カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

とんかつ 豊か

2009年04月24日 | 大阪
「破壊的旨さに対する期待。」

その日の休日、久しぶりに朝寝して遅めに家を出たからには、そこそこのお店でランチを取れるなどとは、そもそも期待していなかった。
京都の田舎から兵庫県をかすめて大阪市内に出る途中、箕面の時点で3時。
そんな時間に開けているお店は、なかなかない。
が、ふとむかしに何かで見たこちらのお店のことを思い出した。
箕面の駅前であったように思う。
ダメモトで、場所の確認ついでに寄ってみようという気になった。

場所はとても分かりやすい。
繁華街の中の一角、よく見ると、一部明かりが入っているようである。
とりあえず見てみようと車を降りて店頭に立つと、なんと休み時間中もお持ち帰りができるではないか!

しかーし、車を運転しながら弁当を食うのは至難の業である。
ということで、1300円台の上カツ・サンドにしてみました。
サンドというのは、こういう時のためにあるのです!

見ため、想いの外、箱は小さく、あまりCPは期待できないなと、その瞬間は思った。
が、開けてみると、そのカツの分厚さは相当のものである。
ひとつが分厚すぎて、サンドは全部で3切れ、しかしちょっと見たことのない分厚さで、パンはほとんどないに等しいその勇姿!
ずいぶんと昔に食べたコロナのタマゴがカツになったような印象である。
その非常識な分厚さにして、キッチリ中まで火は通っており、しかし過度に通り過ぎずで、肉はメチャメチャに柔らかく、そしてジューシー!
店内では、このカツを塩で食べる。
想像上、それは納得、ソースではある意味勿体ないような気はする。
カツサンド、侮れじである。

正直、今まで、トンカツなどどこで食べてもそこそこ旨いし、逆に言えば、ある一定以上の旨さのトンカツなど期待したこともなかった。
わざわざ肉食べるなら、やっぱ牛でしょ!という認識でした。
つい最近まで、ピザというジャンルでもそのように思っていたのであるが、ここのトンカツでまたしても思い知らされた次第。
本当に旨いトンカツは、旨いのである!
まだ店内でまともに食事したわけでもないのに、こう言うのもナンであるが、このトンカツからは、トンカツというジャンルそのものを引き上げようという気概というか、少なくともそのジャンルでいちばんを目指そうという気迫を感じる。

余談であるが、匿名とはいえ引き合いに出して申し訳ない、同じ日の夜、大阪市内にて、かねてからお気に入りの洋食屋にお邪魔した。
そこそこの好印象を抱いているお店である。
その日、そのお店でミンチカツをいただくことになったのであるが、いざ口にすると、どうにも褒める気にならない出来であるように感じた。
だがそれもそのはず、その時は気付かなかったのであるが、昼間のトンカツの油が並以上に良すぎたのであろう。
同じ日に、そのような普段使いの洋食屋と、気合の入ったトンカツ屋をハシゴする方が間違っているのである。
かかるコストのことを考えれば、その洋食屋を責めるわけには勿論いかない。
これもまた、一種の食い合わせの悪さの典型であった。

その日、当方がなくしたものと、得たもの。
それは、これまで贔屓にしていたお店に対する無条件の満足感、そして、それを破壊してしまうほどの旨さに対する期待であった。

龍園

2009年04月12日 | 京都
「第一次餃子大戦後の世界。」

このお店はホンモノである。
どうホンモノなのかと言うと、あらゆる意味でホンモノであると言いたい。

千本通りも三条も、長年嫌というほど往復していながらにして、まったく気付くこともなく、本当に縁のないお店であった。
それもそのはず、三条から下って入るべき路地が北向きの逆一通なのだから、地元の人間以外通るわけはない。
だが、だからこそこのように長い長い間、再開発もされずに一昔前の面影を残していられたのであろう。
その佇まい、まさにホンモノの昭和である。

ちなみに、昨今のなんちゃって昭和ブームが悪いというわけではない。
むしろ無機質な灰色の建物にテナントで入っているお店ばかりという街並みよりは、ウソでも懐かしさを感じられる温かみのある雰囲気も、ないよりはあったほうが多少の救いはあると言えなくもない。

