カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

日本アパッチ族/小松 左京

2010年08月30日 | 日記
SF、というのは、パラレル・ワールドを描いたモノである。
ソレは、可能性、であって、寓話、でもある。

この世界では、コテコテの大阪を舞台にして、「鉄」を食わざるを得なくなった人々が、その体質までもが変化して、新人類へと進化を遂げる。

モチロン、鉄など食わずに済めば、その方がいいワケで、貧困、差別、隔離、そのような仕打ちを社会から受けた人々が、食う物がなく、否応なく鉄を食うようになる、という成り行きである。
モチロンそれが、現実に照らし合わせれば、経済的に恵まれない者、被差別、レッテルを貼られた者、日本人と認められない者などを、SF的に、象徴的に表現したモノであるコトは、考えるまでもない。

だが彼らは、恵まれないソレ故に、社会的に失うモノもなく、否応なくではあるが、悠々と、人類の次の世代へと進化して行く。
経済的に恵まれている者や、今ある立場を始め、守る物が多い者、過去や歴史に固執する者は、急ぎ別の自分に成る必要にも迫られず、成り行き次の段階へとは進めずに、新人類に世界を明け渡す状況となる。

ソレは、人類史上、ではわかり難いが、地球上のこれまでの生物史に照らし合わせれば、当然の事、ごく自然な成り行きである。

このように書くと、非常にシリアスなようではあるが、物語の中での、戦いの一節を抜粋すると、こうである。
「ミサイルだんな」とその男はつぶやいた。
「空対地ロケットですわ」と私は答えた。
「あないやっとったら、おもしろいだっしゃろな」と彼は溜息をついた。
「うちのヨメはんにも二、三発ぶちこんでくれへんかいな」
と、この調子である。

今、恵まれている者は、後は滅びるしかなく、今、恵まれていない者は、恵まれた未来を手に入れる。
まるでドコカの宗教の教えのようではないであろうか、科学の証明する自然の成り行きというモノは。

宝楽

2010年08月27日 | 兵庫
「思い出の中に欲しい中華料理店。」

これだけ料理が美味しくて、しかもここまで一品のボリュームがあれば、もう何も言う事はありません、脱帽です。

新開地とはいえ、然程雑然とした街角にあるというわけではないこのお店、程々の大通りに面したその外観は、正直、良い塩梅に草臥れています。
ある意味、予想を上回る、いや、下回る?何と言っていいか、予想外に当たり前の雰囲気でした、本当に味の方は大丈夫なのだろうか、と思うくらいに。
前以ってお料理の評判を知らなければ、まさか余所者が飛び込みで入店する事は、まずないお店でしょう、余程の物好きでもない限りは。
そういう意味でも、ここは本来、地元の方の為にある、地元の方によるお店なのであろう事、それを重々認識したその上で、心して寄せていただきたいものです、謙虚な気持ちを忘れずに。

「大エビニンニク炒め」
普段どのような料理でも、海老の尻尾は食べない主義なのですが、流石にこのお料理だけは、むしろ食べたい、海老の尻尾まで、という気にさえさせる、その完成度の高いルックス、そして勿論、その期待を裏切らない旨さです。
一応は、海老の殻入れを持ってきていただけるのですが、それも必要ありません。
実は、身の部分にも殻が付いたそのままで、開かれ、炒められているのですが、それをそのまま丸ごとバリバリといただいてこそ、このお料理の真髄を味わえるのではないでしょうか、実際。

「青菜炒め」
これでもか、というくらいに、青菜が入っています。
食べても食べても減りません。
炒め具合も抜群で、シャキシャキと歯応えも良いのですが、とにかく減りません。
豚肉も惜し気もなく、いったい原価というものがどうなっているのか、代金を取ってはいても、もしそれが右から左の金額ならば、それはもうボランティアと言っていい仕事である、そう言い得るでしょう、実際のところ。
提供する側からすれば、昔から自分がお世話になっている人たち、そしてこれからもお願いいたします、というような気持ち、それがなければ、到底出来る仕事ではありません。

そして、「餃子」に「ワンタン麺」、「天津飯」、一品一品が、味、そして量も充実していて、こんな品数を、まさか、ふたりで食べ切れるワケはありません、欲張り過ぎです、言うまでもなく。
でも、そこは食べ切りました、このお店に敬意を表して、それが余所者が遵守すべき、せめてもの礼儀というものです。

