カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

らぁめん古丹

2010年11月29日 | 京都
「○まろ、らぁめん。」

自分の望む、何かが足りなくて失笑するか、もしくは、どこか行き過ぎていて苦笑するか、そのような事の多い、ラーメンの専門店。
その足りないところに愛おしさを見い出すとか、行き過ぎたところに先鋭的な魅力を感じるとか、それもわからない事もないけれど、どちらもちょっと、落ち着かない、そんな気持ちになるのは、あまりにも保守的過ぎるのでしょうか。

都会の繁華街、そこにある多くのラーメン専門店は、いささか頑張り過ぎていて、寄せていただくのに覚悟が要るというか、何というか。
お店によっては、昨今、あまりにも太く頑丈な麺に、物理的に悪戦苦闘する、そのような事も、無きにしも非ず、しばしば。
ラーメンは、楽に、気張らず、ほっこり食べたい、そんな時にこそ、最良の選択肢。

此処、綾部にあるらぁめん古丹は、それが良いのか悪いのか、夜などは特に、家族連れなどで賑わう、ある意味、専門店らしからぬラーメン屋さん。
車で少し走れば、もっと大きなファミリーレストランなども、近くにありはするのだけれど、それでもあえて、このお店に来る家族。
味が確かで、座敷があって。

雰囲気的な程好い緩さと、お店の姿勢を譲らない、基本メニュー、ラーメンのみの専門性。
絶妙とまでは言わないけれど、硬軟程好くバランスのとれた、良いお店。

白まろ、黒まろ、赤まろ、まろやか過ぎる程に、まろやかなスープ。
頑張り過ぎな程に頑張っているラーメン屋さん、それらのお店程にハッキリとは、どこが良いとは言えないけれど、悪いところは、どこにもない。

一度食べると、次に同じ道を通るその時には、何となく自然と吸い込まれる、いつも、そんな気のするラーメン屋さん、ですね、此処は。

阿み彦 梅田店

2010年11月25日 | 大阪
「その作家、多くは語らず。」

人間、ふと閃く瞬間というのがある。

それが、ひとり湯船に浸かって放心しているその時であるというのは、当たり前過ぎて、面白くも何ともないというのが、カゲロウのよくある実際ではあったが、風呂などシャワーだけで充分であるなどという、合理性一辺倒、そんな人生を送っているという人が、もしいるとしたら、あえて述べよう、それほど愚かな事はない、そんなに生き急いでいては、止まる事で見えるもの、それすら見えない、ひたすら死に向かって、ただただ生きている、そのような道行きでしかない、しかも人生、予定通りに行かない事の方が大半で、急いだからといって良い結果が待っているなどと、ゆめゆめ期待してはならない、おそらく、そうなのだ。

作家、池波正太郎の書き物にも登場する、お初天神北側の此処、阿み彦。
何しろシュウマイが名物の、そのお店であるが、少し気を付けた方が良い、そういう事もある。
新メニューと記された、名物セットなるものを注文すると、先ず、シュウマイ、そして、スープに浸かったシュウマイ、さらに、ワンタンの浸かったスープが付いてくる。
つまり、およそ、どんぶり鉢と言っていい器に、2杯分のスープ、それを、一食で戴く事になる。
そのセットの存在、それが先ず謎なのではあるが、こちらのご主人は、内容、その旨、予め、ご丁寧にも説明してくれる。
おそらく、適当に注文し、やって来た、その予想外のどんぶり2杯分のスープに驚きを隠せないという人が、日夜、続出しているのであろう、カゲロウは、そう推測する。
ふむ、なるほど、ご主人の示唆される通り、その愚は避けるのが賢明である。
そして再び、もう一度、脳内で問う、しかし、なら、何故そのようなメニューが、わざわざセットとして存在するのか?