カウンター数席だけの店内は、ホンモノのニオイがプンプンする。
それ以前に外観だけでも、充分なある種の風格を醸し出してはいるのであるが、店内はまたそれを確信させる趣である。
と言うか、これはもう趣などという意図的、意識的なものですらない。
入店と同時にタイムスリップしてしまっていると言っても、過言ではないであろう。

鍋を振るおばちゃんがホンモノであり、厨房にある餃子の皮を伸ばす機械がホンモノであり、身の丈に合わないでっかい中華鍋がホンモノである。
壁にかけられたオヤジさんの写真・・・詳しいことは知らないが、創業何百年とかいう京都ではありがちな格式重視の歴史などではなく、ホンモノの人と店の歴史を感じる。

出てくる料理は皆手作りの素朴な味、焼飯のムラのあるしょっぱさが、何とも言えず懐かしい。
多くの中華料理店では、なぜ焼きムラのないことが絶対的に良いことであるかのように、後半飽きのくるのっぺりとした焼飯ばかりを出すのであろうか。
後程述べる大手チェーンなど、その日の朝のものではあるだろうが、大量に作り置いた焼飯をポリバケツに保存しておいて、注文が入ればそこから適量をお玉ですくい出し、出きる限り素早くといった感じで炒め直して出している。
ハッキリ言って食欲の失せることこの上ない。
まさにジャンク・フード、早く出すことだけが至上主義になっているというのは、非常に残念なことである。

それはともかく、こちらのお店の料理に言えることでひとつ確実なことは、使われている油がかなり良く、しかしそれを、多くは使い過ぎていないことである。
だから全てが、当然に旨い。

ラーメンの麺は、一握りの乾麺だったような・・・いや、よくわからない。
茹であがった麺の細さもまばらなら、コシもまばら、良いとも悪いとも言いようのない、妙に手作り感のある不思議な感じ・・・。
何しろ食ったことのない食感。

そして問題の餃子である。
注文を受けてから、おそらくこれまでには見かけたことのない、しかし遠い昔どこかで見たことのあるような古そうなマシーンでもって皮を伸ばし、具を詰めて、上から紐を通した独特の装置で焼いてくれるのを見ることが出来る。
これもまた、見せるためにしていると言うのではない、しかしそれこそがホンモノのパフォーマンスである。
類としては、モチモチの餃子。
辛味もホドホドで、たっぷりと味噌をつけてさえも、なおアッサリとした印象である。

そして、京都で餃子といえば「食は万里を超える」の、あの「王将」である。
本家、京都。
全国区ではあるものの、特に京都ではドミナント化が完了しており、餃子と言えばこの餃子が基準である。
そしてこの餃子は、ハッキリ言ってかなりレベルが高い。
日本の、いや、餃子という存在のスタンダードであると言えるのが、王将の餃子。
所詮大店舗のチェーン店、他の料理は口ほどにもないお味であるが、餃子だけは別なのである。

だが、幸運なことに、このお店の餃子は、王将の餃子とはまったく別の土俵に存在している。
京都の多くの中華やラーメン店のように、王将の餃子と比べて小さいとか数が少ないとかいうふうにお客に思われることは、まずないであろう。
もちろん、王将の餃子がああだから、ウチはこっちに逃げようというような意図で考案された餃子でもないであろうし、他店のマネをするでもなく、それを見て自分の指針を考えるでもない、唯我独尊、そこがまた、ホンモノのホンモノたる所以。

・・・いやいや、創業の時期はわからないが、王将の一店舗目は、実はごく近辺の四条大宮である。
もしかすると、当時同格の店として、むしろ思い切り勝負をかけるという意味合いで、このような別の類の餃子になったのかもしれない。
勝敗はともかく、それはそれで非常に面白い話ではないか。
と、妄想はさておき、いずれにしても、今後ともどちらのお店の餃子も別物として食していけるのが、喜ばしい結果である。

三条を挟んだ北側には、昔とうって変わって近代的になったJR二条駅にシネコン。
そして立命館の大型施設、さらに近々仏教大学の施設まで進出するという新たな再開発の荒波。
おそらくいつまでもというわけにはいかないであろうが、出来る限り末永く残っていて欲しいお店のひとつである。