満員の狭い店内、有り体に言って、ガラが良いとは言い難いヲジサマ方が、絶品中華を肴にジョッキを呷り付け、更にその宴が大人しいと思えるほどの喧騒で、仕事帰り、近所のメガバンクのサラリーマンたちが、男女を問わず奇声を上げています。
後半、欲張って注文した当然の報い、自業自得で胸、そして腹がいっぱいいっぱいの身にすれば、それはまるで地獄絵図のようではありましたが、それがこのお店にとっての常連サン、その顔触れです。
そんな仲間に入りたいとは、露程にも思いません、それでも、この街で生まれ育つのも悪くないな、一見の客にそう思わせるのも、このお店の持つチカラ、美味しいものが人を惹き付ける凄さだと、満足感でいっぱいになった胸、そして腹を抱えながら思うのです、本当に。

味苑

2010年08月22日 | 京都
「ゆめゆめ軽視、するなかれ。」

素晴らしく刺激的な諸々の料理に埋もれ、主役を張れない、だからといって、中華料理店のラーメンが、ラーメン専門店のそれを凌駕しないなどと、何処の誰が言い切れるでしょうか。

言ってしまえば、旨いものの何たるかを知る料理人の作る料理、それは、何でも旨い。
節操が無いようでいて、これは意外と事実であります。

例えば、ある面においては関西随一との評価を受けるとあるパン専門店、店主のブログなどを拝見していると、やはり行く行くは、トータルに料理を提供できるお店を考えておられるのであろう、その様に窺えます。
それが現時点で、出来る出来ないというのは、色んな意味で謙遜してはおられるけれども、単に物理的経済的な問題であって、実際パン以外のものを作らせても、彼個人のそのレベルが、現状あるパンの出来を下回るなどとは、到底思えません。

で、それとは逆のパターンではありますが、話を戻しますと、ここ味苑の麺類のお話、坦々麺は勿論の事、何度かいただいているジャージャー麺、これは侮れません。
例えれば・・・と言いたいところですが、他店で例えるものがない、というのが実情。
甘辛く肉々しい、ソボロたっぷりのラーメン、スープは甘口と辛口で選択できます。
どちらもいただきましたが、そう極端に、風味に差はありません、旨味が勝ちます。
その風味、あえて言えば、肉骨茶のよう、何とも説明できません。

こちらのお店、カウンター席もありますので、ラーメンを一杯だけ、という方も、抵抗なく入れます。
世の中にある、色んな旨いラーメンを食べ尽くし、味わいたいとお考えのアナタ、ココは外せないお店である、そう思いますよ、実際。

ぜひとも独立したひとつの料理、いちラーメンとして、ラヲタ、麺ヲタの方に、食してみていただきたいトコロです。

かぶらや

2010年08月16日 | 兵庫
「蕎麦屋を謳うなら。」

当日、お昼の営業時間終了間際に寄せていただき、おそらくは丁度表の看板を準備中にされた時であったと思います。
一応はと覗かせていただいた、常連でもない一見の客に、親切にも嫌な顔ひとつせず、お蕎麦をご提供いただき、流石個人店で誠実にご商売されている方は違うなと感心した次第であります。

同じようなお料理、そして同じようなキャパシティを持つお店を営業しておられる場合でも、例えばそれが大きな資本の下で、そこそこ守られ、たとえその店舗が赤字でも、他の事業からの補填で何とかなるというような経営の実態と、何の後ろ盾もない状態から、料理の腕一本、身一つで融資を受け、それを返済しながらお店の全てを回している、そのような状態に、その切実さにおいて雲泥の差があるのは言わずもがなの事で、例えば、だから余裕がなくて接客に身が入らない、料理に集中できないというような事が不幸にもあったとしても、同情はすれどもそれを責めるような気持ちになる事は、およそ個人的にはありません。

勿論何にでも例外はあり、このお店の本当の経営状況がそのようなものであるのか、一見でしかない身には知る由もありません。
銀行から融資を受けてお店が存在しているのであれば、経済理論的には、それが完全に返済されるまでは、そのお店は銀行の物であり、さらに民間の銀行に融資している日本銀行の物であり、その日本銀行の株保有率は大きな割合で欧米人のものであり、などというような、日本で暮らし骨を埋めるしかない者の一人としては、げっそりして生きる意欲も無くしてしまうというような、そこまでの現実はともかく、基本的な世の中の仕組みとして、大まかにそのような事情のある可能性は、個人で頑張っておられるお店を訪れる、その時は、誰であっても、いつも心の片隅に置いておきたいものです。

