カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

マヅラ

2010年09月30日 | 大阪
「ようこそ、此処へ。」

ようこそ!地の底薄暗く輝く当店、マヅラヘ!

こちら、大阪駅前第一ビルのB1F、その一角。
愛想も色気も無い建物ですが、お店だけは腐るほど御座います。

この広大な地下街を彷徨い、方向感覚も失って、己の居場所が掴めなくなり、途方にくれたその時に、アナタの眼前に姿を現すのが当店である事、アナタにとっても当店にとっても、それは、とてもとても幸運な事、当店は、何十年も変わらずに、いついつまでも、そんなアナタをお待ちしております。

では、お好きな席へお掛けください。
お飲み物、自家焙煎コーヒー、ホット、アイス、ともに\250。
どうです、安いですね?
え?コーヒーはお好きでない?
では、クリームソーダ、\330、こちらはいかがでしょう?
歩き疲れたので、もっと甘いものが欲しい?
では、チョコレートパフェ、\550。
あ、ご満足ですか、幸いです。

鏡張りで、どこまでが店内なのか、わからない?
そう、そこに映っているのは、アナタですね、あ、あちらにも、あちらにも、アナタが映っておりますよ。
店内に何人の人がいるのか、ちょっとスンナリとは、わかりませんね。

??今の年号?いいじゃないですか、今がいつでも。
よろしければ、ジョニーウォーカー水割、\350。
こちらなど、いかがです?意外と、甘いものとも合いますよ。

???いえいえ!キャバレーではありませんよ、当店。
お店の女性に、横に座ってもらえるなんて、勘違いしてもらっては困ります。

あと、お願いが御座いまして、下記の場合はテーブルチャージを頂いております。

4人用テーブル、1人で使用された時、\500、2人で使用された時、\300。
今お客さまがお掛けの、3人用テーブル、1人で使用された時、\300。
このようなシステムとさせていただいております。

駅前の高家賃の場所でお客様に安く品物を提供しようと努力しておりますので、店内で仮眠や記帳、計算、事務等は、ご遠慮願います。
何卒、御協力、よろしくお願い申し上げます。

龍園

2010年09月26日 | 京都
「続・第一次餃子大戦後の世界。」

戦争が終わり、およそ決着のついた今、何をどう言ったところで、今ある何も変わりはしない。
いや、むしろ、これでよかった、偽りなく、そう思う。

一方通行の狭い路地、その中間地点にあるカウンターだけの小作りな店、龍園、わざわざそこに来る客、それは、通りすがりではあり得ないし、実際のところ、遠方からわざわざ足を運ぼうという物好きも、まずいないだろう。

昭和の時代を感じさせる、長屋風のテナントのひとつに入ったその店舗は、ひっそりと、しかし確かに現役であることの生活感を漂わせつつ、しかしどこか女性的な佇まい、潔癖さを保ちながら、日々営まれている。

暖簾をくぐって店内に入った正面の壁、短冊に書かれたメニュー、それが龍園で提供される料理の全てで、何度か通えば、それを制覇することは、さほど困難ではないが、基本、一品の量が多いので、今日は焼き飯、今日はラーメンといったふうに、餃子と合わせていただく、自然そういう成り行きとなる。

何度目かの訪問で、その天津飯を初めて目にした時、おそらくそれは、人知れず咲いていた花をこっそり見つけた、そのような様子であったであろうと、我ながら思うのは、滑稽でもあり、微笑ましくもある。
個人的な経験で言うならば、今年の始め、ボルネオ島で見たラフレシア、その容貌の意外性からして、ここ龍園の天津飯を、そのような稀な花に例えたとしても、特に差し支えはあるまい。

これまでには見た事もない、半透明の液体の底に沈む天津飯、その餡から透けて見える玉子には、やや堅めに火が通っていて、自然、食べてみると少々芳ばしいのであるが、それは玉子の焦げのせいというよりは、小さな破片となって内包される叉焼そのものの持つ、ほのかな風味、そして歯応えのせいである。

