「その名は我に・・・。」
強烈に、支持を自認する者、そして、外部に強力な協力者を持つこのお店。
つまり、もうこれ以上の賞賛は、必要あるまい、このお店・・・。
ラスト・オーダー、それも終わろうかという時間、にもかかわらず、ほとんど満席の店内、人気の程が窺い知れる。
ランチとはいえ、休日用の安くはないメニューで、この状態というのは、ある程度予想していたとはいえ、やはり驚きである。
お店は清潔で、隙がなく、接客も丁寧で、失礼さの欠片もない。
迎えてくれた女給さんは、忙しい故に少しお疲れなのか、どこか笑顔に陰りが見えるような、そんな気がする。
ただ、それだけではない何かが、席に着いて、暫く様子を見ていると、徐々に分かってくる、そのような気も、してくる。
お料理のサーブが、少々遅い、それは、個人的には事実であるように思えはしたけれど、それに対するフォローが一言あるところが、またお店に対して好感を増す作用を生んでいる、そのようにさえ思える、卒のなさ、非常に感じが良い。
お客は上限以上は入れない、調理はじっくりと遅めで、満席ながらも、サーブにあくせくしているという程には見えない。
つまり、本当に卒なく、良いとされる接客をこなしつつ、それでも、おそらく疲れている、それは、物理的作業は兎も角、接客に関する精神的な面での負担であろう、そう思えてくる。
店内に入った瞬間に感じた硬い空気、ある種の緊張感、それは、お店のせいではなく、客のせいである。
評判のお店に来る、ある種の審査員ででもあるかのような、根拠なく気位の高い客、いったい何様なのであろうか。
客同士までが、お互いに顔色を窺い合うその雰囲気、同じ客として、お店に対して申し訳ないような気になる。
美味しい料理を、精一杯努力して、楽しんで食べてもらおうと調理し、サーブする人たち。
それを、美味しく、じっくり楽しみ、感謝する、そのような純粋な姿勢と、良ければそれで当たり前、もしかすると、そうでない部分がないかどうか、それを粗探しするような食べ方、それは、同じ金額を支払い、残さず料理を平らげていたとしても、全く別のものである。
一緒に来た人間とは談笑しつつも、料理に向かうその時には、眉間に皺を寄せているかのようなその雰囲気、それは、ある種のお店に訪れた時、少なからず感じる、空間を支配する、澱みと静けさ、シビアさ、ひとつ間違えば、直ぐにでも悪意へと変貌する傲慢さ、もしくは、そんな空間に同席する、気まずさ、居心地の悪さ、そのようなものである。
店内に居る客の、複数の背中から、そんなダークなオーラが立ち昇ってる、そのように感じるのは、気のせいなのであろうか・・・。
考え、人に審判させる雰囲気を持つ、手の込んだ料理、それを提供するお店に、そうするからには負わざるを得ない責任が、全くないとは言わない、だが、食べる側が、予めそのような心積もりである必要は、全くない。
楽しく、美味しく戴ければ、それでよいのである、そこに何も考える余地などない。
楽しく話し、一所懸命、食べればよい、それだけである。
そういう大らかさが、少なくとも、今、此処にはない。
少し話を変えよう。
そう、あえて言うような、そんな事でもないけれど、人間の認識、そして勿論、それに基づいて書く文章が、絶対的客観性を持つなどという事は、金輪際、あり得ない。
実際、あらゆる事実というものが、実は、人それぞれであるという、その事の、理解出来ている人と出来ない人、残念ながら、出来ない人ほど、その自覚は、ない。
だから例えば、多くの人が絶賛するこのお店の料理に対して、残念ながら、比較的、個人的に好みではなかったと言ったところで、それがまるで客観的、絶対的な価値観によるものであるなどとは、ゆめゆめ捉えないでもらいたい、そういう事でもある。
正直なところ、実際に戴いた今だから言える事であるが、個人的には、全体的に、もう少し強めに、しっかりと火の通った料理というのが、好みではあった。