ちなみに、後日、風呂場で閃いたのは、それが何故なのかという、その根本的な謎に対する合点ではない、それは、今以って謎である、残念ながら。

そして、店主の忠告を参考に、メニューを吟味し、その日、選んだのが、シュウマイと、ワンタンの入ったスープのセットであった。
先ずは、非常にクリーミーな、まろやかに過ぎると言っていいくらいの、白いスープをちょっと啜り、喉を慣らしてから、そのゴツイ感じのシュウマイに、さて取り掛かる。
厚い皮を手で捻っただけの、味のある、ひとつひとつが違うカタチをしたシュウマイ。
表面は芳ばしいくらいにパリッとしていて、先ずその食感が来る。
そして厚い皮のもっちりした感覚と、然程多くはない具の食感、それを同時に感じる。
それとなく視線を落とし、箸の先に残る部分の中身を確認し、その同一的食感、然もありなんと、納得する。

帰って後、池波正太郎氏の記述を確認すると、料理の外見はともかく、風味に関しては詳細には言及せず、お店のご主人の人柄について、好意的に述べるばかり、流石、一流の作家は、何かしら上手い事、お店を誉めるものである。

さらに、スープに浸ったワンタンに取りかかると、こちらも、もっちりとしていて、具と皮が口中で渾然一体化する感覚を覚える。
その時は、その後のイベントまであまり時間もなく、少々急いでいた事もあり、このシュウマイとワンタン、ちょっと似ているな、そう思った程度であった。

その後、人と会い、音楽を楽しみ、自身は呑んでもいないのに、呑んでる人と変わらぬテンションで会話を楽しんで、相も変わらず遅くに家路に着き、休息したと言える程の間も寝ずに、日中の仕事をこなして、その夜、いつも以上に湯船で放心しつつ、カゲロウは、閃いた。

あのシュウマイと、ワンタンは、同じものだったのではあるまいか。
ワンタンに焼き目を付けたもの、それがあのお店のシュウマイ、そうなのか。
そう、常日頃、思ってはいたのだ、餃子にシュウマイ、それにワンタン、その別というのは、厳密にはあったとしても、実際のところ、中身も皮も、基本、同じなんではないのか、と。

勿論、大枠のカテゴリーとして、それらは全て、点心と呼ばれるものである、その事は分かっているが、シュウマイのような形状のものを、餃子と称して出すお店、餃子のカタチをしてはいるけれど、シュウマイであるかのように、ニンニクや、韮の風味の効いていない餃子、そして此処は、ワンタンを焼いただけで、シュウマイと称している。

それがイケナイコトだと言うようなつもり、それは、全くない。
むしろ言いたい事、それは逆で、ならば、何故そもそも、その点心という呼び名で、ひと括りにすれば済むだけのものを、細分化し、カテゴライズして呼び分けるのか、そういう事である。
つまり、言ってしまえば、そんなどうでもいい事を、然も重要な事ででもあるかのように、専門的に分類し、人を惑わし、別な物ででもあるかのように、人に気を持たせる、その気取った料理人根性、いや、商売人根性と言うべきか、そして更に、それに便乗する、食通を自認し、それを知らないという人に対して、自慢げに薀蓄を垂れる類の人々、正直、そういう輩が気に入らない。
もっと言うなら、料理に関して色んな事を知り、上からモノを言いそうになる、そういう輩と同じになりそうな、自分が訝しい。
言うまでもなく、大事なのは、それがシュウマイか、ワンタンか、ではなく、旨いか、そうでもないか、それだけである。

ところで、こちらのシュウマイ、もしくはワンタン、それが厳密に同じものであるのかどうか、その点は実際のところ、定かではない。
ご存知の方があれば、ご指摘いただきたい、そして、ご存知でない方は、ご興味湧けば、ご自分の眼と舌で、確かめていただきたい、是非に是非に。

