カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

竹下

2017年08月29日 | 京都
「そぼろ。」

独房の中、というのはこんな感じなのだろうか。外観が土蔵だけに、まさに江戸時代の牢獄であるかの様。そんな不謹慎なことを連想させなくもない個室の小窓から差し込む外の光は、むしろ其の狭い室内の薄暗さを際立たせる。

周囲の喧騒、其の一音も通さぬ風情の厚い壁が不思議と安心感を抱かせる密室で戴く、すき焼きの小鍋は甘辛く、牛丼は幾分か辛め。ともに妥当な旨さながら、実際、深く印象に残るものではなかったのではあるけれど、あえて追加にと持ち帰った冷凍のハンバーグには、好い意味で少々驚かされた。

つなぎ少なめでありながら、そぼろ状。ひと口めには非常に薄味に感じられ、物足りないくらいの其の味付けではあるけれど、では、と思い、先ずは市販のケチャップをかけて戴いてみる、と、此れが旨い。では、こちらは?と、ソースをかけてみても、此れも旨い。塩胡椒でも旨いし、挙句は何もかけずに戴いてみても、先程より旨いと感じる。つまり、ひと口では気付くことができない、それ程に絶妙な按配で、下味がついているのである、そもそも。何と控えめ、且つ、充分なハンバーグであることか。

ただ其の事実というのは、むしろ持ち帰って後、外の世界にある、ありきたり様々の薬味で自由に戴いたことによってのみ、判明したことではある。

竹下焼肉 / 福知山駅

昼総合点★★★★ 4.0


あいつのラーメン かたぐるま

2017年07月09日 | 京都
「つけ麺、斯くあるべし。」

今がどうなのか、其れはわからない。だがしかし、だからといって其の後、其の店における其の手のメニュウがどのような内容になっているのか、件の店を再び訪れて確かめてみようなどと思うことはない。期待を裏切られたのなら、もう行かなければ其れでよい。其れで万事は解決している、そういうことなのだから。

数年前、普段は足を踏み入れることのない、とある大箱のラーメン・チェーン店にて、メニュウ表に「つけ麺」の文字を発見した時の驚き、そして、もしかすると、あわよくばとの期待は当然のことながら叶えられることはなかった。其処で提供されたのは、所謂一般的なラーメンの麵と汁を別皿に装い、ただ分けたというだけの代物。いよいよ関西圏で「つけ麺」が認知を得始めた当時でさえ、其のあまりにも付焼刃的な在り方は失笑モノとしか言いようがなく、勿論のこと、「つけ麺」としての在るべき美味しさなど欠片もない。ただ時流に乗ろうと浮ついているだけ、およそ何の認識もセンスもなく、経営システムの一環としてメニュウに付け加えられ、まだモノを知らない人間に対し、平然と偽りの「つけ麺」を提供していたというだけで、其処にはラーメン一般に対するせめてもの愛情もなく、ましてや執着など全く感じられない、其の代物。初めて食べた人間が、いきなり其の時点で「つけ麺」に対する興味を失ってしまったとしても全く構わないという、無責任を画にかいたような構図が、ありありと其処にはあった。
だから、やはり、商売優先でしかないチェーン店などというモノは、基本的には信用ならない輩が人任せに経営する金儲けの道具でしかないのだと、改めて思い知らされた。そんな嫌な気分を抱かされたものであった。

だがしかし、其れとは違う、顔の見える個人が経営する飲食店というのは、否応なく嘘がない。前提として、ラーメンというモノに対する姿勢がチェーン店とは違うのだ、当然のコト。
だから、数量限定で提供される此の店の「つけ麺」だって、見ただけでわかる。コレは美味いに違いない!と。

あいつのラーメン かたぐるまラーメン / 丹波口駅
昼総合点★★★★ 4.0


六盛 スフレ・カフェコーナー茶庭

2017年03月25日 | 京都
「キタイ/期待/気体」。


薄暗い洞窟のようだ、だが狭くはない、むしろ居心地の好い奥行きを感じさせる、そんな待合室の其処此処にて、深くソファに腰かけ息を潜める者の数は、ざっと二十はくだらない、おそらくはそれ以上だろう、なんとも妙な雰囲気で、むしろ此の穴蔵で寛ぐ其のことこそを目当てとして、わざわざ此の地を訪れたかのようでさえある。

