジャーな宗教であれ、所詮はひとりの人間の妄想が生んだ思想、ビジョンであるその事に、違いはない。
つまり、宗教とは、ひとつの哲学なのである。

ま、異論も色々とあるであろうが、人はそれぞれ、思うように思えばいいのであって、他の人間がどう思おうと構わない、それとこれとは、また別の問題である。

要するに、何が照れ隠しなのかと言えば、実存を超えるもの、それに言及すると、宗教的にならざるを得ない、だから、より冷静に、客観的にあろうとするならば、学問の域を出る事は、出来ない。
だがしかし、何が書きたいのか、ハッキリした目的、その結論が、書く前から出ている小説に、感動はない。
道中、如何に脱線しようと、如何に狂人的視点で描こうと、ある段階を超えた驚きと感動を、学問的な要素だけで生み出す事は、出来はしない。
作家自身も、この先どうなるのかわからない、そのような状態で書き進められていく物語でなければ、読む側にスリルを与える事は、不可能である。
朧げに見えている、もしくは全く見えない結末に近づいていくその速度は、書き手も読み手も同じであるべきで、単なる予定調和に対しては、驚きも感動もあり得ない、それも、書き手も読み手も、同じである。

あえて言うのであれば、ジャンルに捕らわれない勇気、もしかすると、それが、本作には、決定的に足りない、そのように、思わなくもない。
哲学は勿論、宗教、さらに、科学にメロドラマ、それさえも呑み込んでこその、優れた小説、物語なのではなかろうか。

はしたて

2010年12月05日 | 京都
「スキヤキ、考。」

葱、しめじ、その他の茸、麩、そして牛肉、彩り良く装われた、これらの食材から連想するのは、どうしても、スキヤキである。
ただ、これがスキヤキであるのならば、嘗て三嶋亭、毛利志満などで戴いたものとは、少し違う。
その、最もたるもの、それは、その割り下で、最初から鍋になみなみと注がれ、たぷたぷと揺られながら運ばれてくる、その事である。

スキヤキの専門店では、先ず、鍋に引いた牛脂、それだけで、肉をさっと炙り、少々の調味料で、とりあえず、ひとくち、戴く。
これがとにかく、強烈に旨い。
そうこうして、食欲を煽った後、粗目を鍋の底に敷き詰め、上に具材を装い、その水分で、ぐつぐつぐつぐつと、ひとしきり煮立たせる。
甘辛い割り下、もしくは水分を、更に足しても良いが、足さなくても良い、そこは、お好み次第である。

ところが今回は、真っ黒な割り下が、鍋一杯分、予め、なみなみと。
ちょっと、どころか、かなりの驚きである。
その、底の見えない、しかし、さらりとした液体が、ほんのり少し温まってくると、既に出汁の香りが辺りに充満し始める。
その香り、色、これまさに、濃口醤油、かなりその傾向が強い。

そして、その外観からの予想通り、戴いてみると直裁に、そのような風味である。
嘗てこのお店で戴いていた数種の料理から、同じ類の繊細さ、それを、いくらか期待していた先入観は、ものの見事に裏切られる。
問答無用、怒涛の醤油出汁、あまりにも、意外過ぎる。
何やら長い名前の付けられていた、この鍋は、一般的に言う、スキヤキではないようである。
これは、それまで抱いていた、スキヤキ観、それを覆す未知の鍋、そうなのかも知れない。

勿論、美味しいのであるが、風味が濃い分、味わいが単調になってくる。
黙々と、休まず箸は動かしてはいるが、実は腕組みして、少々頸を傾げている、そんな自分が、その場にもうひとり居たような、そんな気もする。
せめて、鍋の最中に、白いご飯を所望すればよかった、平らげた後に、そう思う。

鍋がすっかり終了し、その後に選んだ、蟹雑炊。
そちらはうって変わって、かなり淡い味付け。
先程の鍋とは好対照、そう言えればいいのであるが、山椒だけではなく、もう少し、何らか薬味が欲しかったというのが、正直なところであった。

そうでなければ、先程の、濃過ぎた鍋の醤油出汁を、ここぞとばかりに活かせる場面、それが、この雑炊であるように思えたのであるが、そういう具合に思ったその時には、先程の銀色の鉄鍋は、卓上から既に姿もなく、結果、こうである事がわかっていた、そうであるのならば、ああする事も出来たのに、そう悔やむ事しきりな、色々な意味で意外性の多過ぎた、そんな内容の、鍋の会ではあった・・・。