ダニエルズ

2010年11月16日 | 京都
「トマト・クリーム・ソース。」

決定的に、トマト・クリーム・ソースが好きになった、それは、ダニエルズによって刷り込まれた、その影響は甚大である、おそらく、そうであろう。

学生の頃、パスタといえば大皿で、京都の一乗寺、今も在る恵文社というマニアックな本屋の前の建物、その二階に在った全国チェーンのお店に、繰り返し繰り返し、同じメニューを戴きに寄せてもらっていたものである。
ふたりで行って、コッテリのカルボナーラと、温野菜などのアラカルト一品をシェアし、勘定を済ませると、常にサービス券をくれる。
その内容というのが、特に飲食金額の下限なしで、ワインのデキャンタ一杯、もしくは、バニラ・アイスに温かいブルーベリー・ジャムをかけたスイーツをどうぞ!という、実質小売価格800円はするであろう、破格のサービスである。
それを、行く度、行く度、毎回くれる。
当然、それに釣られて、度々行き、同じメニューを戴く。
しかし、所詮、毎回ふたりの客でしかない上に、駐車券の負担までしてくれる、それで、お店にとってのメリットは、果たしてあるのであろうか。
それ程までに利用しておいて、こう言うのも何であるが、案の定、無謀なサービスのその店舗は、程なく閉店し、今はスポーツ・ジムになっているのではないであろうか、おそらく。

ダニエルズを語るにおいて、そんなことは、全くの余談である、そう思われるかもしれない。
いや、だが、そんなことはないのだ。
もう少し、話を進めよう。

そのお店がなくなり、ワレワレふたりは、少なくともパスタを戴くという事に関して、当時、行き場をなくした。
しかし、だからといって、パスタを食べない人生を送るという訳にはいかない。
そこで、探し当てた、それが、このダニエルズであった、どうやって探したのか、それは、今となっては定かではない。

よくあるパスタ、それは勿論、乾麺であり、それでも充分に旨いお店は充分に旨く、恵文社の前のお店も、充分に旨かった、今でも、たまに行くその系列のお店も、充分に旨いと思う。

だが、わざわざ新しいお店を探すのであれば、色んな面において、より本格的、そうでなくとも、個人的により新しい何かがある、そのほうが望ましいというのは、言うまでもない。
そこで、生麺である事を売りにしたパスタのお店、ダニエルズの出番が、我が人生においてやってきた、そういう訳である。
 
初めて食べた生パスタ、それは、意外と普通に美味しい、そう感じたのを、悪い事ででもあるかのように、隠す必要はないであろう。
これまでに戴いた乾麺にはない弾力、それは勿論感じるのであるが、ある種、覚悟していた不自然さは、全くない。
今でこそ、そこ此処にある生パスタのお店も、当時はそれ程には、認知度がなかった、それ故、ある面、本当に美味しいのかどうかと、怖れていた、それも事実ではあるが、そんな杞憂は、ここ、ダニエルズの生パスタによって、完全に払拭された。
さらに、何度か通う内に注文するようになった、トマト・クリームのソースを使ったパスタ、それは、これまであまり意識する事なく、もしかして口にしていたのかもしれないけれど、それがこんなに旨いものであると、天啓に打たれたかのように閃いたのは、やはり此処であった。
生パスタとのマッチング、まさに、そのせいだったのかもしれない。

こうなると、もう歯止めは利かない。
とにかく、生パスタ巡りの始まりである。
更に加えて、ニョッキ、ラザニア、麺状ではないパスタ、あらゆる種類を食べてみたくなる。

ところが、美味しい生パスタというのは、そうそう在るものではない。
それは、もしかしたら、当時だったから、そうであるのかもしれないが、実際のところ、失望することが少なくなかったというのは、具体的な店名を記す事は差し控えるが、何軒かの飲食によって得た、歴然たる実感であった。

まず、奇を衒い過ぎている。
乾麺との差を出そうとして、あまりにも弾力がありすぎたり、同時に堅かったりもする。
逆に、水分を含みすぎて、柔らか過ぎたりすると、これはもう、本当に昼と夜、少なくとも一日二回、きちんと試食して出してるのかどうかと、疑いたくなるような代物である。
生と謳う以上、それを提供するのは最低限の事柄ではあるのかもしれない。
だがそれが、ハッキリと不味いという事であれば、それは先ず店で提供する食事として、本末転倒であり、当たり前の事であるが、不味くても旨くても、生麺は乾麺より上であるというような安易な価値観よりも、生麺が管理の難しさで駄目になったその時には、思い切って扱い易い乾麺でお客に了解してもらう、それが出来ないのであれば、基本的にその提供を諦める、そのような事は最低限、飲食店の務めである。
今はもう、これだけ生パスタのお店も世に広まり、そんなお店も自然淘汰された事であろう。
だが、そのような類の嘗ての実際が、ひとりの人間から、パスタそのものに対する興味を失わせる結果を生んだというのは、非常に残念な事ではある。