最近、とみに思うのは、このような焦げの持つ特有の苦味というのは、料理全般において、他の要素では換え難いアクセントと成り得る、その事実である。
味覚的に、焦げそのものを旨いと感じることはないであろうし、もしかしてあるのかもしれないその質に関しては、正直よくわからないが、同時に口に含む別の風味を、焦げがより一層に引き立てているというのは、間違いなく言える事である。

それは、単純に言えば、苦味でしかないのであるが、そう言えば、この龍園の餃子の味噌ダレ、こちらも少なからず苦味を感じる、他店にはない珍しい風味のタレであり、有体に言えば、個性がある。
好き嫌いは分かれたとしても、忘れられない味であるその事は、誰であっても否めないであろう。

昔ながらの大衆食堂でありながら、しかしある面、受け継がれたものを決して失うことのない、何にも媚びない、その在り方。
変わらなければならないくらいなら、無くなってしまった方が諦めがつく。
時代がどうであれ、ホンモノはそのような潔い覚悟を持っている、そんな気がする。

ザ・トイズキッチン・リブリエ

2010年09月21日 | 大阪
「それは、おそらくは、極限のピッツァ。」

ごく最近、ピザのランチを始められたようです。
以前から気になってはいながらも、機会が合わず、寄せていただいたのは今回が初めて。
つまり、これまでは無かったピザ・ランチを、初訪問の身でありながら、このお店の第一印象としていただくのは、本来ではないのかもしれません。
ですが、せっかく何らかの必然性があって、わざわざ始められた新メニュー、試さない理由もありません。
そのような事で、そのピザ・ランチ、そして、メインの付いたランチ、どちらも千円のセットを、今回はいただきました。

とは言え、リーズナブルである事が売りであろう、千円のランチに出てくるピザに、過剰な期待を抱いてはいませんでした。
ところが、やって来たピザは、ちょっと驚きの出来栄えです。
熱々なのは勿論の事、ふっくらした生地にタップリの具材、真ん中に半熟の卵の黄身が載っていて、ジューシーな事、この上なし。
ランチでサクッといただく事に気を使ってか、程好く、ふた口大程度の小さめに、予めカットされています。
その、必然性以上のサービス、何だかお店の方に、贔屓目に好意を抱かれているような、そんな勘違いさえしかねない、非常に行き届いた気配り、弥が上にも好感が持てます。
現金な言い方で何ですが、このピザ、あくまで個人的な感覚で言いますと、単品で、最低でも1,200円、普通に1,600円でも、誰も文句は言わないであろう、そのくらいに思える出来栄えです。
流石に2,000円、ともなると、某店で絶句もののピザがいただけるので、比較するには無理がありますが、とにかく、お店の経営的には気の毒に思ってしまう、そのくらいに、破格のCPである事、間違いはありません。

以前から好評の、基本的なランチにしても、そのボリュームは言うまでもなく、質的に、全く不足もなく、どのような好みの誰が食べたとしても、この価格で、この料理に対して不満を述べるような事は、皆無なのではないかと思わせる完成度です。
あえて言うのであれば、その八方美人的美味しさ、其処に、そこはかとない物足りなさを感じるという部分は、人によっては、もしかするとあるのかも知れませんが。

万人に支持されたい、好きになってもらいたい、そう思うのであれば、万遍ない美味しさを追求する以外に、道はありません。
しかし実際は、何事であれ、その好みに偏りのない人間というのは、この世に存在しないというのが現実であり、誰かに熱烈に支持されたい、そう思うのであれば、本来は、作り手、本人が、自分自身の抱く方向性を追及するという方法が、実は一番の近道であって、それは当然、嗜好の合わない人を切り捨てるという結果を生む事に他ならない訳ですが、要するに、このお店のマスターは、万人受けする事を望んでおられる、そういう事なのでしょう。
そして、それはそれで、勿論の事、善しとすべき事ではあります。