年齢層はといえば、およそうら若く、男女の比率はといえば、やはり甘味を求める処の常にして、其のおよそが女性、男性はその連れ添いがほとんどであるかのように窺われる。

観光地を訪れた其のついで、そんなつもりで立ち寄った昨今話題の変わり種カフェ。

とはいえ、一休みせんがためだけのこんな場処でこんなに時間を取られ、足止めを食らってもよいものなのか、旅先では寸暇も惜しんであちこちを歩き回る習性のある己が質のことを鑑みると、このように悠長に寛ぐ彼らの状態を見るにつけ、他に観るべき処は此の京都にないのかと、正直やきもきしてしまうのではあるけれど、実は観光などというものは、あくせく足を棒にして歩き回るようなものではなく、むしろ本来、無駄に時間を持て余すくらいに余裕を持つべきものなのかも知れないと、思い直さないでもない。

果たして、各々が各々の思惑を抱きつつ、相当に長い時間待たされて、いよいよ提供されることとなったスフレなる代物はといえば、カップからはみ出して丸く膨れた、気球のような見栄えのケーキ、そしてやはり、気球のように中は空洞、其の真ん中に、意を決して、スプーンにてぽかりと穴を開けると、其処から湯気のように、其の瞬間まで抱いていた「キタイ/期待/気体」がふわりと漂って行ってしまった、其のような気がしないでもなかった。

六盛 スフレ・カフェコーナー茶庭洋菓子(その他) / 東山駅神宮丸太町駅三条京阪駅
昼総合点-


霜月

2016年04月15日 | 京都
「Kooks(変り種)。」

ささやかな庭に面した自宅の縁側で、のどかな春の陽射しの中、満足気な微笑を浮かべる幼子の姿を見ている、其れだけで、今のすべてが報われたような心持ちになれるのだから、其の存在というのは他の何ものにも代えがたく、愛おしい。

まだ男でも女でもなく、もしかすると人ですらない其の神の子は、心底嬉しいと感じられる、そんな時にのみ、其の喜びを偽ることなく表現する。

コハクと呼ばれる其の和菓子、薄く張った氷のような表面をひと口齧ると、パリパリと小さな音が己が歯を通じて歯茎に感じられる、其のような気がする。そしてあるかなきかの瞬間に、まるで水を噛んでいるかような柔らかな内部に到達し、其の微妙な味わいに再度驚かされるのだ。ほのかな甘さはむしろ爽やかで、微かに後に残る山椒の風味は此れ一概ではなく、紛れもなく稀有である。

幼子の期待に満ちた其の顔は、ひと口噛んで驚きに変わり、瞬時に笑みが面に満ちる。然もありなん、離乳食を口にしてまだ二ヶ年にも満たないのだから、もちろんのこと初めての食感であり、つまり其れは初めて味わう喜びなのだ。

むしろ良い意味で人間くさいとさえ感じられる幼子の其の表情に、或る種の感慨と安堵を抱きつつ、程々に長らく生きてきて、しかし同じく初めての其の食感を体験した自分という存在は、果たしてどのような顔で其の驚くべき和菓子に応えられただろうかと、此れもまた或る種の複雑な感慨に耽ることに、なる。

霜月和菓子 / 北山駅北大路駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5


一之船入

2016年02月04日 | 京都
「朧な、中華。」

印象に残らないというところが、むしろ印象的な此の店の料理、かといって内容に不満が残るという訳ではなく、勿論のこと記憶には新しいのだけれど、やはり其れでも其の具体的な風味については、あったような、なかったような、朧な出来事ででもあるかのように定かではない。