こちらの売りであり、強みでもあろう、熱を加え過ぎず、素材を活かすというポリシー。
より生に近く、多くの人が絶妙であると感じる、しかし、個人的には微妙であると感じる、微妙な熱処理に基づいた、微妙な食感の調理、そして、スパイス、香辛料、調味料に頼らない、良く言えば、素材の風味を活かした味付け、実際に、そこに、特徴を感じた。
しかし例えば、最近戴いた別のお店、はしたてなども、同じく言葉にすれば、素材を活かすという事を、少々別の手法で追求し、昇華させた料理を提供している。
その方向性の違いを、日本料理と西洋料理の差であるとカテゴライズするのは、単純で、安易過ぎる。
では、自分は、日本料理が好みで、西洋料理は、比較的好みではないのだ、そう一刀両断してしまうのは、言うまでもなく愚かである。
実際に、生っぽいものが苦手な人間であっても、その手のもので人を唸らせる西洋料理のお店というのも、存在する。
だから、結局は、そのお店、そのお店、もっと言うのであれば、その料理人、その料理人、それは、少なくともその程度には個別に、それぞれで判断すべき事であり、それでこそ、真に平等で、多様性のある、正しい判断の方法、前提であると、言えるのではないであろうか。
実際のところ、自分の感じた、審判官の食事処ででもあるかのような、その雰囲気、そのようなものが、残念ながら、比較的好みではなかった、このお店の料理を戴いている自らの背中からも、朦朧と立ち昇っていた、おそらくは、そうなのであろう。
美味しい料理は食べたいけれど、そのような類の人間の仲間入りはしたくない、願わくば、頑張る料理人をプレッシャーで押し潰し、挫けさせるような、そのような無言の圧力が、露骨に現れてはいなかった、そうであるようにと、祈るばかりである。
いや、だが、それどころか、その場に居た、そんな類の人間などというのは、もしかすると、自分ひとりだけだった、そうなのかも・・・。
強烈に、支持を自認する者、そして、外部に強力な協力者を持つこのお店。
つまり、もうこれ以上の賞賛は、必要あるまい、このお店・・・。
ラスト・オーダー、それも終わろうかという時間、にもかかわらず、ほとんど満席の店内、人気の程が窺い知れる。
ランチとはいえ、休日用の安くはないメニューで、この状態というのは、ある程度予想していたとはいえ、やはり驚きである。
お店は清潔で、隙がなく、接客も丁寧で、失礼さの欠片もない。
迎えてくれた女給さんは、忙しい故に少しお疲れなのか、どこか笑顔に陰りが見えるような、そんな気がする。
ただ、それだけではない何かが、席に着いて、暫く様子を見ていると、徐々に分かってくる、そのような気も、してくる。
お料理のサーブが、少々遅い、それは、個人的には事実であるように思えはしたけれど、それに対するフォローが一言あるところが、またお店に対して好感を増す作用を生んでいる、そのようにさえ思える、卒のなさ、非常に感じが良い。
お客は上限以上は入れない、調理はじっくりと遅めで、満席ながらも、サーブにあくせくしているという程には見えない。
つまり、本当に卒なく、良いとされる接客をこなしつつ、それでも、おそらく疲れている、それは、物理的作業は兎も角、接客に関する精神的な面での負担であろう、そう思えてくる。
店内に入った瞬間に感じた硬い空気、ある種の緊張感、それは、お店のせいではなく、客のせいである。
評判のお店に来る、ある種の審査員ででもあるかのような、根拠なく気位の高い客、いったい何様なのであろうか。
客同士までが、お互いに顔色を窺い合うその雰囲気、同じ客として、お店に対して申し訳ないような気になる。
美味しい料理を、精一杯努力して、楽しんで食べてもらおうと調理し、サーブする人たち。