そして、人を集める更なる手段として、この過剰なまでのCPを感じさせる、ピザ・ランチの導入、それはやはり、今の世の例に漏れず、低迷する売上に対する梃入れに他ならないであろう、その厳しい現実。
このお店が人気店である事に疑いはありませんが、それでもこの不景気によって、季節要因の大きい前月比はともかく、前年比などを客観視すれば、それが深刻な懸案事項であろう事、それは、今現在の社会全般の例外ではない事でしょう。

このピザの大きさ、美味しさを、消費するだけの客の立場、その一面からのみ見れば、ひたすら歓迎し、賞賛する、それだけの事でいいのかもしれません。
ですが、世の中の全ては繋がっているというのが真実で、つまりは、このピザを提供するお店の立場が見えない、そのような事では、人の世に生きる、いち人間として、認識不足、役不足であり、何を為し、何を見るにつけ、常に念頭においておかなければならないその事は、当然の事、いち社会人として最低限、その人の身にもなって、感じるべき事です。
もし、今現在、そのような類のプレッシャー、ストレスを、さして感じる事もなく、心安らかに暮らしてる、そんな人がいるとしたら、それは、身近では、その人の家族、もしくは会社、そして社会から、手厚く守られ、制度として間接的に保護されている、その事を自覚し、感謝しなければならない、今、日本の社会というのは、実際そういう状況なのです。

何事においても、得てしてある事ですが、苦しくて苦しくて、他にどうする事も出来ず、本当に身を切るような最後の思い切った手を打ったその時、それが、後から考えてみれば、一番苦しかった、状況が最悪であった時であるというのは、往々にしてある事です。

そう、お店にとってギリギリの採算ラインであろう、あり得ないCPである、このピザ・ランチの出現、これこそが、今現在が、この不景気の波の最底辺である事の象徴、それを体現する極限の存在、後々そうであったと思える事、それを祈るばかりです。

悲の器/高橋 和巳

2010年09月18日 | 日記
読み物として、完全無欠であると言ってよい。
高尚である事と、低俗である事、真面目さと、面白さ、滑稽である事、そのバランスの、ど真ん中を行っている書き物であるだろう。

そのど真ん中というのを、「スタンダード」という言葉に言い換えると、何となくその存在価値は、イメージし易い。
ヒエラルキーと呼ばれる三角形の、高さでいう真ん中辺りにそれは位置し、それはつまり、上に行くほど数は減り、下に行くほど数が増える。
おそらくこれは、その読み物を、無理なく楽しめる人間の割り合いの話でもある。

世の中、何事においても、全体の数を半分に割った真ん中辺り、それが、「普通」と言われるのであろうが、それは勿論、「スタンダード」とは違う。
周りが皆、大概はそうだから、というのでは、それは本当は基準には成らないし、成るべきでもない。
人としてのスタンダードは、残念ながら、そこにはない。
そこは、実際には、随分と下方である。
誰しもが、もう少し上を目指し、ちょっと無理をして、初めてスタンダードに追い付ける。
そこに基準はある。
誰が決めたのでもなく、絶対的な何かであるかのように、それは感じられる事だろう。
何故なら、そうであるようにと、人間は出来ているから。

この物語は、行き過ぎて、更にそれ以上を目指してしまい、世の中の「普通」に足を取られる人のお話であるが、要するに、「スタンダード」、ではなく、「普通」を基準として暮らしている人間には、単に理解する事、同情する事、ましてや見習い、実行するとなると、ちょっと難しい話ではある。

そういう事に意識的ではない人は勿論の事、あらゆる人間は、「悲の器」でしかない、そういう事なのであろう、か。

はしたて

2010年09月17日 | 京都
「京都の駅の、「巣箱」の中にある。」

胡瓜の浅漬け、その切り方ひとつにも、それは感じられた。
一塊を成しているのではあるけれども、一口齧ると、まるで精密機械の部品のように、内部まで、細かく細かく分かれている事がわかる。
しかし、齧ったその後も、全体が崩れることはない。
妙だな、と思い、その齧った跡を、まじまじと見詰めずにはおれない、素人には全く理解不能の切り口、それは、ある種のパズルのようですらある。