勿論、チェーン展開しているようなお店の店長、従業員であっても、その立場で出来る限りの仕事を自分に課し、真面目という以上の働きをしている、そういう奇特な方がおられる場合も稀にあり、何事も一概には言えないのではありますが、ただ、いずれにせよ、実際もしそうであったとしても、例えばその時に求めている、ほぼ同じレベルのお料理、サービスが受けられるという事であれば、個人的には一食でも多く、本当の意味での誠実さ、そして切実さを以って、日々努力しておられるであろう、個人の経営しておられる、そして、出来れば経営者その方が料理を手掛けておられる、そのようなお店で食事させていただき、それが、まるで税金のようであるというわけではありませんが、どこに流れて行くのかわからない自分の支払いに釈然としない、そのような気持ちを抱くような事も無く、身銭を切らせていただき、顔の見える相手に対して対価を払い感謝したい、そのように心掛けておるのが、個人的には常であります。

ところで話の毛色は少々変わりますが、その対象が、人に認められる要素として最も重要なのは、バランス、ひとえにその感覚であると、個人的には考えます。
たとえ何かが突出して良かったとしても、その事によってバランスを失っている姿というのは、トータルとして良し、というふうには、人に判断してはもらえない、そのような傾向は、実際、どのような世界の話であれ、大なり小なりそのようなものであり、逆に言えば、そこにバランス、それさえあれば、それは紛う方なき美と成り得る。
おそらく、そうなのです。

例えばこちらのお蕎麦、基本的な出来は、とても良い、と思います。
実際、麺の太さにばらつきがあったりするのも、個人的には、微笑ましい、基本的に美味しい、そう感じられれば、それもむしろ好感が持てる、そう言ってもいいでしょう。
手作りである事に対するこだわりは充分に感じられ、料理人さんご本人もそれは充分に自認し、誇りを持っておられるご様子が、店内のそこここから窺う事が出来ます。
そう自負するに充分見合った蕎麦そのものであると思いますし、実際いただいたお料理の中でも、鴨のセイロは、基本的な素材と出汁の旨味、そして蕎麦の風味も仄かに感じられる、程好い出来でありました。
単純にこのお料理であれば、当店の地力を存分に感じる事が出来ます。

ただ、少し引っ掛かったのは、いただいたもう一品、胡椒蕎麦と名付けられていた、そのお料理、正直、蕎麦としての風味は、麺、出汁、ともに、全く感じる事は出来ませんでした。
あえて言ってしまえば、ここまで胡椒の風味、いや、もう風味と言うより単なる辛味を効かすのであれば、蕎麦も出汁も、手打ちであろうがなかろうが、本格的であろうがなかろうが、コストにいくらかかっていようが、全く関係ありません、正直、ベースが駅の立ち食い蕎麦であっても、最終的な出来に大差はないでしょう。

例えば別のジャンルのお料理ではありますが、オ・ガラージュやニシタニのようなフレンチでは、普通には料理人の知識のない人間では思いも寄らない組み合わせの食材で、その2つを同時に食べてこそ生まれる驚きの風味というものが、実際に存在する訳です、料理という同じ土俵の世界、世の中では。
例えば具体的に、ほとんど生のままの貝と苺、そしてそれを繋ぐためのソース、例えば、ソースがなかったとしても、生ハムとメロン、そのような料理は、いかに奇を衒っているように見えたとしても、本当の中身があります。
その手の料理の美味しさというのは、そのような外見面での意外性がありながらも、あくまで風味に親和性あってのもの、そこに在るのは、言うまでもなくバランスです。
蕎麦と胡椒、どちらもが、それぞれに美味しい。
しかし、見栄えや奇抜さを重視するあまり、面白いからといって、それらが同じ器に盛ってあったとしても、結局はその食材の各々を別々に食べるしかないようなお料理は、これ、見掛け倒しといっていいでしょう。
更に言うのなら、素材に形のあるトッピングという訳ではない胡椒の場合、勿論、分けたくとも分けることすら叶いません。

それはそれで、お店を目立たせるため、宣伝の為の目玉商品として、必要な事であるかのように、経営者の視点としては思える、そうなのかもしれません。
しかし、蕎麦が好きだと自認する、そのような人間が蕎麦屋に求めているもの、それは、そのような物などではなく、あくまで味や食感のバランスを考え、吟味し、蕎麦を打ち、料理するその人、料理人である本人が本当に食べたいと思う蕎麦料理、そのようなものであって、それを提供する事、それがひとえに、蕎麦屋を名乗るお店の本分であり、珍しいもの好きな一見さんを相手にするような商売などではなく、このお店の蕎麦の持つ本来の旨さを更に引き出すような調理法以外には手を出さない、蕎麦屋としての評判の足を引っ張る可能性のある、おふざけと感じられるような料理を提供するような事は、極力控える、というのが、本当の真剣というものであり、誠実さなのではないであろうかという考えが、何のリスクも背負うことなく、ただ一見客として蕎麦を食べに来ただけ人間の脳裏を、ふと、かすめたのではありました。