人心というのは本当に都合のよいもので、キャッチフレーズが医食同源であるなどと聞くと、食べれば旨い其の上に、己が身体の弱ったところまで治ってしまうのかと早合点しがちであったりもするのだけれど、何のことはない、実際のところ、此れを食してさえおれば身体に悪影響はないですよというような、緩やかな慰めのようなものであるのがやっとのことで、なるほど仰る通り、言われなくともわかる程に胃腸にやさしい其の風味、中華料理の代名詞と言っていい油という言の葉さえ心中にも浮かばない爽やかさである。

其の風味、其の質感は、個室での交歓を邪魔することはなく、まさか食後の行動に支障をきたすようなこともない、此れは或る面、使い方さえ間違わなければ理想的な料理店である、と、其のように言い得るのかも知れない。

一之船入中華料理 / 京都市役所前駅三条駅三条京阪駅

昼総合点★★★☆☆ 3.5


銀そば せいいち

2015年07月17日 | 京都
「田舎の、女の子。」

そして、目前に立ちはだかる其の石組みの段差というのは、あえて来る者に問いかける。わざわざこんな処まで、本当にこんな変わり者のわたしに会うためだけにやって来たのかと。

オシャレなカフェでいつか働いてみたかったという妻に、一度は自分の打った蕎麦をぜひ人に食べさせてみたかったという夫が合わせたのか、とにかく蕎麦屋を開きたいという夫に、カフェのような雰囲気でならばと、妻が無茶を通したのか、いずれにせよ、田園の続く幹線道路から細い農道を折れ曲がり、とても飲食店があるとは思えない其の雰囲気の中、ふと気が付くと、其処に小さく看板の掲げられた、蕎麦屋らしからぬ其の蕎麦屋が立ち現れる。

其れが古民家式や民芸調の建物だというのなら、そんな蕎麦屋、むしろ今時めずらしくも何ともない。だが此処は、一見、旧い田舎の民家でありながら、その実、内装は隙のないクールな雰囲気漂うカフェなのである。何と意表を衝かれる在り方なのだろうか。

だがしかし、此れが意外なことに結構流行っているというのだから、なお驚かされる。常連客の傍若無人な老人たちから、デートで来たのであろう若いカップルまで、ポリシーの伺えるような、実はそうでもないような、此のギャップのある緩さに、多くの客が群がってくる。程々に見目麗しく、しかし其の儚い美意識を人には求めない、そんな類の存在が、むやみに人に好かれぬ訳はない。

さらには、家族連れは勿論、熟年夫婦まで其の店内にはいるのだけれど、如何せん、オペレーションがまったくなっていない。オーダーの後先は勿論、やっと空いた食卓への誘導もかなり適当で、やんわりとながら苦情が出ているのが其処此処で目に付く、其れが非常に残念ではある。

やって来た蕎麦はというと、透明感のある水気の多いもので、瑞々しいと言って言えなくないのではあるけれど、人によっては張りがないと述べる者もきっとあることだろう。冷はそこそこ好いけれど、温は正直なところ人にお勧め出来るとは言い難く、蕎麦以外のものを戴くと、良くも悪くも家庭料理的雰囲気が強く伺える。

詰まる処、やはり突出しているのは其のクールなカフェ的内装であって、ふと、意外にセンスの良いワンピースを着た、しかし内面的にはまだまだ朴訥なばかりの田舎の少女を思わせる、そんな悪くない風情の、此処は蕎麦屋なのである。

銀そば せいいちそば(蕎麦) / 亀岡)
昼総合点★★★☆☆ 3.5


ゴディバ ミーナ京都店

2015年05月22日 | 京都
「フルコースの、終わり。」

地味な内容だからこそとでも言うべき、飾られた其の包装は兎も角として、むしろチョコレイトなどというものは、姿かたちに然して差異があるという訳でもなし、もしかして其の色艶に個々の深みを見出すことも可能なのかも知れないけれども、およそ其の味わいのみが勝負な訳である。