ひとしきり通ったダニエルズも、それに続く他店への訪問、その失望により、ひと絡げにして足が遠のいていた感はあったが、ふと最近、立地的に好都合な事もあり、久しぶりに訪問し、個人的には懐かしい思いすら抱きつつ、あのトマト・クリーム・ソースのパスタを戴いてみた。
そして、変わらぬ旨さに、ある意味、驚いた。
あれ以来、歳月を経て、そこそこに舌が肥えたであろう事も、個人的には実際であろうが、そうであっても、このお店に関しては、味の履歴を更新して更に裏切られない。

生である事を主張し過ぎる嫌いのある、昨今の生パスタ、それはそれで、個性的であるとも言えるであろう。
だがしかし、本格的ではあるのだろうが、その手の生パスタがあまり好きではない、そういう人も、世の中にはいて、生であるその事にこだわるのではなく、美味しいかどうか、そこが先ず大事なのだという事を、考えるまでもなく主義として持つ人々、ダニエルズのパスタは、そのような人にこそ、お勧め出来る生パスタであると言える。
あまりにも、ゆるい主張であるかのような、その話。
しかし、偏った拘りのない、在るがままに何も考えない人にとっては、違和感なく、物事がスムーズに行き、そして、ふと気が付くと、微妙に美味しいと気付かされるであろう、それが、ダニエルズの生パスタ。
そしてそれは、ある意味、理想である。

そして最後に、お気に入りのお店が見つかると、いつもそう述べるので、聞き飽きた、そう言われるのかもしれないのではあるが、こちらのシェフの天性の味覚、それが、個人的には相性ピッタリなのであろう事、それこそが、例えば誰にとっても最も重要な事である、それは勿論、言うまでもない。

gion ghost

2010年11月08日 | 京都
「幽かに怪し。」

その名付け親が、どのような心積もりでそう名付けたのか、それは、他人には窺い知れぬことではあるものの、ゴースト、そう聞いて、幽霊、それを連想しない者は、そうそういないであろう。
本人がそう名付けた意図がどのようなものであれ、良くも悪くもその事とは無関係に、ひと度その名で社会に産み落とされたからには、そう名付けられた対象は、既にひとり立ちして、他者と向き合い、その名で連想されるイメージと共に、認識され、評価される、それが社会であり、現実。
他者は、その名を聞いて、思いたいように思い、感じる、それが世の中の筋である。

その名の喚起するイメージに違わず、在るのか無いのか、寺町通りを何度通ってみても、これとは判らず通り過ぎてしまっていた、以前の店舗。
じっくりと見定めて、ようやく入った、ある種の蔵のような白い建物、その中も、静謐でひと気のない、およそ生気、覇気の感じられない空間であった。
いつの間にか、閉店、そして移転し、また別のカタチ、別の意味でも、人目につき難い、この新しい店舗。
無理を言って、此処を待ち合わせ場所にしてもらった彼は、無事、我々の許へ辿り着くことが出来るであろうか。

彼を待つ間にも、どんどんと液化していく、黒いケーキ。
その儚さ、それはまさに、幽霊の如き正体の無さ。
この世に物体として定着し、他者に認知されるべく完成した姿であるとは、正直思えない。
口に含めば即座に液体と化し、持ち前のアルコール分、そして甘味が、元あった姿へと還元していく。
固体は液体に、それは、おそらくは、人間が、カタチの無い霊魂に還っていくように。

噂に聞いていた、ホットケーキ、その液化度合いも、同類であろうかと思われる、巷の生っぽいスイーツとは比較にならない。
刃を入れるまでもなく、幽かに漂うアルコール臭、それは洋酒というよりも、ふと日本酒の酒粕を思わせる。
なるほど、怪しげな食べ物である。
使用されている洋酒の名は明らかにされている、にもかかわらず、成分の化学変化により、偶然にも和風の風味を湛えているように感じる、しかし、洋菓子の名を冠した、見ても食べてもよくわからない、その円形の物体。
これがエクトプラズムの凝固したものだよ、もし、そう言われても、戸惑いつつ、納得するしかない。
不思議でも何でもなく、その不確かなものは、待ち合わせた彼が着く、その頃には、姿かたちもなかった、それは、言うまでもない。
そんな事など、おくびにも出さず、何とか辿り着いた彼と、礼儀正しく挨拶を交わし、お楽しみは、また、別の処で。

