カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

蟹工船・党生活者/小林 多喜二

2011年08月27日 | 日記
語弊を怖れず言うのなら、割合に愉しげな雰囲気すら漂う、漫画的な程に、面白く読めてしまう作品である。

勿論、作者本人は、共産党の活動員として国家により拷問を受け、結果、死亡したのだから、小説を読むまでもなく、誰しもが、この作品をシリアスに受け取るのは、当然のことであり、その内容も、全く真剣ではある。
だが、その活動の在り方、その未来に関して、著者は出来得る限りに楽観的であり、困難ながらも前向きな姿勢が活き活きと描かれているのが、特に「党生活者」の実際である。
要するに、読む前に抱いている先入観では、苦しいばかりの内容のように思っていた物語が、実際には、希望の光が射す、そのような傾向の心象風景が描かれている作品であるという訳である。

実際、古今東西、世界は一部の裕福層が、遠回しに全てを支配しているのが現実で、つまり、金持ちを目指す人間は、絶対にそれらの支配階級に辿り着くことはない、金を儲ければ儲ける程に、それでも庶民の出は、そういう意味では下層の人間でしかないと思い知らされるのが、世の中の仕組みな訳である。

要するに、自由を得て、幸せになろうと思うのであれば、そのような拝金主義を否定し、個人的な自分だけの喜びを、庶民は見つけるしかない訳であるが、それすら脅かされる世の中というのが、あえて具体的に言えば、テロリズムさえ許される、そのような状況な訳で、今現在、世界はそのような結末に向かいつつある、そんな世相であると、充分に言える状況であろう。

その流れを止める方法というのは、実際わかり切っていて、今現在の裕福層が、富の再配分をするしか、道はない。
法的に所得に制限を設け、累進課税を強化し、一定以上の財産の所有を、個人にも企業にも許さない。
それが世界的に徹底されれば、世の中の貧困層が、劇的に減少するのは明らかである。

ただ、問題は、そのような法案を作る人間、議員、官僚自身が、金持ち、もしくは、金持ちの手先でしかない現実で、例えば、小林多喜二が、小説家として、この腐った世の中を、皆が同等の所得を得られる、そんな平等な社会に変えたいと思うのであれば、根本的には、力を持った人間、裕福層の人間の性根を、人が汗して働いた結果を横取りする、搾取は恥ずかしいことなのだと、心底わからせる、魂を根本から揺さぶるような作品を目指し、書き上げるべきであっただろう。

故に彼は、作家としての資質を十二分に持ちつつも、実際、小説家というよりは、むしろ、活動家であったと、言える。

口ぶえ/折口 信夫

2011年05月21日 | 日記
何であれ、良い面と悪い面があって、自分に都合の悪いことは、その悪い面だけが全てであるかのように、
本心から思ってしまう傾向というのが、人間にはあるし、つまり、社会全体にもある。

同性愛者というと、それにまつわる全てが破廉恥で汚らわしいと早合点してしまう、
そういう傾向は、いつの時代も著しく顕著であり、そういう風潮に苦しめられた人物というのは、
いつの世にも、常に居たことであろう。

当然の如く、敬虔で慎ましやかな同性愛者も居れば、多くの評判通りに、節操なく破廉恥な奴も居る。
同じく、救い難く破廉恥な異性愛者も居れば、勿論、所謂、人並み程度、普通の人も居て、
実は世の中、そのカテゴリーだけが、社会的には正常であると認知されている。

だが、実際は、同性愛者であろうとも、真面目な付き合いをする、真面目な人物なのであれば、
社会的差別を受ける謂れなど、全く以ってない訳であり、本書、「口ぶえ」で描かれる人物像というのは、
まさにそういう性向である。

そしてこれは、おおよそ、作者、折口信夫、本人の自伝的小説であり、
此処には描かれてはいないのではあるが、彼は、実際、そういう類の社会的偏見を、
存在の根源的な苦しみとして心中に抱いており、他の何かを切欠にして、
若い頃から、何度か自殺を試みているようである。

真に穢れているのは、差別する側の心だと、実は差別的な人々が気付くのは、いつの事だろうか。

死者の書/折口 信夫

2011年04月13日 | 日記
.本書の所感を記すにあたり、自分が、社会における身分、階級制度の支持者、擁護者ではないという実際を、他人に言い訳するのではなく、先ず自分自身に言い聞かせなければならぬ、ある種の心構えとして、そのような危険性を孕む、魅力に満ちたその在り方に関わる作品である。