そしてだからこそ、不思議と其の味わいというのは、何とも説明の仕様がないのだけれど、だが、やはり、違うものは違うのである。

一杯が600円強というゴディバのメインメニュウ、ショコリキサーという名の其の飲み物、やはり外見は只々焦げ茶色なだけ。

庶民感覚の持ち主であれば、間違いなく尻込みすること請け合いの其の価格ではあるけれど、600円程度の出費によって、まさか明日からの生活が困窮するという訳もなし、むしろ此の程度の価格によって其の世界における最高級品の部類をお手軽に味わえるというのであるから、其の経験値を鑑みるならば、実際のところ安いものである。

西洋料理の高級店を訪れ、暫しの間ちょっとばかり其の世界を覗いてみようとせんが為には、此の何十倍もの出費を強いられるのが通常であることを思えば、其の片鱗、デセールの味わいをファスト・フードのように嗜むことの出来る此の店舗において、実際其れだけで充分に満足感を味わうことが出来るのであるから、此れはもう、ゴディバによるひとつのマジックであるといって、過言ではない。

ゴディバ ミーナ京都店カフェ / 京都市役所前駅三条駅河原町駅

昼総合点★★★★ 4.0


れいん房

2015年01月20日 | 京都
「胸いっぱい、に。」

実際のところ其れが何であろうとも、とりあえず食べさえすれば人間腹は膨れるものである。其れは勿論のこと。不味かろうと美味かろうと、其処に物理的な差異はない。其の筈である。

だがしかし、そうは言っても、旨いものならいくらでも食べれるような気はするけれど、不味いものというのは、そう喉を通らない。其れつまり、其処はひとえに気持ちの問題な訳である、ヒトの食欲なるものは。

ところで、では何を食べれば最も心地好い満腹感を得ることができるのかということとなると、此れまた、単に美味い不味いとはまた少し違った心情を抱くのが、ヒトというものなのではなかろうか。

パンであれ、肉であれ、何であれ、美味しい料理は勿論のこと美味しく、腹いっぱいになるのではあるけれど、こと心持ち的な満腹感ということとなると、きっと米に勝るものはない。其れはひとえに個人的感想に過ぎないのであろうか。

いや、きっと、そんなことはない。日本という国で生まれ育ち、大きくなった者ならば、おそらく其の大多数というのは、其の感覚に違和感を覚えることはないであろう、おそらく、そうに違いない。

そして此処、レインボウという料理店では、定食類におけるご飯の大盛りが無料なのである。先のような深層心理に自覚的でない客までをも、否応なく満足させてしまう其のシステム、とことんまで行き届いたサービスというのは、まさに此のことを言うのであろう。
あえて大袈裟に言うならば、小振りなおひつと見紛う其の器、其処に盛りに盛られた白米は、何というか、もう見ただけで満腹感で胸がいっぱいになる、其の出で立ちである。

此の地において老舗中の老舗である此の料理店、大箱なれど其の料理に全く不足はなく、此処の調理場出身の料理人が独立したという実際も、わりに聞く。だがしかし、そんな事実があってさえ、此の店の料理における主役というのは、良い意味において、白米、其のご飯なのである。

よしんば其れが個人的感想に過ぎなかったとしてさえも、こちらの料理店、実は其の独自ともいえる脇役的料理すら、侮れない。例えば、名古屋名物、味噌とんかつと同名の其の料理、むしろ知名度にて当店を上回る名古屋のトンカツなどよりも、格段に繊細な味わい、美味にて、あえて一食の価値ありという事実も、申し副えておきたいと存じます。

れいん房和食(その他) / 吉富駅園部駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5


瀘川

2014年10月17日 | 京都
「其れを、感じよ。」

傍目には卒なく、オシャレに装い、日々悠々と営業しているかのように見える有名店であったとしても、大概の場合、其の経済的内情というのは、実は楽観的にはなれないというのが、およそ現実的な在り方で、とても庶民的とは言えない高額なメニュウを、其れに見合った名のある食器に装い、格式を以って其の内装を整え、サーブする為だけの人員すら数名抱え、手間隙のかかる凝った料理を提供していたあの店が、いつの間にか、まるでそんな料理店など最初から無かったかのように忽然と閉店してしまっていたというようなことも、此の世知辛い世の中、然程めずらしいことではない。其れは殊更に都会の繁華街でこそ、顕著な事象でさえあるだろう。