それを、美味しく、じっくり楽しみ、感謝する、そのような純粋な姿勢と、良ければそれで当たり前、もしかすると、そうでない部分がないかどうか、それを粗探しするような食べ方、それは、同じ金額を支払い、残さず料理を平らげていたとしても、全く別のものである。
一緒に来た人間とは談笑しつつも、料理に向かうその時には、眉間に皺を寄せているかのようなその雰囲気、それは、ある種のお店に訪れた時、少なからず感じる、空間を支配する、澱みと静けさ、シビアさ、ひとつ間違えば、直ぐにでも悪意へと変貌する傲慢さ、もしくは、そんな空間に同席する、気まずさ、居心地の悪さ、そのようなものである。
店内に居る客の、複数の背中から、そんなダークなオーラが立ち昇ってる、そのように感じるのは、気のせいなのであろうか・・・。
考え、人に審判させる雰囲気を持つ、手の込んだ料理、それを提供するお店に、そうするからには負わざるを得ない責任が、全くないとは言わない、だが、食べる側が、予めそのような心積もりである必要は、全くない。
楽しく、美味しく戴ければ、それでよいのである、そこに何も考える余地などない。
楽しく話し、一所懸命、食べればよい、それだけである。
そういう大らかさが、少なくとも、今、此処にはない。
少し話を変えよう。
そう、あえて言うような、そんな事でもないけれど、人間の認識、そして勿論、それに基づいて書く文章が、絶対的客観性を持つなどという事は、金輪際、あり得ない。
実際、あらゆる事実というものが、実は、人それぞれであるという、その事の、理解出来ている人と出来ない人、残念ながら、出来ない人ほど、その自覚は、ない。
だから例えば、多くの人が絶賛するこのお店の料理に対して、残念ながら、比較的、個人的に好みではなかったと言ったところで、それがまるで客観的、絶対的な価値観によるものであるなどとは、ゆめゆめ捉えないでもらいたい、そういう事でもある。
正直なところ、実際に戴いた今だから言える事であるが、個人的には、全体的に、もう少し強めに、しっかりと火の通った料理というのが、好みではあった。
こちらの売りであり、強みでもあろう、熱を加え過ぎず、素材を活かすというポリシー。
より生に近く、多くの人が絶妙であると感じる、しかし、個人的には微妙であると感じる、微妙な熱処理に基づいた、微妙な食感の調理、そして、スパイス、香辛料、調味料に頼らない、良く言えば、素材の風味を活かした味付け、実際に、そこに、特徴を感じた。
しかし例えば、最近戴いた別のお店、はしたてなども、同じく言葉にすれば、素材を活かすという事を、少々別の手法で追求し、昇華させた料理を提供している。
その方向性の違いを、日本料理と西洋料理の差であるとカテゴライズするのは、単純で、安易過ぎる。
では、自分は、日本料理が好みで、西洋料理は、比較的好みではないのだ、そう一刀両断してしまうのは、言うまでもなく愚かである。
実際に、生っぽいものが苦手な人間であっても、その手のもので人を唸らせる西洋料理のお店というのも、存在する。
だから、結局は、そのお店、そのお店、もっと言うのであれば、その料理人、その料理人、それは、少なくともその程度には個別に、それぞれで判断すべき事であり、それでこそ、真に平等で、多様性のある、正しい判断の方法、前提であると、言えるのではないであろうか。
実際のところ、自分の感じた、審判官の食事処ででもあるかのような、その雰囲気、そのようなものが、残念ながら、比較的好みではなかった、このお店の料理を戴いている自らの背中からも、朦朧と立ち昇っていた、おそらくは、そうなのであろう。
美味しい料理は食べたいけれど、そのような類の人間の仲間入りはしたくない、願わくば、頑張る料理人をプレッシャーで押し潰し、挫けさせるような、そのような無言の圧力が、露骨に現れてはいなかった、そうであるようにと、祈るばかりである。
いや、だが、それどころか、その場に居た、そんな類の人間などというのは、もしかすると、自分ひとりだけだった、そうなのかも・・・。