天皇制、多く問題とされるその社会性、その是非に関しては、語るまでもなく、各々の見識、そして良心が感じるところ、その儘であろう。
だが、もうひとつの、それとは別の面、いち人間としての、貴人の人格形成、その本質を描いたのが、本作であると言える。

人は、当然の事として、その人生に揉まれつつ、個人としての人格を形成していく訳であるが、一般人的にその多くは、人生、それはつまり、社会に揉まれるという事と、否応なく同義である。
そのようにして、磨耗し、老いさらばえ、消耗し切って人生を終わるのが、人な訳であるが、それが、基本的な人間存在としてのスタンダードであるという訳ではなく、勿論ありたい訳でもなく、本来は、そうあるべきでもない。
つまり、当然のように社会に揉まれ、くちゃくちゃにされてはいない、そんな人間としてのスタンダード、ぴかぴかの人間を作り上げ、守り、維持していくシステム、それが、天皇制の持つ大義の一面でもある。

例えば、宇宙人に見せて恥ずかしくない、人としてのモデル、神の御前、地獄の閻魔さまにも、決して文句を言わせない完璧な人間、そういう存在を目指して、貴族、皇族を、人生の困難、つまりは、社会から切り離し、末永く保存していく訳である。

少々話は逸れるが、例えばそれが、国家元首であろうが何であろうが、人前に出て社会に関わり、金に塗れたその時点で、成り行き、皇族であろうとも、ただの人となる、それは、言うまでもない現実である。

そしていよいよ、そこが話のキモなのであるが、そのような完璧な人間というのは、具体的にどういう類の人物であるのか?

それは、肉体的に優れていて、頭の回転が早く、記憶力にも優れ、あらゆる知識を蓄えている、そのような下世話な西洋的価値観によるものなどではなく、ひたすらに感覚的な冴え、その一点に集約された人間の事を言う、そのようである。
経済的には勿論の事、世の中の何にもバイアスをかけられず、それを知らなくても、曇りのない眼で一見にして、その本質を喝破し、社会的な善悪、そして勿論、個人的な損得とは関係なく、一切の誤解なく物事を認識し、正しく判断できる力、そのために磨き抜かれた感性を持つ人間、それが、おそらくは完璧な人間、そう言えるのである。

そしてその概念というのは、おそらくは、成りたい自分を自分の胸に問うてみた事のある、誰しもに、心当たりがある、そのはずである。

人生のちょっとした煩い/グレイス・ペイリー

2011年02月19日 | 日記
結果的に、この作家、自国アメリカにおいては、非常に高い評価を受ける訳であるが、
この単行本に収められている短編小説、その数本というのは、
子育てにひと段落つき、家事をこなしつつ、キッチンのテーブルで、
時間を見て書き綴られた、いち主婦の作品な訳である。

勿論それは、片手間などではなく、個人的には全力で投球した作品に違いない。
だがしかし、実際、何の当てもなく、とりあえず書いてみた作品でもある。
結果、出来上がった、この作品群の読ませる内容、その力量に、
驚愕しないわけには行かない。

内容的には、非常に色濃く、作家のパーソナリティが作品に投影されているわけであるが、
当然、ただの体験談などではなく、日常会話を超えた会話が、作中でなされている、
そう思っていいのであろう。

起こる出来事は、何ら世界に大きな影響を与える訳でもない、個人的な出来事に過ぎない、
しかし、その些細なやり取りが、もし彼女の描く世界のように、ウィットに富んだものであるならば、
ワレワレの現実というのは、どれほど豊かなものになるであろうか。

別段、何かが達成されるという訳ではないにしろ、
彼女の小説、その世界は、そういう意味で、微かな希望でもあり、
何より、憧れるに足る、その程度には、
世界観的に充足している、そのような印象を受ける。

死の棘/島尾 敏雄

2011年02月16日 | 日記
およそ10年間、作家である夫の浮気を知りつつ、献身的に尽くしてきた妻の心が、
ついに壊れゆく過程、もしくは壊れた末を描いた、意外にも世界的に評価を受ける、
日本の作家による物語である。