だがしかし、賑やかな喧騒とは別の処、もっと落ち着いた郊外にこそ、探し求める其れは、きっと在る。

前述の様な一見外面完璧に見える料理店、そんな華やかな処でしか、其の手の凝った料理を戴くことは不可能なのかというと、其れは些か早合点というもので、かつては一角の有名料理店で腕を磨き、間違いのない其の料理を提供していたのであろう料理人が、己の残された人生を深く見極め、人に使われるのではなく、人を使うでもなく、家族と共に地に足の着いた生活を望み、あえて個人で小さな店を構えるということも、世の中然程めずらしいことではない。

そして、明らかに此の料理店が其のような類の成り立ちなのであろうということは、どのような話を聞くまでもなく、其の料理を戴いてみればおよそ明白で、百聞は一見にしかずと同義にて、百聞は一食にしかずなのである。

瀘川中華料理 / 桂駅
夜総合点★★★★ 4.0


ユノディエール

2014年07月23日 | 京都
「既視感にも似た、其の感慨。」

果たして何処の誰がモデルなのだろうか、等身大からすると三分の一程度の、コック・コートに身を包んだ青白い顔のオヤジ。そして、彼よりもう一回り小さなマシュマロ・マンが飾られている其のショウ・ウィンドウ。彼らの間の空間に配置されている緑の観葉植物は、実はアフリカ原産の、パンの木なのだという。添えられた説明書きがなければ先ずわからない其の実際に、己が放った冗句の解説をしてしまう、センスのないコメディアンを垣間見てしまう、そんな感覚こそ、京都人特有といわれる、イケズというものなのだろう、両隣の片割れが、本当のところはヨーロッパのタイヤ・メーカーがキャラクター、ビバンダムであることも勿論のこと承知してはいるのだけれど、先ずは瞬間的に、映画ゴースト・バスターズの巨大な破壊神を連想してしまう、其れというのは、やはり単に世代的なものなのだろうか。

イケているともいないとも、ナンとも判じ難い其のショウ・ウィンドウの在り方を、吟味するともなく暫し唖然としていると、一緒に佇む妻が、はちきれそうなお腹をした妊婦だからだろうか、おめでたいことになら何にでもあやかりたいとでも思ったのだろう、ココのパンは美味しいの?と、年配の女性が声をかけてくる。あ、わたしも初めてなんです。という返事だけで、何事か、ひとり納得したように、其のオバサンは其の場を立ち去って行った。此の謎かけの如きウィンドウでは、然もありなん。

そしてしかし、店内に所狭しと並ぶ其のパンの在り様というのは、表の珍妙なショウ・ウィンドウの謎かけが腑に落ちるどころか、果たして何の統一感をも見出だすことの出来ない程の多様性である。専門性の高い特殊なパンもあれば、意外なことに、ハンバーガーや、あまりに庶民的な惣菜パン、焼きそばパンまでもが其処にある。総じてパンが大好きで、偏った好みなどないという人物ならば、其のいずれをも、一度は戴いてみたいという気にさせられること請け合いで、結局は其の大小、価格も様々に、大量のパンをいそいそとかき集め、昨年の初夏に移り住んだ、ささやかな庭のある中古住宅へと持ち帰り、ほっこりと縁側で、順次戴くこととなる。

小さな店舗に詰め込まれた、あまりに幅広く、あまりに柔軟なパンの在り方。今はまだ、世間にあまりないカタチの在り方ではあるものの、もしかすると、実は此れこそが、理想の街のパン屋さんとしての在り方なのかも知れない。と、そう思わされなくもない。そんな既視感にも似た感慨を抱かされる、奇妙な其のパン屋の佇まいであった。

ユノディエールパン / 鞍馬口駅北大路駅
昼総合点★★★★ 4.0


ひら山

2014年07月13日 | 京都
「では、また来ます。」

偶に、無性に食べたくなる。其れこそが、焼肉というものであるのか、もしくは其のような一概な作用ではなく、提供された段階で既に揉み込まれている、此の店独特の下味のせいなのか、其処のところは判然とはしないものの、やはり、ふと食べたくなるという事実に違いはなく、其れつまり、此処の焼肉は旨い。そういうことに他ならない。と、おそらくはそう判断するべきなのであろう。