そして、頸を傾げながら、とりあえずといただいた薩摩芋の甘露煮に、正直、驚愕した。
さほど期待もせず、さっくり齧ってみると、あの薩摩芋特有の、もっさりした食感、そして風味は微塵もなく、しかしそれでいて、そこに感じるのは、薩摩芋独特の風味、それ以外の何ものでもない。
そのあまりの清涼感、そういう例えは、ありきたりでしかないのかもしれないけれど、例えば、鞍馬山の、貴船の反対側、人の寄り付かないその清流に流れる、キンと冷えた山水を手のひらで掬い、啜ってみた、するとその水が、なんと甘かった、そのような突拍子もない印象さえ受ける、衝撃的な意外性。
大袈裟だと思われるかもしれない、けれど、そのくらいの驚くべき爽やかな印象を、実際に受けた、たかが薩摩芋でしかないのに。
当然こんなものは、これまでの人生で、食べた事もない。

盛り合わせのメインである鴨にしろ、もう、絵に描いたようなハッキリとした、いや、それ以上に、立体的とも言える風味があると言うか、サッパリと、しつこくなく、勿論臭みなど微塵もなく、濃くはない、なのに、何故か鴨そのものとしか言いようのないその風味が、際立っている。

当然の事ではあるけれど、やはり料理の世界は奥が深い。
一子相伝とまでは行かないにしろ、やはり門外不出、一人の人間、そして勿論、素人ではどう足掻いても手に入れようのない、歴史の積み重ねによって編み出された技、そして知識が、ひとつひとつの素材に対して存在するのであろうその事を、この一皿からだけでも存分に窺い知ることが出来る。

感じた事は、キリがないけれど、もう一品だけ、書いてみようと思う。

ほんのりとした。
言葉で言うと、そうとしか言い様のない、しかし、同時に、しっかりした輪郭のある風味のお出汁。
その玉丼は、そんなお出汁で出来た、まるで出汁巻のような、軽さと重厚感、その両方を併せ持っている。
その上に、一見まるでお飾りのように、軽く火を通された見栄えの、鱧の切り身が5、6個、鎮座している。
鱧そのものは、これ以上ないというくらいに、あっさりと淡白な風味で、ほとんど味はないと言っていいくらい。
ただ、それは勿論印象であって、そこには鱧独特の風味が、当然存在する。
そして、特筆すべきは、その淵にある真っ黒な焦げである。
切り身の周りを薄く縁取る、むしろ黒い飾りの役割のようにしか思えないそれであるが、一定のその薄い幅のみ、完全に炭と化している。
勿論の事、その美しい、白と黒は別たず、その切り身を一口で口の中に入れると、淡白な白身とその炭が、交わるのであるが、交わらない風味で以って、えも言われぬコントラストを成す。
これは、奇跡である。

いや、ちょっと言い過ぎたかも知れない。
いやいや、言い過ぎでも何でもない、その通りなのであろうと、思える。

そしてやはり、玉丼は、京都の玉丼であり、山椒を振り掛けると、正にこう在るべき、という風味にブレンドされる。

店内に入らずとも、入口に立つと見渡せるオープンな板場で、若い板前さんが、日々、着々と手にしつつある伝統の技術、知識を駆使し、ありふれたお店にはないメニューを考案し、あえて奇を衒い、どこまでもチャレンジし、日夜、頻繁にメニューを変え、それでも食べる人に文句を言わせない、得体の知れない何かが、京都駅の、こんな隠れた場所にあったのである、畏るべし。

新町 招福亭

2010年09月15日 | 京都
「思い出の中に欲しい大衆食堂。」

思い返してみるにつけカゲロウは、生まれた街の町並みを、一週間以上眼にしなかった、そのような事など、これまでの人生にはないように思う。
本格的に引っ越しした事もなければ、どこかに下宿した事もない、旅行といってもそれ以上の事もない。
長期間、自分の生まれた場所から離れた経験がないのである。
あえて必要に迫られるという事もなく、成り行きのまま。