例えば、同じく蕎麦屋のそばの花のように、ひと手間掛けて、更に蕎麦の風味を増す結果を生む、意外な調理法として、蕎麦がきを揚げてみる、というのもよし、さくら屋のように、最高の蕎麦で最高の出汁というのではなくとも、最高の卵とじ蕎麦を目指し、何度も何度も同じ料理を、別のバランスで作って試行錯誤してみるもよし。

蕎麦に過剰に胡椒をかけたリ、そのままのトマトを載せたりするのは、蕎麦そのものがお店の柱となり、嫌というほど蕎麦を打って、麺の細さにムラが出来なくなったその時でも、遅くはないのではなかろうかと、料理の素人でさえ、そのようなお節介な気持ちを抱いてしまうのは、この、洋食、洋菓子の充実ぶりと比較して、今のところ知る限りでは、麺類不毛の地とも思える、テナント料も馬鹿にならないであろう芦屋というこの地域で、今だから何とかなっているというのではなく、末永く一角の蕎麦屋として認知されていく、その為には、やはり本道を極めるのが、何より先なのではないのかという思いから。
そうなのでは、あります。

いやしかし、蕎麦打ちが極まったその時には、もしかすると、あらゆる面でもう蕎麦にトッピングが必要ではない状態になっている、そうなのかもしれませんね。
そうだとしたら、いま在るイレギュラーな商品というのは、お店が若い事の証し、若いから出来る挑戦、遊び、余興であって、客の立場からしても、食べてみるのなら今の内であると、そこまで先を見越した上で、今の状態があるというのならば、それはある意味、ある面では先見の明、勿論、一見の客にとやかく言われ、蕎麦屋として真剣であると認知されるには、並び立つ事などあり得ない料理の存在も、再考する必要など、毛頭ない、そういう訳ですよね、当然の事。

マ・メゾン

2010年08月10日 | 京都
「海の帰りの小さな森。」

単なる巡り合わせ、そうなのかも知れません。

例年、海水浴といえば琴引浜で、その帰り、街道沿いの一箇所に、真夏のこともあり、重い程に鬱蒼と繁った木々に覆われた、小さな森そのもののような建物が、いつも目に付いていたのです。

ある年、その建物が何なのか、どうにも気に掛かり、いちいち車から降りてゆっくりと眺め上げてみたのですが、どうやら人の気配もなく、生きた建物というよりは、過疎の街には少なくない、人の手を離れ、その一角だけが、すっかり自然に回帰してしまった地所、そのように思えたものでした。

その後、多くて年に一度、通れば気にかかるその薄暗い森に、意外にも、今年は何と、どうやら灯が燈っているようなのです。
そんな期待も抱いてはおらず、街道を少し通り過ぎてしまったものの、この機を逃す手はないと引き返し、よくよく見れば、やはり何らかの飲食店ではある様子。
道沿いの、高い所に掲げられた大きめの看板、それにも蔦が絡まり、ライトアップされているのにもかかわらず、文字は全く判読できません、まさか「山猫軒」、というわけではなさそうですが。

道中、アカシア・ファームで、もたもたと塩バニラのソフトを堪能していて、既に心持ち陽も傾き、空模様が少し怪しくなってきたこともあって、少々薄気味の悪い雰囲気である事は否めません。
入ってみて、運が悪くとも、ただの鄙びた旧い喫茶店、それ以上のことはあるまいと、おそるおそる店の扉まで行ってみると、意外に、明朗な雰囲気のようでもあります。
ただ、それがまた怪しい、奇妙な愛想で誘われている、そう思えなくもないのですが。

入ってみると、そこは穴蔵のような薄暗さ、誇張なく、ほの明るい間接照明に照らされたその店内は、俗っぽい言い方ではありますが、まるでお伽の国のアトラクションのようです。
所狭しと飾り立てられている小物の数々は、よくよく見ると、どれもセンスが良くて可愛らしく、放置されて埃を被っているというのでもなく、まま必然性のある、そのようなものばかり、外観から抱いていた印象、鄙びたイメージと比べると、何だかちょっと意外すぎて、どこか化かされているような、そんな気分です。