其の場、其の時、此の店の焼肉を口にする度、即座に感じること。そして、すっかり平らげた後にも、やはり思わされること。其のどちらもが共通した感覚で、下味が、とても濃い。其れつまり、およそ万人にとって、少なくともいずれかの段階において、其の思いはきっと共通することであろう。と、個人的には推測されるものである。

さて、具体的に、其れがどのような感覚なのか、じっくりと、落ち着いて、自らの味覚的記憶を探ってみると、そう、其れは、昔ながらのラーメンを戴いた時、舌先に残るあの後味、まさに其れに相違ない。世間に対し、あえて審らかに断定するのは避けたいところではあるけれど、しかし其れでも、自分に嘘はつけない。己が味覚は、そうと確信している。なるほど、焼く前の生肉にあの魔法の粉を塗すのは、実は常套手段であったのか。個人的に其の認識というのは、むしろ遅過ぎたくらいである。無意識に、今の今まで其の可能性に眼を瞑っていた。其のような気がしないでもない。

他店と比べ、其の風味に隙間がないどころか、むしろ、足の踏み場もない程に己が味蕾を蹂躙されているような、其の感覚。価格以上のボリュームと相俟って、誰しもの食欲をコテンパンに屈服させてくれる印象の、此の店の焼肉。移転前のこじんまりした店舗の頃も、同じく其のような様相であったのか、既に其の記憶は薄れてしまってはいるけれど、其れは其れとして、移築し、そこそこの大箱へと転身した此の店のスタンスというのは、良くも悪くも、非常に力強さを感じさせる、不思議にまた来なくてはならないと思わせられる風情であり、味わいなのである。

焼肉と精肉のひら山焼肉 / 千代川駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5


橋政

2014年06月29日 | 京都
「骨太トンカツ。」

其れは勿論のこと比喩的表現であって、実際のところ現物の骨付きであるという訳ではない。けれど、其れでも其のトンカツは、まさに骨太であった。そう言いたくなる程に、がっしりとした、食べ応え、噛み応えのあるトンカツであった。

ジュウシィで柔らかい、そんな類のシズル感を期待されることも少なくはない、というよりは、むしろ期待されることが大勢である、所謂トンカツという料理ではあるけれど、此のトンカツは、捉え様によっては、此れはちょっと、こんがり揚がり過ぎなのではないかと訝る人がいたとして、其の感想も、わからないでもない。

あまり眼にすることのない、魅入ってしまうような分厚い肉塊の片側から、カウンターの目前にて切り分けられた其の一切れ。意外と短時間でさっと揚げられた、粗い衣に包まれた其の褐色の香ばし気な代物に、余計な汁気はおよそ感じられず、だがしかし、過度に乾いている訳では勿論ない。豚肉にしてはめずらしく、太い肉の繊維を其の食感に仄かに感じさせるのであるけれど、其れは勿論、筋の処理の問題などではない。私見ではあるものの、もしかすると此の店独自の熟成法があるのだろうか。

長時間かけて低温で揚げた、噛まずとも飲み込めてしまうようなものではない、かっちりとした、輪郭のあるトンカツ、だからこそ、絶妙な噛み応えを感じ、今しっかりと肉を食べているのだということを、あえて此処では実感することが出来る。己が内の野性を目覚めさせる、此れは、そんな類のトンカツなのだ。

漆喰の、土蔵の様な風情を感じさせる小奇麗な店舗の横手には、わりに幅の広い用水路があり、其処には何十匹もの大きな鯉が群れている。どうやら餌付けされているらしい其の鯉たちは、まさか養殖されているという訳ではないのだろうけれども、そこはかとなく、何となく、此の店の骨太なトンカツと、其の豪快さにおいて相通ずる趣を、感じさせなくもないのであった。