生まれた街でずっと暮らせれば、人生それ以上に楽な事はない。
それは、出来れば遠くに行きたいと思うような、心底辛い思いもしてこなかった、そういう事でもあろう。

そのせいもあってか、学生時代、下宿住まいの友人の部屋を夜な夜な梯子して、ある面、不便でありながらも自由なその雰囲気、彼らの気儘な日常感覚を共有させてもらい、日々の食事処に連れて行ってもらうというような事なども、度々であった。

そこに住んでしまえば、日々そういうお店に求める事の、何よりも重要な事というのは、立地的に、そして経済的にお手頃である事、そして居心地や、使い勝手の良い事などであって、そのお店が広く人気店であるからとか、抜群に美味しいからという理由ではないというのが、ほぼ実際である。

たまに寄せてもらうだけの人間にとっては、何と言う事もないそれらのお店、だがそれは、一時の下宿、その間だけでもそこに住む事になった人間にとっては、将来的には、掛け替えのないお店になるのであろう、その事は、当時からも何となく胸に沁みていて、むしろ、その時点で、自分が経験したことのない、下宿人である彼らにとってのそういうお店を、ぜひ見てみたいという思いで以って、どうと言う事のないお店だよ、そう言われつつも、ぜひそこに連れて行って欲しいと言い、連れて行ってもらっていた、そのように思う。

京都は非常に学生の多い街で、勿論学校も其処彼処に点在するのではあるけれど、やはり校舎のある地域というのは、ある程度決まっていて、街の中心部からは、やや外れる事が多い。

通りの交差する地点、その名称であるところの、五条新町、そこら辺には、何があるのか。
しいて大きな建物といえば、東本願寺くらいのもので、その信徒以外には、特に用向きのない場所ではある。

珍しく、茶蕎麦をいただく事の出来るという食堂、招福亭は、どちらかというと、五条というより六条に近いのではあるけれど、実際のところ、六条通りというのは、何の目安にも基準にもならない、細くて途切れた通りでしかない。
しかも、ここまで南に下ってしまうと、南北に走る縦の筋、新町通りも、車幅一台分がやっとの一方通行となっており、どこに抜けるにも、便利でも何でもなく、この辺りの住人ででもない限り、普通はおおよそ通る事はない。
特段、有名な学校があるというわけでもないし、自然、学生が下宿する事もあまりないであろうこの地域に、もし、自分が学生時代、下宿するような事があったのならば、その近所にぜひ欲しかったと思えるようなお店、招福亭は、そういう処にある。

茶蕎麦というと、少々特殊な蕎麦で、ありがちなのは、京都の観光名所、その近辺にある甘味処などで、連れられて一緒に入ったものの、特には甘い物を所望しないなどという、そのような類の人向けに用意されている事が、実際のところ多い。
そして実際、そういう時にいただいた、その茶蕎麦の印象もそのようなものであったが、特に、風味、歯応えなどの食感が、蕎麦として印象的であるというわけではない。
主にはその薄緑色の、艶のある麺が、彩りの良さで以って観光用に採用されている、そのような印象でしかなかった。

そしてしかし、ここ招福亭では、その茶蕎麦が、所謂お飾りというのではなく、普通に日常の一食として提供されているという事で、その実態というのが、やはり観光地と同じなのか否か、興味の湧くところではあったけれど、それは、これまでと同じく、特に蕎麦として印象に残るというものではなく、語弊を怖れずに記すのであれば、和蕎麦というよりは、むしろ中華麺に近い印象であったと言っても、大袈裟ではない。
それが特にそう感じられた理由、その結論に、即、到達したのは、季節柄、冷麺状に調理された茶蕎麦をいただいた、そのせいも大きかったであろう。