正直、ただ、あった事を描いただけのドキュメンタリー、
自らの汚点を記しただけの、私小説にしか見えない本作、
作家たるもの、その経験を肥やしにして、
それとはまた違った物語を紡いでいくのが、いよいよ本領なのではないかなどと、
思えなくもないのであるが、諸外国においてはこの作品、
ある種、ある面、男女関係の原型を詳細に描いた作品として、
かなり評価が高く、名作の誉れ高い。

だが、評価が高いから面白い作品なのかというと、それはまた別問題で、
やはり、読んでいて、しんどい事に間違いはなく、実際に心当たりなどなくとも、
その登場人物、つまり作家の心情が、どこか魂に微かに訴えてくる事、夥しく不快である。

現実に、世の中の出来事に照らし合わせてみれば、
本人的には、信じていたい、唯一の相手に裏切られるという、
生きる根本から耐え難い状況であるのは勿論なのであるが、
ただ、そんなよくある話の中でも、然程、残酷な仕打ちを、
この妻が受けているという訳ではないというのも、ひとつの事実で、
もっともっと酷い現実、浮気された上に、更に貢がされたり、
状況的に逆ギレして、暴力を振るわれたりという事例が、世の中には山程あって、
言うなれば、この、あらゆる意味でホドホドの状況、
それでも夫婦関係の再生を目指す、そのような描写であるからこそ、
多くの人間が、まだしも読むに絶え得る作品足り得るのであり、
その事が、本作が広く世界中で読まれる理由の、その一理なのではなかろうかと、
少々酷薄な考察ながらも、そこはかとなく思える次第ではある。

高い城の男/フィリップ・K・ディック

2011年02月11日 | 日記
この物語に関して概要を述べるのであれば、
やはり主には、第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国が、
逆であった場合を描いた作品であると、そう言うべきなのであろう。

だがしかし、この物語の胆というのは、その興味深く魅力的な設定にも関わらず、
それぞれの登場人物の心理描写、それに尽きると言える。

世界がどう在ったとしても、そこに生きる個々人の心持ちというのは、
多かれ少なかれ、現実に生きるワレワレと、相通じるものがあり、
共感を抱かざるを得ない、悲しみ、苦しみ、そして、喜び、
それら、分かち合う事の出来る心境が、やはり存在するのである。

もし世界が、この物語のように、表面的には、逆の価値観で支配されていたとしたら、
もし自分の人生が、世間の容赦ない勝った負けたのせいで、逆の立場に立っていたとしたら、
自分はどう思い、どう行動するのだろうか、
そして、そんな仕組みから、どうすれば離脱する事が出来るのだろうか、
それを想像し、シュミレーションし、且つ、そんな立場の自分に共感できるか否か。

そしてそれは、空想上の極端な例え話だけでなく、日常的に自分は、
人の立場に立って、あらゆる物事を感じる努力をしているのであろうか、
フィクションを読む、特に、SFを読むという事は、楽しいから、面白いからという、
それだけの、気晴らし的な動機からだけではなく、
つまり、そういう事の訓練なのである、大袈裟に言うと。

蝦蟇の油/黒澤 明

2010年12月27日 | 日記
.折に触れては古書店を覗き、捨子物語を探しています。
実際のところ、早急に手に入れようと思うのであれば、ネットで簡単に手に入るのでしょうが、
こういう本は、あえて古本屋を覗いて、手に入る約束なく、偶然に巡り会いたい、そんな気がするのです。
いつのことになるかは、わかりませんが、それでもいいのです。

その日も、京都市役所沿いの寺町通り、その通りの東側にある古本屋を、通りすがりに覗いてみると、
相変わらず捨子物語は見当たらないものの、探していたのでも何でもない一冊の本が、ふと目に付きました。

それは、映画監督、黒澤明の自伝、ハードカバーの上に、さらにカバーのついた装丁、
中身を出してみると、古本らしからぬ、まっさらな保存状態です。
ぱらぱらと捲ってみると、内容的に、実際の本人の著作であるように思えます、
文筆家ではない、しかし紛れもなく優れた作家である人物の書いた読み物、そこがとても興味深い。
美しく、流麗な文章ではないけれど、そこにあるエピソードのひとつひとつは、まさに驚きの連続で、
やはりこの人は、成るべくして映画監督になったのだなと、実感できる、そんな内容です。

今日は、高橋和巳には出会えなかったけれど、黒澤明に出会えた、これも、縁でしょう。
店番の奥さんに、これは幾らかと尋ねると、少し考えて、千円と言われたので、
そのいい加減さに呆れて笑いそうになりながら、値切らず素直に所望しました。
千円で黒澤明の経験した事、そして考えている事を知ることが出来るなら、
どう考えても、安い買い物です。