橋政とんかつ / 西舞鶴駅
夜総合点★★★★ 4.0


おかる

2014年05月01日 | 京都
「出汁丼。」

随分と以前のこと、知人宅の乳幼児(男児)が、兎に角、味噌汁を好み、がぶがぶと小児用カップに何杯も呑むのだと言うようなことを、何気ない雑談の中で聞き、結構驚かされたという経験がある。味噌汁などというと、一見、如何にも和風のやさしい風味であるかのように、イメージ思えなくもないのではあるけれど、実際のところ、其の料理は多分に容赦のない塩分を含んでいる。其のような飲食物を、幼児ががぶ呑みしてもよいものなのだろうかと、其の時、反射的に感じずにはおれなかったものの、知人宅には知人宅の遣り方というものがあるのだろうと己に内心言い聞かせ、一拍間をおいて、無難に「へー、そうなんや」と、言葉を濁しておきはした。

だが、其のことが今になっても、ふとした拍子に脳裏に甦り、気にかかる。やはりあの時、ちょっとひと言、否定的なニュアンスで以って、何か一家言、述べておくべきだったのではないだろうかと思い直すことが、今になってもちょくちょくある。出汁の旨味に紛れてはいるけれど、過分に摂れば、其れは決して身体に善くはないのだと、当の幼児自身に判ろう筈もない。其れは断固、周りの大人が止めなくてどうするのだと。

其のような場合と、同じことなのか、どうなのか、酒によって酩酊し、およそまともな判断力というものを消失してしまった人間というのは、たとえ大人であってさえ、呑み屋街のラーメン屋などにおいては、其の塩分たっぷりのスープを全飲してしまうことなど、少なくはないという。其れでも、ラーメンというのは高カロリー、そして高塩分の権化であるという知識、其れ故に、頭の片隅には其の危険性がちらついてはいるだろう。だが、其れが、柔和なイメージの和食であるということになった場合、其の雰囲気、そして、出汁に紛れた口当たりの好さから、明朝の体調をも構わぬ、闇雲な暴飲暴食に陥り勝ちとなること、まるで味噌汁をがぶ呑みする乳幼児の如しであるのは、言うまでもない。

何しろ、椎茸出汁の旨味たっぷりの此の丼、と言うよりも、椎茸出汁の風味、其れしか感じられない此の旨味の塊を前にして、酩酊し、今や意識朦朧となってしまった人物が、其の少なくはないであろう塩分の危険性など、意識出来よう筈もない。

あまりにも商品の回転が早過ぎるのであろう、まだしっとりと馴染み切ってはおらず、まるで、良くも悪くも学生食堂で供される丼物のような風味の此の店の料理が、アルコールを嗜むことなく、素面で戴いた場合、旨いのか、不味いのか、むしろ、取り立てて、どうということもない、ありきたりなものなのか、其のようなことは、平らげたという満足感、其れさえ味わわせてもらえるならば、宵の祇園を幼児のような千鳥足で彷徨う酔っ払いにとっては、全く以って、どうでもいいことなのであろう。

おかるうどん / 祇園四条駅河原町駅三条京阪駅
夜総合点★★★☆☆ 3.5


白碗竹快樓 祇園店

2014年04月12日 | 京都
「スペシャリテ。」

正直、フカヒレというものに関して然程詳しいという訳ではない。だから勿論のこと、特段、其れを好物にしているという訳でもない。だがしかし、其のような実際であってさえ、フカヒレという食材に特化した此の店に興味が湧いた其の理由というのは、具体的な知識などないのではあるのだけれど、何も此処が、フカヒレ、其れだけが売りの料理店ではないという直感のようなもの、素材が何であるかにかかわらず、きっと旨い料理を提供してくれるに違いないと思わせる、其の風情に惹き付けられた。曖昧ながら、いつも、そのような大雑把な読みでしかないのが実際なのである。