出汁は酸味が効いており、眼を瞑っていただいてみれば、おそらく中華麺で作った冷やし中華と、ほとんど区別がつかない。
普通、どう考えても和蕎麦にそれはご法度ではあるが、この蕎麦であれば、マヨネーズをかけても、何ら不自然ではない、むしろ、マヨネーズが欲しいくらいですらある。
だがそれは、成されない、やはり、和蕎麦の雰囲気というものを失ってはならない、そういう事であろう。
いくら味覚的にマッチしそうであったとしても、出先、人前でそのような事をするのは、やはり厳禁であり、何なら、そのように述べる事、それも、控えるのが賢明な事であろう。

たまごとじの蕎麦は、可もなく不可もなく。
そう言ってしまうと、何か物足りないかのような物言いではあるけれども、そういう事ではなく、あくまで自然、腹が減っていれば最高に美味しく、もし、場合によってそうではなくとも、それなりに満足感を与えてくれるという事でもある。

饂飩も丼物も、外見から期待して良いだけの旨さは併せ持っており、しかもその提供が、べらぼうに早い。
お嫁さんにしたいコンテストにノミネートされそうな、素朴な感じの女給さんに、色々と悩んだ末にそれを注文し、さて落ち着いたと思ったら、すぐに料理が供される。
出前の出入りも激しく、五条から新町に下る入口の角にある、後発のファストフードチェーンが、おそらくは、このお店のサービスを以前以上に、一層強化する結果を生んだのであろうと推測される。
地元に根付いた食堂の牙城は、その存在によっても、全く揺らいではいないであろう。

お昼、下宿からの出掛けに、ふと、何かお腹に入れておきたいなと思ったその時に、招福亭が傍にあれば、そこでささっと食事を済ませ、またここに帰ってくれば、自分の居場所と、このお店があると思える。
それは、とても幸せな事のように思える。
下宿はしたことがないけれど、カゲロウにはそんなふうに思えるのであった。

季楽

2010年09月09日 | 京都
「蕎麦の花の咲く処。」

法貴峠の途中、笑路という辻で折れると、犬甘野と呼ばれる処がある。

山の合間にあるその集落は、地形的に閉ざされてはいるけれども、寂れた陰鬱さはなく、問題なく、その集落だけでも経済を回す事も出来る、そのような充実した印象を受ける。
その土地に入って始めに目に付くのは大きな牛舎で、何十頭もいるであろう立派な黒毛和牛は、一頭、一千万円近くで取り引きされると、どこかで聞いたことがあるけれど、本当なのであろうか。
周りの田畑は青々と、稲はまだ黄金色に色付いてはいなかったが、秋に向けて、大いに豊かな実りが約束されているであろう事が、一見して窺える。
そして、何処にあるのか、具体的にその場所というのは確認できなかったのではあるが、その一角に蕎麦の畑があるという。

先日、とある蕎麦屋で茶蕎麦をいただき、その詳細などを一通り調べてみようと、ウィキペディアを漠然と見ていると、有名な蕎麦の産地として、この犬甘野という名が挙がっていることに、遅まきながら気が付いた。
住んでいる処からそう遠くないその場所に、そのような産地があるとも知らず、しかも、時期的にそろそろ蕎麦の花の咲く、その姿を見ることが出来るという事でもあった。

この犬甘野蕎麦のいただけるお店、季楽は、明るく大らかな雰囲気の集落の中にある、そのわりに、意外と地味な一角に、少々押し込められたような印象で、あった。
元々は、客商売をするために設置されたのではない場所であったのだろう、その建物は、近隣の農家が野菜を持ち寄り、仲間内で直に販売している、そのような長閑な雰囲気で、余所から客が来ようが来まいが、おおよそ、その成り立ちには関係はないといったような、のんびりとした風情である。
お土産物的な商品も、あるにはあるが、蕎麦屋自体も、近所の田畑で農作業の途中の人たちが、軽くお昼を摂りに来て、お蕎麦を食べ、また農作業に戻るといったような日常が、実態ではなかろうか。