不気味なゴーストという名である事の本質、それを思うと、不謹慎であり、縁起でもない、あえて、その事は承知で言うのであれば、以前の店舗のように、いつの間にかなくなっていた、そして、もうどこにも現れることも無い、例えば10年後、その存在は、幻ででもあったかのように、伝説として語り継がれる。
そのような結末が相応しい、それでこそ、ゴーストの名に恥じない在るべき姿、いや、在りつつも、無い、そのような在り様にすら思われる、そんな正体の無さである。

はふう 本店

2010年11月05日 | 京都
「普段使いのすゝめ。」

特に観光の方などに大好評の「ビフカツ」、それがこのお店の代表的な人気商品であるのは、言わずもがな。

ただ、それは、普段使いのお昼にという事になると、あり得ないメニューであるのも、確かな事。

そこで、普段のランチ、そうであれば、壷に入った煮込みカレー、このメニューが、断トツにお勧めです。

以前に戴いた時より、多少歯応えのあるお肉、具の量が多い事もあり、最後、耐久レース的に顎が疲れた、それも事実ですが、やはり、間違いなく旨い。

どうやら、画像のカレーよりも、隣の妻のカレーの具のほうが、塊が大きかったようで、そのあたりは、装われたカレーが、鍋の底か上澄みか、それは時の運、お肉の柔らかさともなると、その日の出来、それ次第、そういう事になりましょう。

そのような意味でも、宝探し的に、当り外れのある、こちらのカレー。

よろしければ、ご近所の方も、観光の方も、いかがでしょうか、いかがでしょうか、そして、いかがでしょうか。

ハーブス なんばパークス店

2010年11月04日 | 大阪
「履歴、更新。」

マクワ、それが何語で、何処の国の果物なのかも知らないけれど、いつ何時口にしても、誤魔化されている、そういう印象がぬぐえないというのは、いささか被害妄想に過ぎるのであろうか、どうしてもメロンの皮に近い部分、それを食べさせられているような、そんな気がする、個人的には。
随分と久しぶりに戴いた、ハーブスのミルクレープ、果物たっぷりではあるけれど、マクワの割合が非常に多くないですか、これ。

最近では、あれやこれやで、格段に濃厚であったり上品であったり、それでいて、その状態が行き過ぎというのではなく、完璧なあるべき姿なのではないか、そう思わせる洋菓子を戴く、そのようなことも多くなり、同じく甘味であるという事ならば、例えば中村軒のような和菓子など、庶民的でありつつも、ひとたび口に含んだその時にもたらされる、非日常性、これこそ、もう何処にも、非のつけようもない。

しかしそのような傑出した甘味をいただくようになった昨今でさえ、とにかく大きなスイーツ、そういう風に言うのであれば、個人的には、随分と昔に戴いた、ここハーブスのケーキを思い浮かべずにおれない、どうしても忘れられない、それは、幸か不幸か、ある種のトラウマとでもいうべきもの、そう言えるのかも知れない。

そんな記憶、味の履歴を更新すべく再び戴いた、一際大きなポーションにカットされた、そのケーキ。
ふと周りを見回して、例えば、ふたり掛かりで丁度かと思われるそのケーキを、黙々と、ひとりで食べている、そんな様子の女子などを見かるけと、どう見ても何らかヤケクソになっている、そのように思え、いったい彼女の身に、どんな悲しい出来事があったのであろうかと、要らぬ妄想膨らんでしまうのは、心配などという親切めかしたものなどでは決してなく、おそらく、ただの好奇心、そうでしかないのであろうと、自らの心持ちを省みて、目を背ける。

そして、大味ではあるけれど、そこそこに美味しい大きなケーキ、その在り方、食べ方、存在意義について、もう少し想いを巡らしてみるのだけれど、上記のような類の事情、その他には、ついぞ思いも寄らない、それは、偏に自らの偏見、ただそれ故なのであろうか。