ともあれ、其の読みと期待は予想通り、運良く外れることもなく、炒り玉子に混ぜ込まれた、解した蟹身たっぷりの餡で覆われた其の炒飯は、もし、其のとろみのある餡が載せられていなかったとしてさえも、絶妙な炒め具合、そして風味の炒飯であろうことが充分に感じられる出来であり、そして、もう一品、食べ応えのある、厚めの皮の小龍包の具合はといえば、内部に閉じ込められた、たっぷりのスープが、冷めることなく、いつまでも熱々なのである。

とはいえ、やはり、結局のところ特筆すべきなのは、其のフカヒレ料理であるのは勿論のことで、いつもながらの貧乏性の性、其れ故に、結果、同じ風味であるならば、より安価であれば尚好しと、尾鰭とも胸鰭とも、何ともつかぬ、微塵にされて姿のないフカヒレを、ラーメン・スープの具材として戴いたのであるけれど、此の場合は勿論のこと、麺が主役ではなく、其のスープこそが真骨頂なのであって、ただ甘辛いというだけでは到底言葉に尽くせぬものながら、しかし、さりとてどのように表現すれば事足りるのか、ちょっとわからない。其のような深みのあるスープを、余すところなく飲み干さずにはいられない。しかも、ゆっくり飲み干してしまうに、まったく無理のない、やさしく、まろやかな風味なのである。

つまり此処は、おそらくは、どの料理も勿論のこと美味しいのではあるけれど、其れ以外の料理を戴く内は、まずまずの出来だと余裕を持って食していたであろう各々方も、ことフカヒレ料理に至っては、何と表現してよいのか、己が内の味覚的ボキャブラリーを探りつつ、しかし其れを見出だすことは叶わず、やはり無言で唸らざるを得ない。其のような風情の、所謂、必殺技を身に付けた料理店であると、あえて述べるべき在り様なのである。

白碗竹快樓 祇園店中華料理 / 祇園四条駅三条駅三条京阪駅
昼総合点★★★★ 4.0


雪ノ下 京都本店

2014年03月30日 | 京都
「フォトジェニック。」

昨今は、とかく「軽い」ことが評価され、持て囃される風潮のようである。と、おそらくは、いつの時代も其のような傾向を善しとしない、偏屈な者は世を嘆いていたのであろうと、少なからず思われるのではあるけれど、其れでもやはり、其の「軽さ」というものが、所謂「若さ」に由来するものだと、そこはかとなく感じられてしまうからには、あえて、やはり、「昨今は」と、ぼやかざるを得ない。もう若くはない者としては、其れを時代のせいだと感じざるを得ない訳である。

其の評判のパンケーキというのは、確かに見栄えがする。分厚い生地の上に大粒の苺、さらには真っ白なホイップ・クリーム。そして、説得力のある、生真面目な売り文句にて、此れがそうです。と、説き伏せられれば、やはり其れは特別なものに違いないと思わない訳には行かない、此れぞまさに、期待感というべきものなのだろう。

そして実際に戴いてみた其のパンケーキというのは、あまりにも軽い、ふわふわの食感である。

確かに嵩はあるのだけれど、其の生地の密度というのは、此れまでになく希薄であって、其れは其れで、そういった面こそ特殊であると言い得るのだろう。ただ、質の高い濃厚な甘さ、そして、程好い食べ応えを期待していたという向きには、結果、少々食い足りないであろうこと請け合いで、あえて其の実際を良く言ってみたとするならば、直前の昼食にて満腹の状態になっていてさえ、此の分厚く嵩の高いパンケーキは、意外と其の胃袋の隙間に無理なく収めてしまうことも可能である。其れ程に、存在が「軽い」のである。だがしかし、其のお代はといえば、軽めのランチ一食分と言って、そう過言ではない。名は体を現す。此のパンケーキは、其の店名のように、とても儚い食べ物ではある。

取り立てて、じっくりと腰を据えられるような設えではなく、さらには変則的な土禁システムであることなど、何かと注文の多い此の料理店、あえて言うのなら、条件的には、やはり観光旅行時の連食などには、もってこいなのではないだろうか。

雪ノ下 京都本店パンケーキ / 二条城前駅烏丸御池駅大宮駅
昼総合点★★★☆☆ 3.5