蕎麦は、蕎麦粉の割合が多いもので二八、その他、通常に提供されるものは、四六であるらしい。
二八のものは、これ以上のものは見た事がないというくらいに、不規則、不揃いな蕎麦切りで、これぞまさにといった、手作りの味がある。
食べる方は、どんな人が打った蕎麦なのだろうかと想像せずにはおれないし、きっと、打った人は、その日に、この蕎麦を食べる人の事を想いながら、心を込めて打ったのであろうその蕎麦に対して、否が応にも好感を持ってしまう。

此処では、予約をすれば、自ら蕎麦打ちの体験も出来るといい、5人前程度を持って帰る事になるため、クーラーバックを用意するのが好ましいとの貼り紙があった。
蕎麦打ちは、営業期間中であれば常に出来るようではあるが、具体的には、今からもう一週間程すれば、蕎麦の花が咲くという事で、その花を見るために、開花に合わせて、また訪れることが出来るといいな、と思う。

風来房

2010年09月03日 | 京都
「夏よ、さらば。」

今年の夏、「青龍 セイリョウ」を、2度いただく事が出来た、それは、とても幸運な事でした。

赤い坦々麺のスープをベースに、多少の酸味を効かせつつ、ひんやり、さっぱりと仕上げられています。
コッテリと光る肉ミソは、単体でいただいてみると、かなり甘い味付け。

一方、細く割かれた、たっぷりのメンマ、これは、単体でいただいてみると、かなりの酸味です。
この後にスープを啜っても、もうその酸味があまり感じられない程に、
良い意味で、酸っぱいと言ってもよい、メンマの味付け。

そして、おそらくは、これがこのお店の、迂闊には凡庸に思われつつ、実は特殊なのであろう、麺なのですが、
一見普通の、どこにでもあるように思える、中華麺、です。
何となく、古臭いイメージを抱かせる、大雑把な、適当に茹でて放り出しただけのような、この麺。
正直、冷えてくると、途端にお互いが引っ付き合い、玉になり、つけ麺の場合などは、
その都度剥がすのも、ひと苦労です。

ただこちら、基本がつけ麺のお店なので、あえて言うならば、この特殊な「青龍 セイリョウ」に関しては、
そもそもぶっかけの状態なので、麺が玉になってしまうという困難は伴いません、念の為、申しますと。

そのような具合なのですが、この麺が、慣れてくると、抜群に良い。
いかにも普通なのだから、慣れるも何もないであろうとも思えますが、
何と言いますか、わかってくると、戸惑うくらいにピンポイントでど真ん中なんですね、麺に抱くイメージの。
しかも、食べてみると、やたら勢いのつく麺で、替え玉の人が多いのも当然、さもありなんと頷けます。
ただ、ボリュームがないというワケではないので、
替え玉せずとも、食後は充分に腹が膨れている事に気付かされます。
その点、ある意味、要注意です。

そして、その4つの風味、プラス水菜を一緒にして、一口でいただきますと、
えも言われぬ食感、そして風味が、口中に充満いたします。
モチモチと、シャクシャクと、ザックザクと、そして、マッタリと、
そこには、時には化学変化、時に魔法、そして時にはマリアージュと呼ばれる、
そのようなものが、確かに存在いたします。
これら、あまりにも別物の、各々の個性ある風味が合わさり、バランスをとって、
他のどのような組み合わせであっても生まれる事のない、独特の旨さを創出せしめた麺、
それが、「青龍 セイリョウ」なのです。

荒々しくも根源的、それでいて地味で地に足の着いた、スタンダードな良さ、それは残しつつ、
ありきたりではない意外性、意図的に雑なイメージで奇を衒った、どうにも無視できない表現、
そこに惹かれるのであろう、個人的な嗜好。
それが料理であろうと、音楽であろうと、物語であろうと、魅力的である事に別はありません。

本物で在りつつ、尚且つ、色物である事、カラフルでありながら、朴訥にナチュラルな、
しかし刺激的で雑然としたその在り様、これほど魅力的なお料理は、
実は、今まで見た事がないのかも知れません。

ところで、この「青龍 セイリョウ」、今夏は8月31日にて終了との事です、夏よ、さらば!