またそのうち、高橋和巳にも、出会うことは出来るでしょう。

嘔吐/J‐P・サルトル

2010年12月10日 | 日記
「嘔吐」と書いて、「はきけ」と読ませたい。
訳者としては、本来的には、「おうと」と読ませたいのではない、そのつもりらしいこの小説、1938年、サルトルの作品である。

サルトル、哲学者の作品などというと、シリアスで、ひたすら難解、小説としては、かなり小難しいなどのイメージが、巷にはあるのかもしれない。
だが、実際のところ、本作は、ユーモアの塊のような小説である。

尋常ではない密度で描かれる、狂人のものと言っていい、それ程の心理描写。
同じく、気違いの視点で描かれる小説に、魯迅の「阿Q正伝」などもあるが、そちらが比較的、社会風刺的であるのに対し、こちらは徹底して個人の在り方、彼に見える実存を描いているという点で、また別の類のものではある。

実際のところ、本作は、その手の雰囲気だけを追いかけるために、まるで的を得ない描写を重ねるような、ありきたりな偽物的作品とは異なり、とことん徹底的でありながら、的確で共感を抱かざるを得ない、その要所々々の詳細、誰しもが、どこか身に憶えのある感覚、それらは文句なく驚嘆に値するのではあるが、如何せん、それらのエピソードが、成るべくして繋がっていかない、そんな印象を受ける。

それはそれで、クールである、そう言えるのかもしれない。
だがしかし、もしかすると、そのような描き方そのものが、作家の照れ隠しのような気もする。

哲学というものは、宗教を排除する事、それを大前提として、成り立っている、そういう空気はあるものの、それは実は、謙虚に過ぎる定義であって、実際のところ、どれ程メジャーな宗教であれ、所詮はひとりの人間の妄想が生んだ思想、ビジョンであるその事に、違いはない。
つまり、宗教とは、ひとつの哲学なのである。

ま、異論も色々とあるであろうが、人はそれぞれ、思うように思えばいいのであって、他の人間がどう思おうと構わない、それとこれとは、また別の問題である。

要するに、何が照れ隠しなのかと言えば、実存を超えるもの、それに言及すると、宗教的にならざるを得ない、だから、より冷静に、客観的にあろうとするならば、学問の域を出る事は、出来ない。
だがしかし、何が書きたいのか、ハッキリした目的、その結論が、書く前から出ている小説に、感動はない。
道中、如何に脱線しようと、如何に狂人的視点で描こうと、ある段階を超えた驚きと感動を、学問的な要素だけで生み出す事は、出来はしない。
作家自身も、この先どうなるのかわからない、そのような状態で書き進められていく物語でなければ、読む側にスリルを与える事は、不可能である。
朧げに見えている、もしくは全く見えない結末に近づいていくその速度は、書き手も読み手も同じであるべきで、単なる予定調和に対しては、驚きも感動もあり得ない、それも、書き手も読み手も、同じである。

あえて言うのであれば、ジャンルに捕らわれない勇気、もしかすると、それが、本作には、決定的に足りない、そのように、思わなくもない。
哲学は勿論、宗教、さらに、科学にメロドラマ、それさえも呑み込んでこその、優れた小説、物語なのではなかろうか。

悲の器/高橋 和巳

2010年09月18日 | 日記
読み物として、完全無欠であると言ってよい。
高尚である事と、低俗である事、真面目さと、面白さ、滑稽である事、そのバランスの、ど真ん中を行っている書き物であるだろう。

そのど真ん中というのを、「スタンダード」という言葉に言い換えると、何となくその存在価値は、イメージし易い。
ヒエラルキーと呼ばれる三角形の、高さでいう真ん中辺りにそれは位置し、それはつまり、上に行くほど数は減り、下に行くほど数が増える。
おそらくこれは、その読み物を、無理なく楽しめる人間の割り合いの話でもある。

世の中、何事においても、全体の数を半分に割った真ん中辺り、それが、「普通」と言われるのであろうが、それは勿論、「スタンダード」とは違う。
周りが皆、大概はそうだから、というのでは、それは本当は基準には成らないし、成るべきでもない。
人としてのスタンダードは、残念ながら、そこにはない。
そこは、実際には、随分と下方である。
誰しもが、もう少し上を目指し、ちょっと無理をして、初めてスタンダードに追い付ける。
そこに基準はある。
誰が決めたのでもなく、絶対的な何かであるかのように、それは感じられる事だろう。
何故なら、そうであるようにと、人間は出来ているから。