戸外とは違い、冷やりとした空気、あまり人の居ない店内の奥の席には、リザーブの札があり、突き当たりに窓があるべきその場所には、まだ陽があるはずなのに、外の光はありません。
それもそのはず、おそらくその窓のあるべき場所は、蔦が密集していたであろう壁、もう何年も開かれたことのない窓であろうに違いありません。

そのような雰囲気ではあるけれども、意外なことに、料理メニューは相当の品数で、正直、選択肢が多過ぎるくらい、かなり迷います。

注文を取りに来た女の子は、店内の装飾に相応しく、お人形のように可愛らしいのですが、ニッコリしつつも物怖じする様子なく、お料理をテーブルに置く際にも、ドスンと音を立てて置きます。
そして、ふと見上げ、目が合った彼女の顔は!・・・ニッコリ、こちらもつられて、呆けたようにニッコリ、薄暗い灯りの中で、妙な雰囲気、何やら少々胸騒ぎがします。
彼女、愛想は良いけれど、それはお客のための愛想ではない、そんな印象ではあります。

そのようにしてテーブルにやってきた、「マ・メゾン風」と称するラザニア、何故か、どんぶりのような器に盛られています。
頸を傾げつつ、ナイフとフォークで切り分けてみると!中からは、完全なる麺状の物体が出てきました!
笑うというより呆然としつつ、おそらくこれが、この店ではラザニアと言うのだと、納得せざるを得ないこの店内の空気。

そしてハンバーグ、かなり期待させるルックスの褐色のデミ・ソース、なのにそれが、絶妙に、可もなく不可もない風味、色んな意味でギリギリの所であると言っていいでしょう。
それは、ラザニアと称する麺状のパスタにも言える事で、昼間に食べたヴッチリア・ダ・カテラのパスタが絶品だったから、それと比較してそう思える、というわけでは決してありません。

どちらの料理に関しても、文句は言えない、しかし、腹は膨れるが旨いとも何とも言えない、正直、辛いところです。
果たしてここに、率先して自分の為に料理を食べに来ているのか、逆に、とある理由で、食べて太らされる、そのようなことの為に来ているのか、そんなお話を連想してしまう自分が、どうしても居ます。

そういえば、店内に入ってすぐ、先客である一組のカップルがそそくさと退去し、見える範疇ではワレワレ一客のみとなっていた店内に、しばらく後、3人組の若い体育会系男子が入ってきました。
この店内に似つかわしくない、和気藹々とした中身のない会話を、当初、大声で交し合っていた、その彼ら、ニッコリの彼女と対峙し、少し言葉を交わしたその後は、あからさまにトーンを落とし、心持ちうな垂れた様子です。

ワレワレは、そそくさと食事を片付け、ニッコリの彼女に、そしてお店の雰囲気に呑まれたらしい彼らを残し、早々に席を立って退去しました。

そのように、無事お店を出て、もういちど少し周りを見てみたいと思ったその時、空から大きな雨粒がボタボタと音を立てつつ、それが意図的な爆撃ででもあるかのように、降り注いできました、まるで、この場から早く立ち去れと言わんばかりに。
じっくり見てみたい気持ちと、日が落ちる前に、何としてもこの場を去れという、その天からの声の板ばさみになり、後ろ髪引かれつつ、その場を離れたのではありましたが、再び灯りの燈ったこの建物に巡り合う、そんな事は、もう二度とないのではないか、そのような気も、しないでもないのです。

かの子繚乱/瀬戸内 晴美

2010年08月10日 | 日記
寂聴には関心なけれど、岡本かの子に関心アリ。

正直、この本自体は、読み物として、悪い意味で混乱している。
文章の視点、成り立ちが一定せず、ちぐはぐなので、その気で読んでも感情移入出来ないという欠点がある。

ただ、描かれている岡本かの子その人のニュアンスは、非常によくわかり、常識に捕らわれないその生き様も、それあってこその彼女の作品であろうという事は、疑いようもない。

本作の著者に対して抱くイメージは、女性性を売りにしているという域を超えるものではない。
だが、かの子その人というのは、岡本一平と二人三脚で、完全にそれを超越し、人間の普遍性に達した作品を書いている。

そして更に、岡本太郎という、芸術家としての在り方を、幼少の頃から骨の髄まで叩き込まれたサラブレッドも、この夫婦の子供である事が、何よりも大きな成功の要素であったであろう事、それも、疑いようはない。

死霊/埴谷 雄高

2010年08月05日 | 日記
例えば、マイルス・デイビスの喇叭のナニがスゴイのか?