この物語は、行き過ぎて、更にそれ以上を目指してしまい、世の中の「普通」に足を取られる人のお話であるが、要するに、「スタンダード」、ではなく、「普通」を基準として暮らしている人間には、単に理解する事、同情する事、ましてや見習い、実行するとなると、ちょっと難しい話ではある。

そういう事に意識的ではない人は勿論の事、あらゆる人間は、「悲の器」でしかない、そういう事なのであろう、か。

日本アパッチ族/小松 左京

2010年08月30日 | 日記
SF、というのは、パラレル・ワールドを描いたモノである。
ソレは、可能性、であって、寓話、でもある。

この世界では、コテコテの大阪を舞台にして、「鉄」を食わざるを得なくなった人々が、その体質までもが変化して、新人類へと進化を遂げる。

モチロン、鉄など食わずに済めば、その方がいいワケで、貧困、差別、隔離、そのような仕打ちを社会から受けた人々が、食う物がなく、否応なく鉄を食うようになる、という成り行きである。
モチロンそれが、現実に照らし合わせれば、経済的に恵まれない者、被差別、レッテルを貼られた者、日本人と認められない者などを、SF的に、象徴的に表現したモノであるコトは、考えるまでもない。

だが彼らは、恵まれないソレ故に、社会的に失うモノもなく、否応なくではあるが、悠々と、人類の次の世代へと進化して行く。
経済的に恵まれている者や、今ある立場を始め、守る物が多い者、過去や歴史に固執する者は、急ぎ別の自分に成る必要にも迫られず、成り行き次の段階へとは進めずに、新人類に世界を明け渡す状況となる。

ソレは、人類史上、ではわかり難いが、地球上のこれまでの生物史に照らし合わせれば、当然の事、ごく自然な成り行きである。

このように書くと、非常にシリアスなようではあるが、物語の中での、戦いの一節を抜粋すると、こうである。
「ミサイルだんな」とその男はつぶやいた。
「空対地ロケットですわ」と私は答えた。
「あないやっとったら、おもしろいだっしゃろな」と彼は溜息をついた。
「うちのヨメはんにも二、三発ぶちこんでくれへんかいな」
と、この調子である。

今、恵まれている者は、後は滅びるしかなく、今、恵まれていない者は、恵まれた未来を手に入れる。
まるでドコカの宗教の教えのようではないであろうか、科学の証明する自然の成り行きというモノは。

かの子繚乱/瀬戸内 晴美

2010年08月10日 | 日記
寂聴には関心なけれど、岡本かの子に関心アリ。

正直、この本自体は、読み物として、悪い意味で混乱している。
文章の視点、成り立ちが一定せず、ちぐはぐなので、その気で読んでも感情移入出来ないという欠点がある。

ただ、描かれている岡本かの子その人のニュアンスは、非常によくわかり、常識に捕らわれないその生き様も、それあってこその彼女の作品であろうという事は、疑いようもない。

本作の著者に対して抱くイメージは、女性性を売りにしているという域を超えるものではない。
だが、かの子その人というのは、岡本一平と二人三脚で、完全にそれを超越し、人間の普遍性に達した作品を書いている。

そして更に、岡本太郎という、芸術家としての在り方を、幼少の頃から骨の髄まで叩き込まれたサラブレッドも、この夫婦の子供である事が、何よりも大きな成功の要素であったであろう事、それも、疑いようはない。

死霊/埴谷 雄高

2010年08月05日 | 日記
例えば、マイルス・デイビスの喇叭のナニがスゴイのか?

ソレを言うのであれば、その一音節に収まっているフレーズの数が尋常ではない、
そう言われるコトは、稀ではない。

ある種ソレと同じように、通常の小説の中で一節に収まるべき文章が、埴谷の小説では3倍、
イヤそれ以上、5倍もの量で、延々と物語られている、そのような状況のようである。

マイルスの音楽が好みかどうか?

ソレは自分でもワカラナイ、ガ、大きな意味、価値のあるモノであることに、疑いはない。
そして本作にも、同じコトが言える。

そう、ある意味、これ以上に知的な読み物は、世に存在せず、読後もその思いに、変わりはナイ。