ソレを言うのであれば、その一音節に収まっているフレーズの数が尋常ではない、
そう言われるコトは、稀ではない。

ある種ソレと同じように、通常の小説の中で一節に収まるべき文章が、埴谷の小説では3倍、
イヤそれ以上、5倍もの量で、延々と物語られている、そのような状況のようである。

マイルスの音楽が好みかどうか?

ソレは自分でもワカラナイ、ガ、大きな意味、価値のあるモノであることに、疑いはない。
そして本作にも、同じコトが言える。

そう、ある意味、これ以上に知的な読み物は、世に存在せず、読後もその思いに、変わりはナイ。

新福菜館 三条店

2010年08月01日 | 京都
「青は藍より出でて藍より青し。」

ラーメンとは・・・自分にとってナンなのか?カゲロウは、胸に手を当て、訊いてみた。

すると、掌より少し下、胃の方から、応えがあった。
「汁物ナンと、違いマスカ」
「・・・アンタには尋ねてへんけど・・・名前は?」
「トンボ、デス」
「トンボ?胃に名前が?・・・汁物?ふむ、ま、確かに、そういう心当たりは、ないコトもない」

カゲロウは少し考えてみた。
特にココ、新福菜館で食べるラーメンは、むしろ焼き飯を味わう為にあると言っていい、事実そういう存在であった、少なくとも彼、個人的には。
そしてココ最近、彼にとって、ラーメンと言えば、専ら新福、である。
それ即ち、ラーメン、イコール、汁物と言って間違いはないであろう、あくまで彼にとっては。

だが、かと言ってココの、麺が駄目というのでは勿論なく、昔ながらの、これぞラーメン、というストレート麺は、溜飲に勢いがつく上に、食べ応えも存分にある。
何故に勢いがつくかと言えば、吸水率の高いその麺が、時間が経つに連れドンドン太くなり、一部地方で言う所の、「ドンドンになる」と言う状態に陥ってしまう、そのためでもある。
そして更に言えば、勢いのつく麺の溜飲、それが故、咀嚼に足る焼き飯が必要となる、それも成り行きなのかもしれない。

「トンボ・・・サン?新福菜館では、ココがイチバンって、ホンマか?」
「そうらしい、デスネ」
「ウン、それもわからんでもないな」

ある意味、極みであり、言うまでもなく原点である本店に比べ、ココ三条店は、全般に、より練れている、そういう印象は、ある。
度を越えた濃口醤油の色と風味、新福の、それが売りではあるものの、食べ方を知らない一見サンには、受け入れ難いと評される事もしばしば、ままある、真っ黒な新福のラーメン出汁。
ある意味それに反して、良い意味でも悪い意味でも、本店以上に一般受けするであろう、馴染んだ風合いを持つココ三条店のスープ。
その出来は、反メジャー的な性分、その嫌いの幾分かあるカゲロウにあっては不思議な事ではあるが、そう印象は悪くない。
おそらく、本当の旨さ、それは、結局、全ての云々を凌駕する説得力を持つ、そういうコトなのだ。

「そやな、何事も元祖がイチバンっちゅうのは、実は根拠のない話やもんな」
「仰る通りデ」
「天一にしても、お祭り気分で、というんなら未だしも、それが頂点や思て、ホンキで本店詣でとかしてたりすんの、ちょっとアレやしなぁ」
「・・・桂の五条がイチバン濃い、デスナ」
「市内の外れで不便やから、全国区では無視されとるな、実際」
「行くのに都合の悪い店は、無視、デスナ、マニア自認のミナサン」
「ま、そんなモンやろ、ラーメンに限らず、何でも、な」

「しかし、カゲロウサン、ちなみに天一は、ラーメンやない、デスナ」
「ウン、そらそや!ラーメン食おう!言うて、天一には行かんし、天一食おう!思てて、他のラーメンで満足するコト、まずないしなぁ」
「ま、天一は、ココと違って、人生のある時期ダケ、無性に食べたくなる、ソレが実際、デスケド、ネ」
「ホンマ、そうかもなぁ・・・それにしても話が合うな、トンボクン、とやら?」
「ソレはもう、一心同体、デスカラ」
「・・・そうかぁ、単なる夜中の独り言か、コレは・・・身も蓋もない、なぁ」

目を開けても真っ暗な闇の中、カゲロウは誰と語るでもなく、独り無言であった。